第116話







罪人つみびとの道は曲がっている、潔白な人の行いは真っすぐである。


     ――――旧約聖書 箴言 21:5-6







暗闇の中で、一人の少年が目を覚ました。

その少年――ライトは緩慢な動きでその瞼を開いたが、しかしそこから覗く瞳からは意志を感じなかった。なれば目を覚ましたという言葉は相応しくなく、ただ目を開いただけなのだろう。

そこになんの意図も思いもなく、ただ茫洋と漂う意志なき意思によって。

であるからして、やはり彼は何の思いも抱かない。


ここは何処で、何故ここにいて、意識を失う寸前まで何をしていたのか。

普通なら抱くであろう疑問の一つも浮かべる事もなく、ただ虚ろに開かれた目を以て虚空を見つめるのみだった。



――だが、その目には初めて感情らしき色が灯る。



「おはよう、気分はどうだい?」



最も、その感情とは憎悪と恐怖と後悔であったが。


「あぁ...ぁ、ああああああああ...うぁ、ああ...」


しかし、その状況を作り出した元凶である目の前の男に怒りをぶつけようとすることはなかった。意味もなく、ただ狂人か廃人の様に譫言を垂れ流すだけである。


「...チッ、やっぱもう壊れたか」


彼にとって、目の前の仮面の男は世界で二番目に憎い存在であった。自分が拷問されたのも、ミアを殺されたのも、全てその男のせいだったからだ。

しかしそれ以上に、この世で最も憎い存在である自分自身への止めどなく溢れる負の感情。世界で二番目に憎い存在ですら、それを際立たせるだけとなる。


彼の脳味噌は大きすぎる罪の意識に苛まされ、人ならざるモノに蝕まれ、また病によっては幻覚と現実の区別を付かせなくしていた。

その病とは現代――彼らにとっては古代――医学で言う統合失調症、それもかなり重度の症状だ。精神科医が彼を見れば問答無用で精神病院にブチ込まれるであろう。

食事も取る事が出来ない、つまり他人の援助を受けなければ日常生活が困難。日本では一級精神障害に分類されるレベルの精神の病だ。


いや、精神の病気、心の病気などと言うが、それは間違いであろう。

強いストレスという要因はあれど、それらの病はそもそも前頭葉の萎縮或いは脳の物質バランスの崩壊という科学的根拠に基づく原因によって起こるのだから、心の問題でも気持ちの問題でもなく脳の病なのだ。


しかし、であるらして彼は自身の愚者の証ユニークスキルによって治す事は出来ない。


彼のそれは治癒力を高める訳ではなく、ただ時間の巻き戻しによって体の状態を元に戻しているだけなのだ。脳にまでそれを使ってしまったら、記憶や人格にも影響が出る。というか記憶を戻しても彼が犯した――少なくとも彼自身はそう思っている――

罪とそれに伴う強烈な罪悪感と自罰的な思考はなくならないだろう。

わざわざ自分で記憶喪失になったという点に於いて、罪から逃げてしまったとより苦しむだけである。

もっとも、彼はそんな事を考えなど出来はしないのだが。


まぁ簡潔に言えば、彼は自身のトラウマとサラの死という強いストレスを原因とした前頭葉の萎縮、魔王化による人格の歪曲、ついでとばかりに付けられた遺物の弱体化――意志力を含む――の呪いによって、最早廃人と化していた。


そしてその様子を見て話す事を諦めたのか、エルは溜息をついた。


「ハァ...時間の無駄か。やるべき事をしよう」


そう言うと、彼は何処からともなく剣を取り出した。

禍々しく呪いの具現化のようなその剣には、ライトの片目から広がる黒い文様と同じものが刻まれていた。


「【――――】」


エルはそうして何事か呟いた。

それと同時に、ライトの意識は再び闇に落ちる。







「...なんだと、もう一度言ってみろ貴様」

「だからあげるよ、これ」


オリヴィアにとって、仮面の男はいつも突然現れとんでもない事を言い出すヤバい奴だった。

今回もその例に漏れない。魔獣討伐にサラスティアを組み込まれた事を確認するなり国境線で暴れまわり、ふと消息が途絶えたと思ったら目の前に現れた。


それも、特大のとんでもないブツを担ぎながら。


「サラはこれを守るつもりだったみたいだからね、僕の方からぶんどって来たのさ」


そう言って、エルはどさりと荷物か何かの様にそれを地面に投げ捨てた。

見間違えでなければ、それはライトであった。


「...私にどうしろと」


とは言え、今回に関してはエルの行動が全く理解出来ない訳ではなかった。

ヴァルターら魔獣討伐隊が作戦に失敗したのかどうかは未定だが、彼らは第二目標として魔王――つまりライトの確保が命令されていた。であるなら、エルの言う通りサラがライトを確保し、王国に引き渡してなるものかという所でエルが強奪したのだろう。また、サラがライトを王国に引き渡したくない理由にも心当たりがある。


魔陣営に押されてばかりの王国は今、分かりやすい戦果を欲している。大罪人かつ魔王のライトなどうってつけだろう。

だから王国はライトを処刑するはずだ。この世の苦痛を詰め込まれた様な残虐に、鬼の首を取ったように。


オリヴィアとてそれを分かっているが、だから何をしようとは思わなかった。ライトとは面識もないし、彼が罪を犯したことに変わりはないのだから、処刑は妥当であろう。だが悪趣味な拷問の末の処刑というのは避けたかった。


騎士団や魔術王、懲罰部隊は大反対するであろうし、サラの姉であるクリスティアもまたそうだろう。ここで最高戦力らの結束を失う訳にはいかないのだから、やはりライトを処刑させる訳にはいかないのでは。


そうオリヴィアは判断した。


しかしオリヴィアの心情の変化を察したのか、エルが仮面の奥から覗くその不気味な目を細める。


「お前は軍人だろう、オリヴィア。ならばやるべき事をしろ」

「っ...そう、だな」


言われて、オリヴィアはハッとした。それは政治屋が考える事だ、軍人ならば上からの命令以外の事はしてはいけないのだ。

腐った王国上層部ではまともな判断は出来ないだろう、その判断によって我々の結束は失われるかもしれない。


だがオリヴィアは軍人である。

それでもライトを捕らえた事を上に報告しなければならなかった。








最初は彼女の予想通りであった。


裁判など掛けられる訳はなく、捕獲が確認された時点で処刑の準備が進められた。反対した貴族は一人もおらず、娘を殺されたクラーク公爵の憎悪もあって、貴族議会で最も時間が掛けられたのは処刑の有無ではなくどのような処刑にするかという内容であった。


しかし、彼女の予想通りだったのはそこまでである。


騎士団は反対しなかった。団長とライトの間には個人的な関係はあるが、彼は公私混同するような人物ではなかったのだ。

魔術王もまた反対しなかった。愛弟子であり娘であったミアの死が確定情報となった今、ライトを庇い立てる気は起きなかったのだろう。


また、痛覚に何の反応も示さないという――数時間に渡る拷問によって齎された――情報によって、責め苦を与えて殺すという方針は変更を余儀なくされた。

国民は怒りの矛先を求めているのだ。罪人が苦しみ絶望する姿を求めているのだ。ならば、痛覚のないライトに拷問は無意味だ。


ならば手っ取り早く火刑にしようなったが、しかし回復系のスキルを持つライトをそれで殺せるのかという疑問によって、結局公衆の前に晒した後斬首刑という事になった。


しかし、「案外楽に死ねそうで良かった」と安心しかけたオリヴィアを再び驚愕させるような情報が入って来た。


なんと、ライトを戦線に投入する事になったのだ。

ライトを死なせて堪るかと決意を胸にしたサラと王国上層部の交渉によってその様な結論へと至ったらしい。


確かに猫の手も借りたいような現状ではあるが、人魔大戦で魔王の手を借りるなどおかしな話だろう。制御できない兵器は兵器として運用してはいけないというのは何時の時代の格言であったか、しかしその通りである。

まともな精神状態ではないライトは戦えないだろうし、ならば国民の鬱憤を晴らすために死んでもらった方が良いはずだ。


首を傾げるオリヴィアだったが、幾つか心当たりもあった。

エルがゴリ押したのだろう。アイツは王族含め多くの権力者を脅しているのだから、大体の無理は通る。王国の決定権など最早ないに等しいのだ。


しかしそれでも分からない。そもそも、ライトを戦場に送り付けたところでどうなると言うのか。

戦場という地獄にその精神を擦り潰された兵士など数多く見てきたが、ライトは彼ら以上にいた。最早、彼の為を思うならば処刑こそが最も慈悲のある選択であると思えた程だ。


だが、その問いの答えもまた直ぐに知る事となる。



オリヴィアは知る由もない事だが、拷問された後のライトの精神状態は今ほどではないにしろかなり酷い物であった。

ミアの献身によってある程度持ち直したとはいえ、そんな精神状態でも王国軍と戦えた理由は一つのみ。

エルも、ライトを戦わせるにはそれしかないと分かっていたのだろう。

サラは自分の行動によってライトが再び傷つくのは心が張り裂ける思いであったが、しかし彼の命には代えられなかった。



だから、王国とサラはエルの要求を呑んだ。


そして、エルの要求とは。






サラを人質としライトを戦わせる事である。






罪は再び繰り返される。



ライトは再び大切な存在の為に戦場に送られる。


以前より大きな力と罪をその手に抱え、絶叫する心と血に染め上げられた魂で、彼はなお戦う事を強要される。


それが引き起こすのは、果たして地獄か。



...それ以外、ないであろう。







――――――――――――――

なんかふと思ったんだが、聖句ってかっこよくない?

キリスト教の学校だからよく接する機会があるからかな。

まぁともかく今回からたまに導入するぜ。頻度はサブタイトルと同じくらいって感じで。ではまた

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