第53話 罪は過去に、未来に、今に。
精神がゴリゴリと削れてゆく。
血と臓物、汚物が散乱する地下壕の中で、パラパラと降りかかる土片を眺めながら、ただ只管に時間が過ぎるのを待つ。
いつ崩れるとも知れない仮初の安全の中で、常に存在を主張し続ける死を傍らに侍らせる。
全員の目が死んでいた。
それでも、生を諦められない連中だけが俯かずに堪えていた。
横には死が佇んでいる。
上には死地が広がっている。
前には地獄がある。
後ろからは狂気が迫っている。
それでも、ただ心を無にして耐え続ける。
この先に待つのは希望だとか、生だとか、そんな事は考えても居ない。
ただ無だった。感情という感情が死滅して、それでも微かに残っている恐怖と生への渇望の残滓が、彼らを生者たらしめていた。
時間が過ぎるのを、ただ只管に待つ。
待って、待って、そうして時間が過ぎ去ってゆく。
「ぅ...」
先の惨劇から数時間くらいだろうか。
感情さえも映らない茫漠とした目がその動きを捉えた。
「おい、大丈夫かデイビッド...!」
僅かに上下する胸だけが、彼の生を証明していた。
しかしそれだけ。一瞬を切り取って絵にすれば、彼は只の死体に見えただろう。それほどまでに生気を感じない姿だった。
しかし、そんな彼がやっと動きを見せた。
顔を険しく汗を浮かべながらも、彼はゆっくりと目を開く。
「...サム?」
「あぁ、俺だ!答えてくれ、体調はどうだ...!?」
急かさずに言おうとしたが無理だった。どうも言葉に焦りが滲んでしまう。
だが構ってはいられない。
正直に言えば、彼の事は心配でならなかった。傷そのものではなく、そこから何らかの感染症にでも罹ってしまったのではと。
戦場での傷は恐ろしい。
例え命からがら生き延びようとも、大きな傷を負ってしまえば誰がそれを喜べようか。それは生き延びたのではなく、ただ死期が――即ち苦しむ時間が伸びただけなのだから。
特に、今のような適切な処置が叶わない状況では尚更だ。
「...頭が痛い」
「熱とか吐き気は?」
「少し、ある」
あぁ、クソ。最悪じゃないか...絶対に不味い状況だ。
何らかの感染症か?どうすれば良い、傷を洗えば良いのか?
何も分からないが、このままじゃ絶対にダメな事だけは分かる。
(クソッ、誰か知識のある兵士でも居れば...)
いや待て、じゃあ聞けばいいじゃねぇか。
今さらの様に気付く。小隊規模なら一人か二人くらい衛生兵が居るはずだ。色々重なり過ぎて気が動転していた。
「衛生兵...いや、何でも良い。誰か医療の知識があるヤツは居ないのか?」
「...そこに転がってるヤツが衛生兵だった」
兵士は顎を動かして言う。その視線は下半身の無い死体に向けられていた。
つまりはそう言う事。少しばかりタイミングが遅かったらしい。
「...すまねぇ」
やっぱり神ってクソだ。
苦々しい思いばかりが湧き上がる。
「ひっ...どういう状況なんだ...!?」
体を起こしたデイビッドが悲鳴の様に言った。
まぁ、かなりショッキングな光景である。残酷で悍ましいこの地獄の光景は、自分と同じスラム育ちの彼にとっても到底受け入れられるものではない。
「ここは地下壕だ。俺がお前をここに運んだ」
「説明になってない...!なんで、こんなっ」
「敵が馬鹿みてぇに攻撃を続けてんだ、そのうちの一つが直撃したんだよ」
デイビッドはあから様に動揺していた。
起きたら周りに臓物やら生首やら死体やらが広がっているのだ、無理もない。
「なんで、何でそんな冷静なんだよッ...!」
「――うるせぇぞガキ。少し黙れ」
誰かが苛立ちをぶつける。
壁にもたれ掛ける兵士たちは皆、憔悴しきった表情を浮かべていた。
冷静な筈がないのだ、俺も、彼らも。ただただ、何かを感じる心が死んでいるだけなのだ。
「っ...すいません。混乱してました」
ばつが悪そうに謝罪する。
デイビッドは純粋なヤツだ。酷い光景を見れば悲しみ恐怖する感受性を持っている。俺達のように死んではいない。削られる前の精神が彼にはある。
「いずれお前も慣れる」
まぁ、どうせアイツも俺達の仲間入りするさ。
そんな一種の諦観だけが心にあった。
「かフッ...慣れたか、ないね」
――なんだ、今の咳。
今にも死にそうなヤツがする咳じゃねえか。止めてくれよ。
「おい、頼むから生きてくれよ」
返事は無かった。
顔を見る。生気がなくて、苦しそうで、でも何処か諦観のような表情を浮かべていた。あぁ、嫌だ。それは今から死ぬ兵士の顔じゃないか。
「なぁ、もし俺が死んだらさ」
「やめてくれよ、今から死ぬみたいな話は...!」
遺言みたいじゃないか。最期の頼みみたいじゃないか。
何でそんな話をするんだ。お前は今生きているだろう。死にやしない。どうせこの魔術の雨は止んで、後方部隊に連れて行って、そんで良くなるんだ。
「どれだけフラグ立てるつもり――」
「サム」
「っ、クソ...なんだよ」
「これ、頼む」
そう言う彼の手にはネックレスが握られていた。
安っぽいガラスの破片に紐を通しただけの、ガラクタみたいなネックレス。
けれど、それは俺達の宝ものだった。スラム街に落ちてたゴミを宝石だと思い込んでいたあの時、家族の全員で一緒に作った、思い出と友情の欠片。
俺と、デイビッドと、マリーと、エマ。四人はずっと一緒だなと笑いあったあの時の光景は、今でも鮮明に思い出せる。
「...なぁ、本当に死ぬつもりなのか」
「もし、って言ってんだろ。そんな顔すんなよ」
顔には笑みを浮かべているけれど、間違いなく本気だった。
ならばもう、俺にできる事など、
「...分かった、任せろ」
ただ頷く事だけだ。
〇
彼が加わったとて、彼から宝物を託されたとて、やることに変わりはない。
ただ心を無にして耐え続けるだけだ。
待って、待って、ただただ時よ過ぎろと願うばかり。
最初は苛立ちや恐怖を浮かべていたデイビッドの表情も、やがて俺達のように無に近付いてゆく。疲労と憔悴のみが彩る兵士の顔だ。
何分、何時間、或いはもう一日経っているかもしれない。
心臓を揺らす爆発音が止まってくれるその時を待ちながら、ずっと虚空を眺める。
そうして、時間は過ぎ去ってゆき―――
「...止んだ?」
長い時間が過ぎたその時、誰かが恐る恐るそう言う。
覚醒と微睡の狭間で朦朧とする思考が瞬時に冴えた。やっとか、そう期待を込めながら耳を澄ませると、
――――...... ――
広がっているのは静寂だけだった。
絶えず鼓膜を揺さぶっていた爆発の連続は今や完全に止んでいて、世界はやっと本来の音を取り戻したんだ、と何処か他人事のように思う。
「クソっ、やっとかよ...」
喜びは湧かなかった。
むしろ、耐えていた疲労がドッと襲ってきて、今にも倒れ込んでしまいそうだった。安堵の息を吐く。
取り合えずと前置きはつくものの、俺達はこの地獄を生き延びた。
「外は...外はどうなってる」
兵士の一人が立ち上がって歩き始める。
疲労のあまり亡霊のようにも思える。憔悴しきった表情がよりそう思わせる。
しかし、その目の奥には一筋の光が宿っていた。
「行こう、サム」
「...あぁ」
暗転しそうな意識を叩き起こして体を持ち上げる。ずっと同じ体勢だったからだろう、ギシギシ、ボキボキと異音が体内から鳴り響いた。
「くっ...」
背後から痛みに耐える声。
振り返れば、デイビッドが顔を歪めながらも立ち上がろうとしていた。
「無理すんな」
「...助かる」
その腕を担ぎながら、二人で地下壕の出口を目指してゆっくりと歩を進める。
地面へ沁み込んだ赤黒い血を踏み、散乱する臓物を乗り越えて地下壕の外へと。
踏み締めるように、ゆっくりと。
そうして外へ足を踏み出す。
眩い太陽の光が視界を白に染め上げる。目を細めて取り戻した視界で、再び世界を見る。
「あぁ...」
己が今吐き出した声には、果たしてどんな意味があるのだろうか。
丁度太陽が顔を出していた。朝日、つまりは状況が急変してからおよそ二十時間ほどが経過した事になる。
魔術障壁越しに見る曇った色ではなく、勿論敵の魔術やら爆発やらもない。静けさのみが広がる朝空だった。
地形が変わっている。クレーターだらけのこの戦場は、荒れ地とも呼べない程に荒れ果てていた。生命の欠片も感じる事のない虚無だった。何もかもが破壊された後とも言えるだろう。
生き残った。生き延びた。
俺達は、あの巨大で理不尽な暴風のような攻撃を凌いだ。
それがどうも現実味が無くて、ただその事実を胸に沁み込むように実感する。
「今は喜べ、お前ら!俺達はあの地獄を乗り越えたんだぞ!!」
背後から鼓舞するような声が聞こえる。
ガバックが拳を突き上げながら叫んでいた。喜びの感情が湧かない、それは心が死んでいる証拠。それは絶望となって心身を蝕む。
だから無理にでも喜ぼう、そんな意図が簡単に見て取れた。
だって、叫ぶガバックの表情だって疲労に染まったものだから。
「...うおおおお!!」
「俺達は生き延びてやったぞクソがァあああ!!」
「ああああ!!よっしゃああああー!」
血と疲労に飾られた叫びは不格好で、少しヤケッパチに見えた。
それでも生を叫び、天へ見せつける姿はどこか力強かった。
それを見れば、じわじわと、胸の中に暖かみが宿り始めた。
本当にキツかった。ただ心を無にする事でしか耐えられないような苦痛だった。けれど、俺達はそれを乗り越えた。
死んだ心が蘇り始める。
無色だった感情が色を取り戻し始める。
「俺達、生き延びたんだな...」
「...あぁ、今も生きてる」
ポツリ、と言葉を吐く。
意味のない、ただの現実への感想。
しかし、それで初めて理解した気がした。
生を、実感した気がした。
「よし...よし、よしっ!!やったなサム!!」
「あぁ、あぁ!俺達は今生きてるぞッ!!」
気付いたら涙が流れていた。
互いに肩を抱き合いながら、己の生を実感しながらただ喜ぶ。
あぁ、本当に良かった。クソみたいな苦痛だったけれど、地獄かってくらいキツかったけれど、俺達はそれを乗り越えたんだ。
「ったくよぉ、今にも死にます、みたいな雰囲気出しやがって...これ返すぞ」
肩を叩きながらネックレスを突き返す。
まったく、本当に心臓に悪い野郎だ。遺品みたいに託しやがって。
「あぁ、悪いな。心配させちまった」
彼もまた笑みを浮かべながら手を開く。
まだ予断を許すような状況ではない。依然として彼は死の淵にいる。
けれど、きっと大丈夫。
こうして俺達は生きていて、これから後方部隊にコイツを送り付けて。そうすればきっと、コイツは生き残れる。
安堵と喜び、期待が胸を満たす。
やっぱ神ってのも捨てたもんじゃなぇな、なんて思いながら。
俺はデイビッドにネックレスを――――
――――ゥゥウ...ンッ...
しまった、なんて思ってももう遅くて。
喜びという毒が回り切った兵士達に、咄嗟の回避行動なんてできなくて。
「サムッ!!」
必死の形相のデイビットが、思いっきり俺を突き飛ばした。
何故...と、思考はそこで中断される。
―――ドゥッ ウ゛ウ゛ゥ゛ーーン ッガアァァアアアアアンンッッッ!!
世界が回転する。体に衝撃が走って、爆音が脳を突き抜ける。
衝撃、熱、風、そして浮遊感。吹き飛ばされた。
「ぁあああああッ...!!!」
炎に染まった視界の中、ただ混乱と恐怖のみが思考を占領する。
どうなってんだ、俺は生きてるのか。
疑問の答えは痛みのみ。
「ぐぁ...ッハ!」
全身を打つ衝撃、耳元で発生する落下音と明滅する視界。
慣性のままにゴロゴロと無様に転がる。
全身の皮膚が熱い。地面の上を転がったせいで大量の切り傷ができたのだ。まだ明確な激痛は襲って来ない。
「ぐゥ...クソっ」
右手に違和感があった。全身の至る所が熱く感じるのに、右手だけ感覚がないのだ。
――けれど、今はそんな事はどうでも良い。
「デイビッドォ!!」
声を張り上げながら周囲を見渡す。
頼む、頼む、頼む。お願いだから無事でいてくれ。あれだけ死亡フラグ立てといてキッチリ死ぬなんて馬鹿げてる。
「あがあああアァァアッ!!誰かァ!水、水をくれぇええ」
「足...ッ、俺の足がああァ」
「い゛だい゛ィ゛いいィ!」
――あぁ、やっぱり神はクソ野郎じゃねぇか...ッ!!
なんて事しやがる。
なんでこのタイミングで。
さっきまで、皆生きてたんだ。生きている事の喜びをみんなで分かち合ってたじゃねぇか。俺達は地獄を乗り越えたんだって、そう言ってたじゃねぇか!!
神に感謝してるヤツだっていた。主よ、救いに感謝しますってなッ!!
なのになんだ、これは......!!!
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!!ふざけんなよ!!
―――兵士が死んでいる。
あの地獄を乗り越えた兵士達が、死んでいる。
炎と踊っている。水を、助けを求めて滑稽に踊っている。
血に溺れている。己の生命の源をドクドクと溢している。
「デイビッド...!」
なんだ、なんだこれは。
さっきまで歓喜の絶頂に居たってのに、こうも叩き落されるものなのか。
「デイビッドォッ!!」
何度叫んでも返事はない。誰からも言葉は帰ってこない。
ただ、断末魔と、悲鳴と、遺言と言うには悍ましすぎる言葉の数々が返って来るだけだった。
「くそォ...」
膝をつく。
絶望が心を埋め始めていた。
俺達が何をしたってんだよ、神様。
そんなに許されねぇのか。ただ生きたいだけなのに...!
―――――ウゥンッ......ドゥッ ウ゛ウ゛ゥ゛ーーンッッ!!
再び着弾、爆発。
それが切っ掛けなのか、続く様に爆発が連続する。またあの地獄が繰り広げ始める。また、あの魔術の雨が降り始めた。
「クソッ...連中、俺達が外に出るのを待ってたのかッッ!!」
それ以外にありえない。狙い澄ましたタイミング。
一度攻撃を止めて、油断しているであろう時に再び攻撃を再開したのだ。差し詰め、甲羅に引っ込んだ亀の首を叩き切るように。
なんという残酷さだろうか、冷酷さだろうか。
容赦なく、蟻の子一匹生かさぬ攻撃をしてなお満足せずに、執拗に、執拗に、執拗に、執拗に、執拗に執拗に執拗に執拗に執拗に執拗に執拗に執拗に!!!!!
何度も何度も何度も何度も何度も魔術を撃ちこんで!!
何人も、何十人も、何百人も、何千人も殺しておきながら!!!!
「まだ、まだ殺し足り無ってかァッッ!!?」
あぁ、筋違いだった。
何故俺は神を憎んだ?筋違いにもほどがある。
敵はアイツらだ。俺達を殺し尽くさんとする、あの虐殺者どもだ。
無慈悲で冷酷で、人でなしの屑共だ...ッ!!
体中に染まり上がった憤怒のままに、全力で拳を握りしめようとする。
「...あ?」
――そこに、違和感を感じた。異物が、拳を握るのを邪魔する何かがあった。
嫌な予感がする。きっともう後戻りできない。決定的に、俺という存在が歪み壊れる予感。
しかし止める事などできなかった。
ギリギリと錆ついてレバーのように首を回す。
「は、」
目についたのは、赤黒く爛れた自身の右腕。
痛覚を伝える神経さえも焼け落ちたのだ。だから感覚が無かったのだ。
―――しかし、そんな事はどうでもよかった。
「...ぁ、あ...ぅあぁあ、あ、あ...」
手が繋がっていた。俺は何かを握り締めていた。
焼けて変色しようとも見違えるはずがない。
―――それは、デイビッドの右腕。
デイビッドは死んだ。その事実がそこにはあった。
真っ当な死に様ではなく、真っ当な死体すら存在せず、ただ右腕のみが彼の死を克明に伝えていた。
互いの拳の奥、鈍い光が目につく。
「あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛ァ゛ッ!!殺してやる!!殺す、殺す、絶対に...!!何があっても、どんな事があっても、殺してやるよォッ!!」
きらり。
ガラスの破片が、炎を反射して薄く輝いていた。
――――――これは、ただのありふれた話。
一つ目などではない。大きくもない。
とある少年が犯したありふれた罪で、そのきっかけの一つ。
こんなものは、彼が作り出す地獄に比べれば何てことはない。
罪は罪なりし、罰は重ねる罪故に。
人の命は等価ではない。無限の価値など存在しえない。
しかし、人を殺す事は等しく大罪である。
罪は過去に、未来に、今に。
これは一つの物語の終着点であり、一つの物語の出発点にして、ただの通過点に過ぎないのだから。
―――――――――――――
※2024/11/26 修正
以降は修正が間に合ってないです。修正前と後では展開含め様々な変更がされているため、唐突な場面の変化や大量の矛盾が発生します。申し訳ございません。
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