第43話 繋ぎ、救われ




 サラが居る部屋など知らないのが不安と言えば不安だったが、どうやら問題なさそうである。


 廊下の奥でこちらを見る兵士と目が合った。槍を片手に立つ彼は、どこからどう見ても見張りの兵士である。

 その扉の奥に大切な何かがある様に、綺麗な姿勢で油断を見せずにそこに居た。その向こうに誰が居るのかなど直ぐに分かった。


「アレクシア様から話は聞いております。どうぞ」


 見張りの兵士はそう言って体を扉の正面から横にずらした。

 あぁ、と短く言ってから扉を開ける。


 その向こうにはやはりサラが居た。

 ぼんやりと窓の外を眺める彼女からは、不思議な事に生気が感じられない。毒に犯され苦しんでいた時は風前の灯火のような危うさを感じたが、今の彼女からは儚く消えてしまいそうな危うさがあった。


 なんと声を掛けた物か。内容が軽い物ではないだけに悩ましい。

 扉を閉めてからベッドの傍に歩み寄り、先のアレクシアと同じように近くの椅子に腰を下ろした。


 椅子が軋む音が二人の間に響いた。サラがやっと俺の存在に気付いたらしい。ぼんやりと、何処を見ているのか分かららない目のまま俺の方へ顔を向ける。


「体調は戻ったか?」

「...あ、うん。助けてくれてありがとうございます」


 会話、と呼ぶにはそよそよしいだろうか。

 俺にはその場繋ぎの意図しかなく、彼女もまた心の籠っていない言葉で返した。中身のないやりとりである。


 クソ、やりづらい。もう本題に入ろう。

 深呼吸を一つ、そして彼女の目を見据えながら口を開く。


「君のお兄さんから遺言を預かっているんだ」

「...え」




 〇





「遺言、ねぇ...」


 それは不穏な言葉だった。明日、自由と生を掴みに行動を起こすとは思えない言葉だった。成功の可能性が低い事は分かっている。それでも彼には自信がある様に見えたのだ。決心と覚悟が、失敗した時の事など考えないとでも言いそうな信念も。

 故に、そんな彼が遺言なんて口にするのは意外だった。


「頼むよ。唯一の心残りなんだ」

「いいぜ、俺は役に立てねぇからな」


 今思い返せば、彼は端から死ぬつもりだったのかもしれない。

 上手く行けたら良い。そうでないなら死のう。そんな気持ちだったのではないか?

 そうでなければ説明できない。あれほど大切な妹が居て、彼女との約束の為に生きて帰ると豪語したにも拘らず...あの時、彼が自分でなく俺を選んだ事が。死への躊躇を欠片も見せなかった事が。


 あの時の俺は勘づきもしなかった。生か死か、その二択だけで考えていた。彼から生きる理由を託され、地獄の中で苦しみ続けるという選択肢が残っているとは思いもしなかった。

 だからこそ簡単に預かってしまった、彼からの遺言を。


「サラスティア、という少女が居る。俺の妹だ」


 語る彼の表情は誇らしげだった。自慢の妹なのだろう。愛しさを隠しもせずに言葉を続ける。


「彼女への遺言だ。多分、俺が死んで一番傷付くのは彼女だから。俺にとって一番大切なのは彼女だから」


 追憶の最中、彼が最期に浮かべた表情が瞼の裏に映される。未練と悔しさだった。自決に一切の躊躇いは無かったけれど、生きたかったに決まっている。あの表情はきっと、遺す事になる彼女への申し訳なさもあったはずだ。


「――親愛なる妹へ」


 彼はそうして遺言を語り始めた。

 俺は追憶と共に、語られた遺言をそのままに口を開いた。


「言葉が直接届けられないのが悔しいけれど、時には運命に従うこともまた王族の務めなのかもしれない。

 先ずは謝ろう。約束を破ってしまった兄さんを許してくれ。

 俺は生まれながらにこの国を守るための定めを負い、それゆえに生き、あるいは死ぬ。定めの一言で済ますのは随分と寂しいけれど、きっとそういう物だと思う」


 諦観だろうか。彼が語っていた時の声色は、表情はどんなものだっただろうか。良く思い出せない。一言一句違わずに遺言は覚えていたけれど、それ以外の色んなはどんどんと色褪せている。


「お前を救えた。それが俺の一番の誇りだった。今はサラスティアの存在そのもだ。お前が生きているだけで、俺の生に意味があったと思える。それは何よりも素晴らしい事だとは思わないか」


 今は只、一人のメッセンジャーとして言葉を続ける。

 それが俺のやるべき事だ。感傷を捨て去り、あの時託された言葉の媒介者となりて彼女に、サラに遺言を伝える。


「俺が望むのはサラスティアの幸福だ。人生には多くの苦難が待っている。それでも、それを越えた先にあるのは幸福だと信じている」



 サラの目には色が宿っていた。

 虚ろで茫洋とした瞳に涙という輝きが、そして人らしい感情の色が宿っていた。

 唇を噛み締めて涙を堪えるように、ただ黙って遺言を聞いていた。


「だから必ず生きてくれ。お前は俺の妹だから」


 そうして遺言は届けられた。

 目の前にはサラが居る。彼にとって何よりも大切だった存在。俺にとっての剣のような物だろうか...いいや違う。思い浮かんだ言葉を即座に否定する。

 比べるのも烏滸がましい。比類なき親愛と劣等感が生み出した執着など。


 これが愛という物なのだろう。或いは覚悟、信念とでも呼ぼうか。俺にはない物だった。自分という存在が、心の底から下らなく感じる。


「...これで遺言は終わりだ。本当に真摯なヤツだったよ」



 湧き上がる自己嫌悪を他所に、俺はそう終わりを告げた。


 彼女の口からは言葉は紡がれない。ただ嗚咽と、抑えようとしても抑えきれない鳴き声が部屋に響く。

 兄さん、と。零れ出した言葉にはどんな意味が籠っているのだろうか。もう会えないと強く分かってしまって、ただ悲しく彼を求めるようにも思える。けれどそれだけな筈がない。感謝、親愛、言葉にできぬ感情の数々が混ざったその声色は形容にし難く、ただ言えるのは俺に胸騒ぎを齎すという事だけだった。


 彼女は声を押し殺して泣き続ける。

 その手を取るのは憚られた。先日のように、俺が居ると傲慢に言う事はできなかった。俺が居なければ、足を引っ張らなければ。彼女の顔に涙はなく、ここに居るのはアベルだったかもしれない。


 俺は彼女の様な存在に触れて良い人間じゃない。もどかしく、痛む心を無視してただサラを見守る。


 数十分だろうか、或いはもう一時間は経過しただろうか。

 やがて、彼女は落ち着きを見せ始めた。子供のような嗚咽はとうに止み、ポロポロと溢れていた涙も経った今止んだ。


 強引に目を拭う。彼女は泣き腫らした目で、鼻を啜りながら俺を見た。


 ――あぁ、見た事がある。


 その目の奥に宿る何かに何処か既視感を覚える。頼りなく消え去りそうだった彼女ではなく、風前の灯火の如き危うさを持っていた彼女でもない。

 迷いがなくなった目だ。きっと、アベルから思いを託されたのだ。だからあんな目が出来るんだろう。さっきまで泣いていたと言うのに、その目に浮かぶ強さは俺には手が届かないように思える。


「ありがとう、ございます。兄さんの言葉を伝えてくれて――」

「止めてくれ。君の兄は俺のせいで死んだんだ」


 その目を直視できなかった。

 真っ直ぐに俺を見つめる彼女の金色の瞳は、あまりにもアベルのそれにそっくりだった。やめろ、俺をそんな風に見るな。

 君の兄さんを殺したのは俺だ。君が俺に向けるべき感情は感謝ではない。


「だけど、貴方は私に伝えてくれた」

「...それは」


 彼女は目を逸らさない。

 言葉には迷いが無かった。

 俺は何から逃げているのだろうか。分からない、ただ彼女の目を見る事ができない。罪悪感、或いは自己嫌悪。憎しみは己をも汚染する。止めどなく溢れていた復讐心は、やがて俺自身へもその矛先を向けていた。


 歯を噛み締め床を見下ろす。しかし、彼女は変わらず俺を見つめていた。


「何より、私を救ってくれた」


 彼女に光を幻視した。ハッとしてその目を見た。見てしまった。

 慈悲だろうか、感謝だろうか。はたまた、優しさだろうか。目を見るだけで分かってしまう、彼女は真正の善性だ。例え世が悪に満ち溢れようとも、彼女が居れば人の善性は証明されるだろう。そう思わせる様な目だった。


「ありがとうございます、貴方に心からの感謝を」


 あぁ、隊員の皆が言っている事が今分かった。彼女は救世主だ。迷いなく俺を肯定した彼女は、それだけで俺の心を救ってくれた。

 ちょっと疲れているのかもしれない。そうでなければ説明できない。おかしいな、さっきまで彼女が泣いていた筈なのに。貰い泣きなんてらしくない。


 視界がぼやける。あぁ、いやだ。彼女の前で泣きたくない、みっともない姿を晒したくない。しかし、それは止めどなく溢れてしまう。


 初めてだったんだ。俺の事を肯定してくれたのは、彼女が初めてだったんだ。誰も認めてくれなかった。誰も彼も俺を否定した。

 死ぬ気で積み重ねた全ての努力は実らなかった。劣等感の中で縋り続けた剣という存在さえも否定された。


 だけど、彼女を救おうとしたあの努力は、苦しみなどどうでも良いと歩み続けた俺は、今彼女の言葉によって肯定されたのだ。


「受け取って...良いんだよな、その感謝」

「うん。心の底からありがとう。君は私の命を、兄さんの想いを繋いでくれた」


 あぁ、おかしいな。

 さっきまで彼女が泣いていたのに。今は俺が泣いている。

 嗚咽だけは漏らすまいと、ただただ押し殺すように泣く。


 決して悲痛な泣き声ではなかった。感動とも違う。俺は報われたんだ。心を染めるのは暖かく、人生で経験した事のない感情だった。

 身を任せるように、ただただ泣き続けた。


 気付けば、彼女は俺の手を取っていた。








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※2024/10/29 修正

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