第40話 救え


 金色は煤で曇っていた。さして明るくないせいで表情はよく分からない。しかし、状況からして決して良い物ではないだろう。

 俺と彼女は監獄島で会った事がある。エイベルとの戦いの最中、俺以上の怒りをその身から漂わせながら現れたのだ。


 そんな彼女があの鎧の魔術師で、そして今王国兵に包囲されている。


 情報の波に呑まれないよう頭を回せど、やはり状況は把握できなかった。


「おせェよ、さっきのナイフには猛毒が塗ってある」



 そして今、何よりも重大な情報が追加された。

 ギョッとして再び彼女を見る。太陽が昇り始めたからだろう、先程より鮮明に見える彼女の顔には一筋の切り傷があった。


 そして、今王国の男が放った猛毒という言葉。

 未だ状況は把握できずとも、極めて重大かつ逼迫している事は理解した。



 そして奥に見える断崖、彼女はふらりと身を躍らせる。



「クソが、させるかぁァッ!!」




 ――俺に、彼女を救う義理はあるのだろうか。

 復讐に必要な行為なのだろうか。もっと合理的な判断があるのではないか。


 思案はなかった。

 逡巡すらしなかった。


 触れたマグカップが熱くて手を引っ込めるのと同じように、考える間もなく体が動き出していた。


 今この時ばかりは、復讐もヒロも頭になかった。絶望をその顔にありありと浮かべながら飛び降りた彼女を救いたい一心だった。


「なんだ、てめェら――」


 無意味な言葉は耳に入らない。振られた槍は余りにも遅く、その男の顔を見るまでもなく回避してひた走る。


 後ろで魔力が高ぶるのが分かった。背後から一撃を貰えば死ぬ。俺は何故こんな隙だらけの姿を晒しているんだ。


 喚く理性を無視して、ただ走る。

 なんとななる、何とかしてくれる。


 直感だった、今はそれを信じる事しかできない。

 だが、仲間を信じる事に間違いなどある筈がない。


 脇目も振らずに走り、躊躇など一瞬もせずに崖から身を躍らせる。


「行けライト!北西だ!エリクサーなら―――」



 最後にクラウの声が聞こえた。その言葉を胸に仕舞いながら、俺は手を少女に伸ばす。目は閉じられていた。だがまだ助かる。


 力なく、風に漂う襤褸布のように上へ伸ばされた彼女の手を取る。その手を引き体を抱き留め、俺の体が下になる様に空中で身を捩る。

 俺が出来たのはそこまでだった。


 破裂したような音が耳を突く。次いで体を覆う冷たい水。全身をくまなく包み込んだそれから脱出するように顔を水面から出すが、水流は余りにも激しかった。


「―――かッ...プはッ...ッ!!」


 咳込みながらなんとか浮こうと必死に藻掻く。残念なが手は使えない、何故なら一つしかない腕は彼女を支える為の物だから。足を全力で動かし続ける。

 俺は数十秒に一度顔を出して息を吸えればいい。ただ、彼女の呼吸は止めてはならない。彼女の全身を覆う鎧が憎たらしくてならない。


 何もかもが滅茶苦茶だった。


 どっちが上だ。俺は今どこを向いている。苦しい、酸素が足りな過ぎて脳がまともに働かない。寒い。けれど、体の芯は熱を持っていた。

 平衡感覚、思考、何もかもが滅茶苦茶だった。


 それでも、右手で支える彼女だけはちゃんと認識できた。



 〇



 ―――数十分ほどだろうか。地獄の責め苦の如き激流に耐え続けた時間である。体感は半日くらいだが空はまだオレンジ色だ。



「カフッ...ケほっ―――フゥうー...ハァ、ハァ」


 正直、今すぐにでも意識が絶えそうだった。

 やっと陸に足を付けられたのだ。横幅が広くなり穏やかになった川、その岸。

 彼女をそっと横にしてから、情けなく必死に呼吸をする。


 耐えなければ。肺の水を吐き、何度も深呼吸する。


「ふぅ...よし」


 幾らかはマシになった。もっと休みたいが贅沢は言ってられない。

 気合いを入れて立ち上がり、砂利の上に寝かせた彼女から鎧を取り外して容体を確認する。



 ――クソ。かなりヤバいぞこれ。


 心の中で悪態をつく。彼女の状態は一目で分かる程悪かったのだ。

 つい先程まで冷たい水に浸かっていたというのに、体の内に通る血がマグマに代わってしまったのではと思う程の熱。しかし極寒の中に居るように震えている全身。浅い呼吸。


 即刻解毒剤か聖魔術師を用いて治療しなければ長くは持たない。

 医療の事など露も知らない俺ですら分かった。


 それほどまでに、彼女は死の淵に瀕していた。


 焦りと無力感が俺を苛む。

 ここまでして救おうと足掻いて、しかし何も出来ずに死を待つしかないのか。


(そうだ、クラウは最後なんと言っていた?)


 北西、あとはエリクサー...だったか?あの時も必死だったから記憶が曖昧だ。しかし方角を思い出せたのは大きい。

 アイツのスキルは望む場所への行き方を示してくれるものだったはずだ。ならば、その方角にこの少女を救える何かがあるという事なのではないか。そしてそれが恐らくエリクサーというもの。

 確度の低い情報と言わざるを得ない、しかし俺に取れる行動はそれだけだ。


 もう動きたくないと文句を言う体に喝を入れ立ち上がる。悪夢でも見てるのか、時折呻きながら苦しそうな表情を浮かべる少女を背負う。華奢なのにその体は熱くて。不安の一言では表せない感情がいっぱいになりながらも、俺はフラフラと北北東の方角へ歩き始めた。


 背中に熱を感じながら周囲を見渡す。

 気付いたら俺は平原の様な場所に出ていた。


 昨晩からの動向を思い出す。


 俺達は南方戦線、山間部より北東の砦から出発した。そして山間部を抜けかけた地点でこの少女を発見し崖から飛び降りた後、確か太陽から離れるように流されていったハズだ。となれば、俺が今居る地点はあそこから西に行った所。この開けた土地を見るに、ここは合衆王国領。

 クラウが言ったのは北西、ならば俺が行くべきは北だ。


 太陽を右にしながら、力なく歩き続ける。

 最後にメシを食ったのは昨日の夜。それだけ聞くと大した事ないように思えるが、夜通し走ってから激流に揉まれたのだ。もはや疲労困憊の域を超えていた。


 それでも歩く。本能か、それに近い何かに突き動かされるように。


 自分が何故こんなことをしているのか分からなかった。

 この少女は、あの監獄島で顔を合わせた程度の仲だ。他の懲罰部隊の隊員のように恩がある訳でもない。


 だからこそ分からなかった。なぜ、自分はこうまでしてこの少女を救おうとしているのかが。


 しかし、疲労故か頭が上手く働かない。寝不足と疲労は最悪のコンビネーションだ。ただ、右に太陽があるように意識しながら歩く事しかできなかった。



 やがて、太陽は頂を経て左へ傾き始めた。

 丸一日歩いている事になる。流石にそろそろ休息しよう。


「【火炎弾ファイアボール】」


 沈み始めた太陽を眺めながら火を起こした。魔力は腐るほどある。

 しかし、魔力では腹も膨れぬし体力も回復しない。


 パチパチと燃え盛る炎へ、途中でもぎ取ったトウモロコシを放り投げる。一秒でも気を抜けば吹き飛ぶであろう意識を手放さないよう腿を抓りながら待つと、やがて食欲をそそる香りが漂ってきた。

 それで少しだけ眠気が覚める。眠気も限界突破していたが、空腹感だってかなりあったのだ。それが刺激されたお陰であと少しは気張れそうである。


 剣で炎の中からトウモロコシを突き刺して取り出す。息を吹き掛け冷まし、手で触って引っ込めてを繰り返して丁度いい温度になるまで続けた。


「おい、起きれるか」


 険しい表情で珠の様な汗かき続ける少女を揺さぶってみる。俺に医療は分からないが、病気の時は体力が必要だと言う。ならば何か口にした方が良いのではないか、と思ったのだ。

 とは言えこの様子では起きないだろうが。


「...――んぅ...アナ...?」


 しかし予想に反して、少女は反応をした。

 熱っぽい顔色もあって妙に艶めかしい。


「残念ながら俺はアナじゃないな。少し話せるか?」


 色々聞きたい事があるが、勿論病人に無理をさせる訳にはいかない。今俺が聞きたいのは彼女の容体だ。


「―――...だれ」

「ライトだ。大丈夫、俺は君の敵じゃない」


 頼りなく身構える少女を安心させるように手を上げた。その手が片方しかない事で気付いたのか、首を傾げながら彼女は口を開く。


「あ、君...監獄島に居た」

「そうだ。君の名前を聞いても?」

「...サラ」


 そう言った彼女は――サラは何処かボンヤリとしていた。熱のあまり思考がはっきりとしないのか、微睡のままに会話しているとすら思える。


「気分はどうだ、食欲は?」

「...わかんない」


 ぼうっとしたまま答える。

 何だか見ていて不安になるな。まぁ会話出来ているだけマシと思うべきか。


「取り合えず食えよ、これ」

「...うん」


 刃とも呼べぬボロい剣だが、手入れをしていて良かった。流石に人を切ったままの穢れた剣で食べ物を扱いたくはない。

 トウモロコシの側面に刃を立て可食部を削り、それを彼女の手に渡す。

 数秒、それが何なのか分かっていないように見つめた後にゆっくりと食べ始めた。


 しかしその大半が口に入っていない。ポロポロとトウモロコシを溢す彼女は幼児のようにも見えるが、俺の目にはそう映らなかった。


「...なぁ、大丈夫か」


 サラの目を見て分かった。彼女は俺を見ていない。遠くを眺める様な、しかし何も映していない虚ろな目だ。

 覚えがある。絶望しきった人間のそれだ。


「わかんない」

「っ...あっ」


 ポロポロと、溢れるように零れたのはトウモロコシではなく涙だった。

 サラは表情は変わらないまま、声も上げずにただ涙を流している。あぁ、嫌だ。彼女の顔を見ているとなんだか胸騒ぎがする。


「わかんない、わかんないよ...ッ――みんッ、みんな死んじゃった...なんで?わかんない...わかんないよっ」

「あぁクソっ、どうすりゃいいんだよ」


 しゃくりあげるように泣き出した彼女に、俺はどうする事もできなかった。なんと声を掛ければ良い?今さっき互いの名前を知ったばかりの相手に、どう慰めればいい?分からん。俺が知っているのは剣の振り方だけだった。それすらも意味を成さぬ以上、今の俺は只のでくの坊である。


「落ち着け、大丈夫だから。俺が居る」


 彼女の手を取った俺が焦りのまま口から放ったのは意味不明な言葉だった。

 なんだよ俺が居るって。そんな台詞初対面の相手に言われてみろ、誰だよテメェってなるだろ普通!


「...わかんないよ、私どうしたらいいの?」


 しかし、予想に反して彼女は落ち着きを見せ始めた。未だに涙は流し続けているが、錯乱のような感情は見られない。

 胸の何処かで安堵を感じながらも、今度こそ慎重に言葉を選ぶ。


「食欲が無いなら取り合えず寝よう。君は絶対に大丈夫だ、色んな事は落ち着いてから考えれば良いさ」


 一言一言、ゆっくりと語り掛けるように。

 絶対に大丈夫なんて言えるような状況ではないが、見栄っぱりは男の意地にして本質である。俺が言った事は正しいと思い込ませるように優しい声色で言う。


「...うん」


 その目に涙を浮かばせながらも、彼女の口からはそんな言葉をが聞こえた。やはり妙に熱っぽいそれであった。きっとまともに思考も出来ていない。しかし、それでも彼女は――サラは、俺を信頼してそう言ったのだ。

 ならば、俺はそれに応えなければいけない。


「君を安全なところに連れて行く。苦しいだろうけど、どうか頑張ってくれ」


 異常な熱の籠った手を握り締める。

 よく人の命は火に例えられるが、彼女の手の熱さは命の火が風に煽られ最後の唸りを上げている様に思えた。燃え盛る炎の先にあるのが冷たい灰である様に、彼女もまたそんな終わりを迎えるのではと思えて仕方が無かった。


「...よし、気合い入れるか」


 休息の準備に入った体に鞭を打つ。余計で無為な思考を振り払う。

 決めた。彼女を守ろう、救おう。

 目の前で苦しみに喘ぐ少女を見て、誰が己の休憩を優先するだろうか。少なくとも俺にはできなかった。

 ならば俺がするべきは休息ではない。


 立ち上がって彼女を背負う。二日も徹夜で移動する事になるが、そんな俺の体力よりも彼女の容体の方が遥かに悪そうだ。

 背中から感じる熱が冷めぬ内に、俺は再び歩き出した。



―――――――――

※2024/10/27 修正

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