第30話 戦場
「やっぱメシって大事だよな」
負の感情が含まれていない、力の抜けた溜息をつく。木椀の中で湯気を上げているシチューを食いながら再度思う、やっぱりメシって大事だ。
「懲罰部隊にも関わらず一般糧食が貰えるとは...」
レオがどこか安心したような表情を浮かべながら言った。全く同意である。
俺達の手元には今、温かいシチューとカビの生えてないパンがあった。
何時ぶりだろうか、人が作ったまともなメシを食べたのは。記憶にあるのは、冤罪を掛けられ腕を切られたたあの日の朝飯。どうにもやる気が起きなかった俺は、もそもそとパンとスープを口にしたのだ。そこから一年近く、俺はまともなメシを食べていなかった。
スープなんてものはない。肉なんて欠片も出た事がない。カビの生えた固いパンと腐りかけの物体、それしか口にしてこなかった。
ずっと張り詰めていた心に、ほんの少しだけ温もりが宿る。やはりメシは大事だ。
囚人たちに心の癒しを、そんな意図はないだろう。単に一般の兵士と分けて作るのが手間だっただけだろう。或いは、痩せこけ体力のない囚人をそのまま戦場に放り込む事が非合理的だと気付いたのか。
なんでも良いが、俺はこの時初めて王国に感謝した。
「ありがてー...」
「生きててよかったよ、ホント」
「あっおいそれ俺のパンだぞ!」
やいのやいのと騒ぐ隊員の声も気にならず、俺は半年ぶりの人心地に浸っていた。
穏やかな気分のまま食事を進めること数分。至高の時間は直ぐに終わった。
「もう一回貰ってきていいかな?」
「やめとけ。気持ちは分かるがな」
胸は名残惜しさでいっぱいだったが、木椀の中身は空である。小さいパンの欠片で微かに木椀に残ったシチューを拭う。それが最後の一口だった。
しかし、量の割に腹は満たされていた。久しぶりの食事に胃が対応しきれてないのだろうか。これ以上食べると消化できそうもない。ここずっと、なぜ未だに生きているのか分からないような食習慣だったのだ。十分以上に栄養失調で死ぬ可能性があったと考えるとゾッとする。
「次はなんだ、もう指示なんて忘れちまったよ」
同じように食事を終えたガルが、背後の地面に手をつきながらぼやいた。
「日没に本陣北西200の地点で再集合、であったな。まだ時間はありそうだ」
視線を上に向ける。雲の端には夕方の色が滲んでいたが、空は未だ青を保っていた。太陽はその全身で以て俺達に暖かい光を届けていた。黄昏時の雰囲気が漂っている。
日没まであと二、三時間といったところだろうか。
それまで何か暇を潰せるものはないか、と思案する俺の視界の下端にそれが映った。
見つめる。視界の中央に映す。穏やかな天候と気持ちもあってか、なんだか万感の思いが込み上げて来るようだった。それは剣だった。
鋳造、質の悪い量産品。錆と刃毀れがそこらにあるそれは、むしろ剣というよりは金属製の棍棒だろう。
しかし、剣の形をしていた。刃があって、柄があった。それだけで俺にとっては十分だった。
「...なぁ、良かったのかよ」
ガルがふとそう言った。その意図は聞かずとも理解できた。今の俺に剣は似合わない。輝きなど微塵もない刃を反射させて己の顔を見る。随分と痩せていた。
片腕、やせ細って筋肉の落ちた餓鬼。きっと大きな鏡があれば思っただろう、如何にもスラムに居そうだと。
「これしかなかったからな」
だが、これは俺の全てだった。まともに振れないだろう。そも、戦い方からして剣など不要であろう。しかし、俺は剣が欲しかった。
食事の前、俺達には武器の受け取りと点検の時間が与えられたのだ。周りが短剣や盾、槍を選ぶ中、俺はこのロングソードを手に取った。本能だった。引き寄せられるようだった。抗えなかったし、抗う気にもならなかった。
剣、己の全て。片手は失われ、鍛えた肉体も失われた。しかし、骨の髄まで染み付いた愛着はまだそこにあった。
――故に、ヒロへの憎しみは止まらない。
柄を握り締める。ギリ...と何かが軋む音がした。出来の悪い剣の歪みか、すっかり頑丈さを失った腕の悲鳴か、怒りがなす心の軋みか。恐らくはその全てだろう。
「...少し、体を慣らしてくる」
意味もなく黒に染まりだす思考を振り払うように立ち上がる。
運動したい気分だった。素晴らしいじゃないか。綺麗な空気と夕日が染める暖かい光の中、飢えを感じずに剣を振れる。
昔とは何もかもが違う。それでも、それでも。
「俺らもやろうぜ!」
「そうだな」
「...僕も体を動かそうかな」
「私も付き合おう」
得られた物だってある筈だ。
後ろを振り返り見る。そこには仲間達が居た。
皆、暗闇に満ちた歳月を過ごした。苦しみと憎しみが溢れんばかりに心を支配した。それでも、今この時は笑みを浮かべていた。
そういえば、しばらく笑っていないような気がした。厳密に言えば、俺が目覚めたあの時の狂気的な嗤いではない、柔らかい笑いを。
王国で剣聖の息子として鍛錬していた時だって、この顔に笑みが浮かんだことはなかった気がする。
自然と微笑みが浮かんだ。心の奥底には溶岩のような憎しみはあったけれど、その笑みの裏には何もなかった。
仲間達の向こうで、朱金に染まりだした海面が輝いた。
思う。やっぱりメシって大事だ。
〇
「マズ過ぎだろこのメシ」
誰かが吐き捨てる様に言った。
全く同意である。
暗澹たる気持ちで思う。やっぱり王国はクソだ。
今日はこの大陸に上陸して5日目。つまり、予定では作戦地域に到着する日である。
あの日は一般兵士も居たから美味いメシが食えた。強行軍の最中ではなく、糧食部隊が常駐していたから暖かいメシが食えた。
しかし今は強行軍の最中である。5日も夜通し歩き続ける程の強引な進行である。暖かいメシが出て来る筈がなかった。よく馬鹿舌と揶揄される本島の人間でも分かる事だが、カビが生えていて良い食材はチーズだけである。
だがその生活も今日で終止符が打たれる。俺達は戦闘区域に入った。
当たりを見渡す。
地は荒れ木々は枯れ果てた。
曇天の下には死体を啄まんとする鴉が羽ばたいていた。
赤黒い染みと立ち昇る黒煙が所々に散見された。
戦場の光景である。
それも最前線。俺達がパンモドキを食べているここは王国の陣地だ。周りには正規兵や騎兵の姿も見えた。その顔に笑みも余裕もない。擦り切れかけた精神、傍らに死を侍らせながら座り込んでいた。
剣聖の子としていずれ見る事になっていたであろう光景だ。俺は既に人殺しだ、そして死の間際を彷徨った事もある。それでも常時緊張を強制されていた訳では無い。
ここは地獄だ。
戦場には精神を食い荒らす化け物が潜んでいるように思えた。
「停止せよ!」
悠々と騎馬にて先頭を進んでいた指揮官が声を張り上げる。
その声にはやや緊張が含まれているように思えた。
「良いか、今日が貴様らの運命の日である!砦は前方5千の位置だ!貴様らの目標は砦内部の味方との入れ替わりである!当目標を包囲している合衆王国軍の突破にあたっては我々正規兵も援護しよう」
既に確定していた事だが、やはり俺達は囮にされるらしい。いや寧ろ生存など一切想定されていないだろうから、釣り針に吊るされるミミズだろうか。
「作戦開始まで待機!」
そう言うや否や、その男は本陣がある方へ馬を歩かせた。
さて、人生初の戦争である。
西へ目を向ける。比較的山の多い地形もあって合衆王国軍の姿が見える事はなかったが、そこに居るのは確かなのだろう。
戦争とはどういう物なのだろうか。その在り様は学園で散々聞かされたし、父親である剣聖は戦場の鬼神と呼ばれる男だ。決して遠い存在ではなかった。だが、肌で感じた事はなかった。
ほんの少しの緊張が走った。だが武者震いする程の物ではない。どうせここは主戦場ではないのだ。
ここ南方前線には地形からしてそう易々と大軍を送ってはこれまいと判断したのか、王国の戦力の殆どは北方にあるのだ。剣聖もそちらに送られている。
とは言え油断は禁物。初の戦場とあれば尚更。
柄を握りしめる。それは安心と闘争心という一種の矛盾した感情を呼び覚ました。
そうこうしている内に、あの男が再び戻って来た。
「進軍開始!」
号令がかかる。既に整列を済ませていた正規兵が動き出す。俺達はその後を追う様に歩き出した。
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※2024/10/09 修正
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