第41話 決心、限界のその先
フラフラ、フラフラと。
亡霊か幽鬼か、はたまた浮浪者かの如く頼りない足取り。それでも一歩ずつ、決して転ばぬように――背にある少女に傷付けぬよう歩く。
思考が霞がかっていて、体に力が入らない。空を見れば、月は沈み太陽が空気を裂いて光を届けていた。砦から出たのが一昨日の夜だ、これで丸二日寝食を削って移動している事になる。
俺は囚人だった。牢の外に出る事は許されず、一日一度コケの生えた石と見紛うパンと雨水の様なスープのみで生きて来た。体力も筋肉も遥か昔に失っている。刀身に映る己を見て、スラム街の餓鬼の様だと思ったほどに。
そんな骨と皮しかない俺にとって、この少女は決して...その、軽くはなかった。魅力的なスタイルは時としてデメリットになるのだ、背中に感じる熱と柔らかい感触と共にそう思った。
...止めよう。やはり心身共に限界が近い。
邪になりつつある考えを打ち切る。ともかく、迫る限界にぶつかる前に目的地に着かなければ。
とは言え目的地が何処なのかは分からない。俺にできるのは、やはり思考ではなく運動である、ただ歩を進める事だけである。
フラフラ、フラフラと。息も絶え絶え、襲い来る眠気と疲労と飢餓感と激闘を繰り広げながら歩く。
しんどい。確かにしんどい。だが背中のサラはまだ生きている、粗く熱の籠った寝息が首元をかすめている。彼女は猛毒と戦っているのだ。それに比べれば俺の戦いなど大した事はない。体は音を上げているが、心はその限りではなかった。
「――さ...ん」
ふと、掠れた声が聞こえた。
背後で身動ぎしたサラに意識を向ける。
「兄、さん...――」
それは寝言だった。苦しみと悲しみが溢れたような声色だった。
心臓に痛みが走った。体の上げる悲鳴なんかじゃない。俺の心が、彼女の悲痛な声を耳にしただけだ。
何故だろうか、不思議でならない。
伸ばされたこの手を掴んだその瞬間から今この時まで、ある疑念が絶えなかった。どうして俺は彼女の苦しむ顔を見、声を聞く度に胸が痛むのだろうか。
分からない。見当もつかない。
ただ思い知らされる。俺が何をするべきなのか。
痛みは成長を促す。胸の――心の痛みは、俺の覚悟をより固い物へと変えていった。
「ハッ、情けねぇ」
ふと、重ねる歩みの中足に違和感を感じる。
見ると、右の太腿が痙攣を始めていた。限界は迫っていると思ってたが、俺の体は既にそこへ到達してたらしい。
――だからどうした。
関係ない。全身に走る激痛も、遠のき掛ける意識も、痙攣も、関節の軋みも関係ない。彼女を救うと決めたんだ。ならば、他の如何なる要素も歩みを止める理由にはならない。
直感であり、実感であり、確信があった。
彼女の命の燈火は消えかけている。その炎が、熱が、どんどんと小さくなっている。手足の熱は引き始め、荒く早かった呼吸はただ浅い物へと。
彼女は正に死の目前、そんな確信があった。
朦朧と、何もかもがぼやけ始める。意識が遠のき、視界が狭窄し、耳の、手足の感覚が薄くなる。
それでも歩く。
神は嫌いだ。俺に不幸ばかり齎した。しかし祈らずには居られない。どうか、俺にこの少女を救わせて下さいと。
―――何度も、こうやって願った。牢ではなく劣等感に囚われていたあの時、どうか力をと。そしてそれらが叶う事は終ぞなかった。
だが、この時ばかりはそうはならなかった。
祈りは届き、叶った。
黒いもやに阻まれた視界の先、騎馬で移動する一団が見えた。
きっと、アレがクラウが伝えたかったものだ。
安堵、一瞬湧き上がったそれは限界の更に先へと押し進んだ体から力を奪うには十分だった。膝をつく。立ち上がる力は、もう湧かなかった。
それでも意識だけは、背のサラだけは離さぬよう気張る。
やがて蹄の音と共に、その騎馬の一団は目の前で停止した。
「ふむ、貴様は王国の落伍兵か」
「殺しますか?」
「止せ。今は情報が欲しい...妹の為にな」
頭の上で会話が交わされる。
よく理解できない。体だけでなく思考もその働きを放棄した。
ただ、胸の底に仕舞った言葉を口にする。
「エリ...サー、を――エリクサーを、くれ...ないか」
あと数十秒も持たない。
呼吸が荒くなるのが分かった。
ハァハァと息をしながら、絞り出すように口にした言葉。
「貴様、何故それを!」
「...待て」
帰って来た反応は冷たい物だった。
俄かに殺気立つ一団。首筋に冷たい感触、たぶん剣だ。
どうでもいい。もはや、何もかもが――この少女以外の何もかもが。
...あ、もう無理だ。
急速に全てが色あせる、失われていく。視界には何も映らず、全ての感覚は今遮断された。最後の最後、先程と同じように祈るように口を開く。
「お願いだ...この子を救ってくれ、俺から...――これ以上、」
――俺から奪わないでくれ。
そんな言葉は放たれず、俺はそこで意識を失った。
〇
「如何致しますか」
「...そうだな」
倒れ伏した少年に視線を向ける。疲労困憊で力尽きたのか、瓦礫の上で無防備に眠る姿は、あまりに場違いだった。乱れた髪と煤で汚れた装束は、どこか奴隷兵のようでもある。それなのに彼は、我が軍の服装を纏う少女を背にしていた。
そして、より奇妙なのはその口から「エリクサー」という言葉が出たこと。王族とその側近のみが知り得る、最高機密の存在であるはずなのに。
彼女は考え込むように顎に手を当て、しばし少年を見下ろしていた。何故ここに彼がいるのか、その意図を推測しようと試みるも、当然ながら答えは出ない。彼の正体も、目的も、全くの謎に包まれていた。
「彼女の素性を調べろ」
彼が命を賭して守ろうとした少女の存在が、唯一の手がかりだった。体の限界を超えてまで彼は背に負ったその少女を守り通そうとしていた。そこに彼の執念と焦燥が感じられた。
――しかし、少女の姿にはどこか見覚えがある。煤と傷で覆われているが、黄金に輝く髪と細身の体格は。
「急げ、時間がない」
しかし彼女がこんな場所にいる筈がない。彼女が最後に確認されたのはあの山を越えた先、南部戦線より奥の穀倉地帯の兵站線だ。
そして、それ以降の情報は全く伝わっていない。恐らく部隊が全滅した。並みの敵ではあるまい。戦線を掻い潜り、未知と暗闇に包まれた山間部を越え奇襲を掛けるなど。状況を整理せども、只身に染みるのは不安と焦りだけだった。
しかし焦燥感など覚えたところで問題は解決されない。
それでいて抑える事の出来ぬ、その焦がすような思いのままに手綱を強く握り締める。
馬から降りた騎士の一人が、慎重にその少女を仰向けにさせた。
「...サラスティア、なぜ」
――そこには、渦中の人物である筈の妹が居た。
こんな所にいる筈がない。何故王国の少年兵なんぞに背負われていた。
疑念が尽きなかったが、彼女の顔色を見てそれらを斬り捨てた。
「エリクサーを使う。彼女を支えろ」
呼吸が浅く、その顔色は真っ青だった。毒でも喰らったのだろう。一目で瀕死と分かる容体だった。
一時も離さずに持ち歩いていた、半透明の液体が入ったガラス瓶を腰のポーチから取り出す。名をエリクサー、王族のみが所持と使用が認められる秘宝の一つだ。
それを手に馬から飛び降り、騎士によってその体を支えられているサラの口にそっと添えるようにゆっくりと流し込む。
不安だった。このエリクサーは、希少性ゆえに使用法含め殆ど未知と言っても過言ではない。この使い方であっているのか、なんて不安を表に出さぬようにする事しかできなかった。
それでもサラの口に流し続ける。嚥下している様には見えなかったが、不思議な事に溢れ零れる事はなかった。
そして、ガラス瓶から減っていく中身と反比例してどんどんと彼女の顔色は良くなっていた。険しく歪まれていた顔は平穏そのものへと変わっていた。
周囲に薄くも神々しい光が満ちる。エリクサーを口にしたサラスティアの体から、神聖さを帯びた光が発せられた。
確信が胸を突く。効いている。エリクサーは彼女を救っている。
エリクサーが空になる頃には、彼女は第一王女が良く知るサラスティアへと戻っていた。血色も随分と良く、汚れを除けばただ眠っている様にしか見えない。
「...よし、部隊を半分に分ける。半分は近隣の家屋にてサラとこの少年の意識が回復するまで護衛と監視、ケアを行え。残りはこのまま進む」
「了解」
サラの体調は問題ない。しかし、何時意識が戻るのか分からぬ彼女を抱えて移動を続ける訳にはいかない。そして、謎に包まれたあの少年に関しても同じことが言える。その素性やここに至った経緯なども聞かねばならない。
「感謝しよう、少年。君はサラを救った」
しかし、認めなければならないだろう。少年のサラへの必死さは、己を顧みぬその態度は。故に告げる、ただ感謝をと。
そして再び馬に飛び乗り手綱を取る。やるべきことは済んだ。なれば、妹をこんな目に合わせた連中に裁きを下す時である。
「しかし、態々半分も人員を割く必要はないのでは」
「なに、私さえ居れば問題ない」
簡潔にして全て。交わされた会話とも呼べぬ言葉のやり取りは、しかし彼らを納得させるには十分だった。
ライトの居る場所へ進み続ける懲罰部隊、その背を追う第二特戦団との遭遇は近い。そして彼らは知る事になるだろう、彼女の名前とその脅威を。
馬を進める。炎のような赤い髪が舞い踊る。
彼女敵を全て蹴散らし、愛しのサラの元へ戻るのにそう時間はかからなかった。
―――――――――――
※2024/10/27 修正
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