第22話 諦め
鈍い思考、体を刺すような冷たい石畳の感触。鈍く冴えない思考の中、それらが耐え難い事実を押し付けて来るように思えた。
目を開ける。やはり、ここは暗い独房だった。
(もう、ここで起きる事はないだろうと思っていたのにな)
クソ、そう付いた悪態が、薄汚れた独房に吸い込まれた。眼球に張り付いたように、あの光景が頭から離れない。
俺は、あまりにも凄惨なその光景から目を逸らしたかった。だがそれは許されない、これは俺の罪だと、そう言い聞かせて目に焼き付けた光景が、何度もフラッシュバックする。
アベルの悔しそうな表情。文字通り爆散する彼の体。正直、今にでも吐きそうだった。俺の疑問の答えは得られず、只残ったのは罪悪感と、時間を戻せればという強い、しかし無意味な願いだけ。
言葉を遺された。また一つ、やらなければいけない事が、生きる理由ができた。復讐という甘美な逃避に浸っていたい俺に、生きなければいけない理由ができた。
だが、俺にどうすれば良いと言うのか。
詰みだ。アベルにおんぶにだっこだった、足を引っ張っただけのこの俺が、一人で脱獄なんてできる物か。
「...クソッ!!クソが、クソが!」
絶叫しながら、拳を床に叩きつける。何度も、何度も、皮が破れ血が出ようとも止めずに、自分を痛めつける様に。
それでも、心を完全に支配した黒い感情は収まりを見せなかった。
脱獄は失敗した。可能性も失われた。
未来はなかった。託されたアベルの言葉も何もかも、今の俺にはどうする事もできなかった。復讐なんて、到底できそうになかった。
どんどん精神を擦り減らして、気が狂って、やがて失意のままに死んでいくのだろうか。そんな絶望的な未来を想像する。しかし、それは最悪の想像ではなく、最も現実的な未来だった。
力なく地面に横たわる。
許されるなら、このまま死んでしまいたかった。
「――よぉ、脱獄はどうだった?」
唐突に、誰かの声が響いた。だが起き上がる気力すら湧かない。目だけを動かして辺りを見たが、周囲には誰も居なかった。
となると、この声の出どころは隣の独房だろうか。
「つれねぇなぁ、無視すんなよ」
「...なんの用だ」
無視する意味もないので、無気力なまま聞き返す。一体どういうつもりで話し掛けて来たのかが分からないし、別に会話するつもりもない。だが拒絶する気力もまた湧かなかったのだ。
「はっ、ひでぇ声だな。失敗か――もう一人の奴はどうした?」
「...死んだよ。俺のせいでな」
「そうかよ、そりゃ悪かったな」
言葉の割には、その声は興味無さげに思えた。どうでもいいような、体面上言っただけの慰めの言葉のような。
「なぁ。お前、なんでここの囚人共が静かなのか知っているか?」
静か、言われてから気付いた。確かにここは異様なくらい静かだ。時折聞こえるのは話声でなく呻き声。今みたいに会話できるならば、そこかしこから話し声が聞こえてきてもおかしくはない。
「知らねぇよ」
だが、やはりどうでも良かった。投げやりにそう答える。会話の終わりを告げる様な口調のそれは、しかしその意図は無視された。
「こいつら全員、常時魔力切れしてんだぜ」
「――は?」
魔力切れ。
それは、魔術について学んだ事のある人間なら――いや、違うな。最早常識だろう、魔力切れについては。
通常、魔術を使い過ぎたら頭痛や吐き気がしてくる。それらは魔力が底つかないために脳が送る警告だ。
そして、その警告を無視して魔術を使うと起こるのが魔力切れだ。
魔力切れを起こすと、脳の許容範囲を超えた痛みで失神、あるいはこの時点でも死に至る可能性がある。
だが、魔力切れで最も危険なのはその後だ。
魔力切れになったら、底をついた魔力を回復させようと、体が勝手に周囲の魔力を吸収し始めるのだ。その過剰な吸収の負荷に体が耐え切れず、体の魔力回路が壊れる。
そして、体内に吸収されたものの、行き所をなくした魔力が体内で暴れまわり、文字通り内臓がグチャグチャになるのだ。
だから、魔力切れと死はイコールだ。
そんな魔力切れを常に起こしている、だと?
「...どういう事だ?」
「俺達の腕についてる腕輪。あれ魔力を吸収する能力があるだろ?」
「あぁ、そうだな」
「その腕輪のおかげで、魔力の過剰吸収でも死ななないんだ」
つまり、魔術回路が壊れた後の行き場のない魔力が、腕輪に吸収されるって事か。
なるほど、原理については理解した。
「――で?」
尚更、意味が分からない。
「そんな事をして何になる?」
魔力切れを起こしても死なない、その理由は分かった。だが、そんな行為をする意味が分からなかった。
俺のその問いに、しかしその囚人は可笑しそうにこう言う。
「――魔力切れしている間は狂えるんだよ。楽になれるぞ?」
...ああ、そういう事か。
一人、暗い感情のまま納得した。
このまま絶望で擦り切れるくらいなら。
狂ってしまった方が、良いのかもしれない―――
体内で魔力を作る。それをもって魔術を放とうとする。しかし、その魔力は当たり前のように腕輪に吸収される。
それの繰り返し。
襲い来る吐き気と頭痛を無視して、ずっとそれを繰り返す。
やがて、思考がボンヤリとしてきた。
時間を戻せれば、そう強く願いながら。
気付けば、俺の意識はまた失われていた。
〇
鈍い思考、それすらも蝕む吐き気と頭痛。
起きているのか、寝ているのか、その判別すらつかなかった。俺は起きて思考しているのか、夢の中で無意味な想像をしているのか。
どうでも良い。だが、これが意識だというのなら。
俺にこんなものは要らない。大丈夫、死にはしない。アベルとの約束も、復讐心もまだ心の奥底にある。
だから、今はまだ寝ていよう。
再び魔力を練る。強く、強く、もう起きないように願いながら。
〇
目を覚ました。
冤罪でここ来てから、どれくらい経ったのだろうか。
せめて外が見れればなぁ...
『何時までそうしているつもりだ』
うるさいなぁ。いいじゃないか。
特にやる事がある訳じゃないんだし。
言い訳じみた言葉を吐きながら、ボンヤリと辺りを見渡す。
すると、直ぐそこで蝶が舞っていた。
もう春だろうか。心なしか、暖かい風が吹き込んでいるような気がした。
『分かってるだろう。このままでは駄目だと』
「じゃあどうしろって言うんだよッ!!」
頭の中に居るもう一人の自分を振り払う様に叫ぶ。狂いつつある自覚はある。だけどそれでいいじゃないか。俺は正気でいたくないんだ。
そう心の中で叫びながら、また無意味に魔力を生成する。
〇
目を覚ました。
今日も学園に行くために、ベッドから出ようとする。
それにしても、昨日のヒロとの戦いはよかったなぁ。一度目は負けてしまったけれど、弛まぬ努力で今度は勝てたのだ。
みんなも凄く褒めてくれたし、親父も俺の事を認めてくれた!
“流石は剣聖の息子だ”とか“現剣聖を超えられるぞ!”って言葉は正しかった。そう思わせてくれる戦いだった。
今日もエルと訓練しよう、早くベッドから起き上がって、顔を洗って、親父と朝飯を食って、剣と魔術の訓練をしよう。
―――あぁ。でも、もう少し眠っていたい。
幸せだ。これが俺が求めていた物だ。冤罪とか、隻腕とか、監獄とか、アベルとか。そういうのは全部、ただの悪夢だ
〇
目を覚ました
でも、もう少しだけ寝よう。
大丈夫、誰も俺を責め立てない。このまま寝ていても、苦しい現実は俺に迫って来ない。ただただ、柔らかな苦痛と鈍い思考があるだけだ。
〇
目を覚ました
あと少しだけ寝よう。大丈夫、何も問題はない。
〇
目を覚ました
久しぶりの睡眠だったから、まだ眠いなぁ。
もう少しだけ寝よう。
〇
目を覚ました
寝よう。
〇
目を覚ました
眠い。
〇
目を覚ました
〇
目を覚ました
〇
―――目を覚ました
目を覚ました、目を覚ました。
目を覚ました。目を覚ました、目を覚ました、
目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました目を覚ました
その度に、何度も、何度も、何度も。眠りにつく。
意味もなく目を覚ましては、以前より多くの魔力を消費して再び眠りにつく。
その繰り返し。
さぁ、もう一度眠ろう。
もういっそ。
一生、起きなくても良いかもしれない。
――――――――――――
※2024/10/01 構成の変更
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