第16話

「引っ張られた?」


 珍しくミツキが口を開いた。


「うん、後ろから腕を掴まれて勢いよく引っ張られて。そこで8日目の夢は終わったの」

「腕ねえ」


 僕はそう言ったが別のことに引っかかっていた。


「もう一度さっきの写真を見せて」


 和沙はクリアフォルダに収められた写真を再度僕らの前に差し出した。なるほど、少し見辛いが確かに話の通りだ。ただこのことを和沙に説明する気はない。


「そしてそれ以来、その奇妙な夢は終わったの。午後9時の強烈な眠気も起きなくなった。それがちょうど2週間前の話」


 そして彼女はカバンからジップロックを取り出した。その中には茶色の猫のようなデザインのブローチが入っていた。


「朝の着替えで制服にハンカチを入れようとしたら手の先に何かが当たる感触があって、ポケットから取り出してみたら夢で見たブローチがあったの」


 僕とミツキはお互いに顔を見合わせた。夢の世界からブローチを持ち帰っただって?そりゃ亡者に目を付けられる訳だ。マグカップの柄を弄びながら何かを思い出すようなそぶりをみせる目の前の少女、おおよそこの世界とは縁もゆかりも(興味すらも)ないであろうこの娘がこの後に僕らの運命を大きく変えるとは、この時は想像すらしなかったのだ……。


「そして、その2日後の朝にある手紙が届いたの」


◇◇◇


 テーブルの上に大皿二枚が置かれた。和沙の料理が運ばれてきたのだ。


「食べてからまた始めようか」


 一方の底の深いお皿にはレタスやブロッコリー、キュウリ、トマト、クレソンなどの野菜にクルトンがかけられ、シーザーサラダで和えられている。もう一皿には付け合わせの芋サラダとカットされたゆで卵、大きなバケットが4切れ盛られている。和沙はもう一度メニューを見返した。やはり¥400と書かれている。確かにメニュー写真と同じものだが、サイズが予想の2倍はあったのだろう。和沙は信じられないといった顔をしている。


「飲食店の経営については分からないけど利益は出るのかしら、これ」


 ミツキがすかさず言う。


「残したら私がもらうから!」


 その言葉を聞いた和沙がまたクスクスと笑う。もしかして、ミツキのことを気に入っているのだろうか?それにしても、ミツキが赤の他人に対して自己主張するなんて珍しいな。


「大丈夫、私けっこう大食いなんだから」


 次に、大きなミックスサンドが6個盛られた皿が僕の前に置かれる。三つ重ねのサンドイッチは今にも具がはみ出しそうだ。最後に大皿にこんもりと盛られたミツキ専用のビーフカレーとサラダがテーブルに置かれた。ジャガイモ、人参、玉ねぎがごろりと入ったその見た目はまるでシチューのようだ。ミツキは夢中でかき込み始めた。


「今日もいい食べっぷりだね、ミツキちゃん」


 カウンターでマスターが食器を磨きながら声をかけた。ミツキは口にカレーを頬張りながら頷いた。和沙もバケットにポテトサラダや野菜を器用に乗せて口に入れた。


「美味しい!」


 和紗が思わず叫んだ。


「だろ?」


 和沙の反応にニヤリとしてしまった僕もすっかりお腹が減っていた。早速サンドイッチを頬張るか。モグモグ……うまい!う~ん、いつ食べても本当に美味しいな。キュウリもトマトも口の中で弾けるようだし、自家製の濃厚なマヨネーズは市販の物とはコクが違う。手作りの材料ばかりで作られた本格的な料理が出されるなんて、店の外観からは想像できないだろう。毎日料理をして腕に覚えのある僕もこの店のメニューにはまるで敵わない。和沙は食べ終わってもまだ物足りなさそうな顔をしていた。


「よかったら食べる?」


 僕はサンドイッチの皿を和沙の方へ少し押した。


「一切れだけいただこうかな」


 口の周りを茶色くさせたミツキはそれを見て少しだけ勝ち誇ったように微笑んだ。和沙も照れ笑いしながらサンドイッチを頬張った。僕らはあっという間に食べ終え、ママがニコニコしながらお皿を下げに来た。


「若い子たちは食欲があっていいわねえ」


 ママはそう言って小さなポケット菓子を置いてくれた。僕らの間にあった最初の緊張感は随分とほどけたようで、心なしか穏やかな雰囲気となった。


 和沙は店内に流れるヴィオラとピアノの二重奏を目を瞑りながら耳を澄ませていた。


「フォーレの子守歌ね」

「おっ、分かるのかい、お嬢ちゃん?」


 和沙はマスターに向かって照れくさそうに頷いた。

 ペーパーナプキンで口を拭いていたミツキも、普段なら気にも留めないクラシックを目を瞑って聞き入るふりをした。和沙のやることなすことが気になって仕方ないみたいだが、僕はいつになく子供っぽいミツキに笑いを堪えるのに必死だった。

 同い年のミツキとはかけ離れた人生を送ってきたのだろうこの娘は、普段どのような日常を送っているのだろう。僕はありったけの知識で和沙の週末を想像してみたが、お嬢様の日常なんて想像もつかない。 友人はやはりデザイナーやミュージシャンなど、鼻もちならない連中なのだろうか。実家は地下駐車場に高級車がずらりと並ぶ港区のマンションを所有しているのだろうか。ミツキの友達になってくれればなと考えたが、食い意地の張ったコミュ症の姉と、貧乏性で現実に欠片も幻想を抱いていない弟が彼女の人生に入り込む余地はなさそうに思える。

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