第17話
当の和沙はすっかりこの店が気に入ってしまったようだ。
「追加でコロンビアをお願いしまーす」
「じゃあ俺はホットコーヒー」
「私はカフェオレ、でかいの」
出会った時のクールな印象が嘘のように、目の前の女の子は年相応の無邪気さをみせていた。
「デザートもいただこうかしら。すみませーん、クッキーをください」
「クッキー、メニューにないよ」
ミツキがぼそっと呟いた。
和沙の表情が初めて大きく崩れた。それはほんの一瞬のことで、すぐに出会ったころのポーカーフェイスに戻ったがもう遅い。ミツキはにんまりしながら和沙を見ている。
「ええと…」
和沙は平静を装って何かを言おうとするがうまく言葉が出てこないようだ。ミツキが意地悪そうに和沙を見つめる。
「紹介者に聞いたんでしょ?」
「いいえ、さっきメニューで間違いなく見た」
「じゃあもう一度確認してみなよ」
和沙はメニューを何度も確認した。何度も何度も。ページごとに隅から隅まで入念に見返して、すべてを見終わったらまたそれを繰り返すのだ。古時計の秒針音だけが店内に虚しく響く。
何分経過したのだろう、もう8巡目だ。あまりに手持ち無沙汰だったのでコーヒーにまた砂糖を入れてみたが、顔をしかめるほど甘くなってしまった。スマホをいじる習慣のないミツキは、何もすることがない時のいつもの癖でその美しい髪の毛先をいじっている。
時間の無駄だってば……喉まで出かかったその言葉をすんでのところで飲み込んだ。これはもはやプライドの問題なのだろう。こういう時は気が済むまでやらせるに限る、なにせごく身近に同じタイプがいるからな。僕は疲れた表情でちらりとミツキを見た。
ミツキは大きく欠伸をして面倒臭そうに言った。
「もういいじゃん。紹介した奴、わかっちゃった」
和沙はその言葉を無視してメニューから目を離さない。どうやら相当に負けず嫌いなようだ。僕はならべく刺激しないように優しく言った。
「マスター夫婦の娘さんの趣味がクッキー作りで、たまにお店が好意でふるまってくれるんだよ。だからメニューにはないの」
言い終わるや容赦のないミツキが不機嫌そうにボソッと言った。
「三田だよね」
ミツキがカフェオレを飲みながらそう言うと、観念したのか和沙はメニューを机に置いて力なく頷いた。僕は和沙を慰めるように言った。
「たまたまその三田さんがいた時にクッキーをお皿に盛って運んできてくれたんだ。だからメニューと勘違いしたんじゃないかな」
「……」
「ミツキと三田さんはあまり仲が良くて……ははは」
僕の空笑いが店内に虚しく響く。よりによって三田か。どおりで名前を伏せろと言ったわけだ。和沙は俯いたまま一人でぶつぶつ何か言っている。
「私がヘマをするなんて……他人に隙を見せたことなんて一度だってなかった……一度だって……一度だって……」
僕は声を潜めながらミツキをとがめた。
「この子大丈夫か?お前が余計なことを言うからだぞ」
ミツキは問いかけに答える代わりに、未だにぶつぶつ言っている和沙を小悪魔的な笑顔で見続けている。
紹介者が誰なのかを悟られたことはそこまで問題ではなく、完璧を演じる自分にひびが入ったことで意気消沈しているのだろう。こんなことでプライドが粉々になるなんて、どれだけ気位が高いのだろう。
和沙はようやく独り言を止めたが、今度は弱々しくメニューを元の場所に立て掛け、スカートのすそを両手で握りながら口を真一文字に結んでテーブルの一点を見ていた。なんだか気の毒になってきた。
そんな和沙を顎を上げて下目遣いに見ていたミツキが、頬杖を付きながら言った。
「コーヒー冷めちゃうよ」
和沙がキッとした目つきでミツキを睨む。ミツキも負けじと睨み返す。カウンターの砂糖を補充しているママがあらあらという視線を投げかけた。
「おい!喧嘩しにきたんじゃないだろ。和沙、さっきの続きを話してくれよ」
「ヒナタは黙ってて」
ミツキの有無を言わせない口調にそれ以上何も言えなくなった。すると、植物の絵が描かれたロイヤルコペンハーゲンに綺麗に盛られたクッキーが目の前に置かれた。
「作りたてじゃないけどよかったら。これで仲直りしてね」
ママは一言呟き、カウンターの中に入ってマスターの仕込みを手伝い始めた。
和沙の注文和沙は予想以上にシンプルな見た目で、しかも一枚一枚がかなり大きいクッキーに驚いているようだ。色とりどりのクッキーでも想像していたのだろうが、これはおそらく最低限の材料しか使用していない極めて原始的なもので、一番味が近いのはトラピストクッキーだろうか。
僕はどうぞどうぞと左手を差し出す仕草をした。表情を硬くしていた和沙がおそるおそる頬張った。あまりに感動すると口もきけなくなるというが、和沙の状態はまさにそれだった。僕三田が不用意にすすめた理由もよく分かる。
和沙がもう一切れと手を伸ばした瞬間、クッキーが二つ同時に奪い去られた。ミツキは二切れを軽々と小さな口の中に入れ、頬張りながら顎を上げて和沙を見下した。和沙のポーカーフェイスは完全に崩れ去った。目に炎を宿す二人の間に火花が散る。
「受けた立つわ!」
先程までのクールさを完全に脱ぎ捨てた和沙。彼女はなんと三つ同時に掴み、無理やり口の中に入れた。頬張りながら勝ち誇った笑顔でミツキを見る。ミツキは悔しさで真っ赤にした顔を震わせ、今度は四切れを掴んだ。僕は堪らずに叫んだ。
「おい!お店の好意だぞ。感謝して食べろよ!」
ミツキは忠告を無視して無理やり口の中に放り込む。僕の大声にカウンターに座っている耳の遠い爺さんが反応し一瞬ゆっくりと首をこちら側に動かしたが、すぐに本に目を戻した。マスターが喧嘩を見学する野次馬のように楽しそうに見ている。
「若いってのはいいねえ……」
もはやミツキの表情には余裕がなく、苦しそうな表情でゆっくりと咀嚼し、長い時間をかけて飲みこんだ。顔は真っ赤で、なぜか息を切らし、目にはうっすらだが涙すら浮かんでいる。そして水をがぶ飲みして、ナプキンで口を拭き、あたしの勝ち、という挑戦的な、怒ったような視線を和沙に向ける。
「喉に詰まらせちゃだめよ」
口に手を当てて上品に笑っていたママが、ニコニコと水をつぎ足しに来た。
和沙は思い詰めたかのように数秒間じっと固まり、大きく深呼吸をして一気に6個掴んだ。ミツキは目の前の光景が信じられないといった表情でぽかんと口を開けている。
「ヒナタ君、10秒間向こう向いてて!」
僕は怒鳴られて慌てて窓の方を向いた。あのどでかいクッキーを6個口に入れるところを見てみたかったが、男には絶対に見られたくない光景なのだろう。
そろそろかなと振り返ると、河豚のように頬を膨らませた和沙が今にも吐き出しそうに苦しい表情を浮かべている。もはや咀嚼もできないように見え、唇を閉じながら何度も「ううっ」という低い呻き声をあげている。
「言わんこっちゃない!」
僕は慌ててハンカチを渡しマスターにビニール袋をもらおうと立ち上がったが、和沙はそれを見透かしたかのように体を震わせながらこちらに向かって右手を左右に振った。おいおい、リバースなんてしゃれにならないぞ。
しかし和沙はゆっくりと、ゆっくりと口を動かし、長い時間をかけて嚥下した。ミツキは口を半開きにして茫然としている。和沙の目から涙がぽろぽろ流れ、体は更にぷるぷると震えていたが、しかし河豚のような頬は僅かづつではあったが少しづつ萎んでゆき、最後は口に手を当てて無理やり中の物を喉に押し込み、鼻をつまみながら水とコーヒーを喉に流し込み、それでも足りずに僕らの水二人分も飲み干し、締めにハンカチで口を拭った。信じられないことに、口の中のものは全て胃に収まった。
「マジかよ……ミツキが負けたってことか?」
いつの間にか店内の音楽は止んで、マスターが別のレコードをセットしていた。外から子供を諫める母親の声が聞こえてきた。ミツキはしばらく茫然自失状態だったが、そのうち涙をぽろぽろと流し始めた。僕も驚くしかなかった。
「あーすっきりしたあ!」
ミツキが泣まるでガキ大将に泣かされた子供のようにきじゃくった顔で和沙を見ていた。その反応を見た和沙は先程の失態も挽回したかのような、この上なく満足げな表情で言った。
「昨日の件からずーーーーーっとむしゃくしゃしていたからさ、絶対に勝ってもやもやを晴らしてやろうと思ったの」
「そ、そうか……」
和沙はミツキの方を振り向いて、ニッコリと笑った。
「でもね、ミツキちゃん。私こんなに楽しい気分初めて!」
「私を負かしたからでしょ……」
「違うよ!私、こんなに他人とぶつかり合ったことなかったから。学校の連中なんて取り澄ましたやつらばかりだし。それに、ミツキちゃんってさ……」
ミツキが涙を袖で拭いながら、不思議そうな目で和沙の続きを待った。
「ううん、なんでもない。私さ、包み隠さず話すよ。三田さんには怒られるだろうけど、あなたことが気に入っちゃった!」
◇◇◇
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