第8話

 レンガ造りの古くて小さな教会で、気の置けない人々に祝福され顔を真っ赤にして泣くミツキ。愛を誓い合った新郎と口づけをかわす時(正直なところ、伴侶となる男の顔は想像したくない)、教会中から大きな歓声が沸くのだ。階段を下りている最中にコンフェッティシャワーを浴び、ミツキがブーケトスをする姿まで想像できた。


 妄想の中のミツキはその後、新婚旅行のフィンランドでオーロラを見て感動し、生意気で活発な男の子と天使のような女の子を授かり、ドタバタしてはいるが幸せいっぱいの家庭を築くこととなる。


 そうだ、犬も一匹家族に加えよう。身勝手な飼い主に公園で捨てられ、愛媛ミカンのロゴが入った段ボールの中で切ない鳴き声をあげる子犬だ。そのぼろぼろにやせ細った憐れな姿を目にした心優しい娘が心を痛め、ミツキに対して一計を案じるのだ。


「ママぁ、猫さん飼っていい?」

「だーめ、パパが猫アレルギーでしょ」

「じゃあ犬さんならいいの?」


 娘は密かに家の庭に置いてあった段ボールを玄関まで持ってくる。段ボールの中のまだ動きのぎこちない小動物はつぶらな瞳でミツキに何かを訴え、娘も愛くるしい眼差しでミツキを見る。エプロン姿のミツキは腕組みをしてため息をつく。


「まったく、生き物を飼うって最後まで面倒を看るってことよ。責任が伴うの。あなたにそれができる?」


 そんなことを言いながら娘の優しさに内心大喜びのミツキ。新しい家族が加わったことでますます賑やかで笑いの絶えない家庭になる。その家にはいつも優しい午後の日射しが注ぎ、エプロン姿のミツキが子供たちを追いかけまわすのだ。


◇◇◇


 うん、これだよこれ。この妄想を実現することが、ミツキに幸せ(だと僕が勝手に思っている)な人生を送ってもらうことが、人生に何の幻想も持たない僕の唯一の夢なのだ。


「しつこいかもしれないけど、彼氏を作りたいって言うならいつでも協力してやるからな」

「それは絶対にない」


 少し怒ったようにミツキが言う。


「言い切ったな、人の気も知らないで」

「人の気を知らないのはヒナタのほう」


 そしてミツキが自然に手を握ってきた。物心ついてから毎日繰り返される二人の極当たり前の行為だ。そして当たり前のようにいつもの僕ら二人に戻った。僕が喋り、口下手なミツキは話を聞いているだけ。ろくに相槌も打たないが、手を繋いで歩くミツキは本当に幸せそうに見える。


 同級生に囃し立てられたこともあったがミツキの満足げな顔を見たら何も言えない。生まれた時から一日たりとも離れることのなかった僕らは、二人で一つの生き物のようなものだった。


 夕食の献立について話している最中に、ミツキは前後を見回して興奮気味に目を輝かせた。


「見て、通学路に誰もいない!すごいね、世界に私たちしかいないみたい」

「お前、恥ずかし気もなくよくそんな臭いことが言えるな」


 そうからかうとミツキが顔を赤らめて学生鞄で叩こうとするが、僕は「おっと」と言って軽々とかわした。そして僕も何気なしに呟いた。


「でも本当に俺たちだけみたいだな」


 僕らは改めてこの刹那の風景を見渡した。日射しを遮る街路樹の青々とした葉がそよ風で微かに揺れ続け、キャンバスを青一色で塗りたくったような空には毛先の細い筆で描いたような飛行機雲が横切っていた。並木道沿いにある瀟洒な一軒家からはたどたどしいピアノの練習曲が聞こえてくる。もちろん胸を締め付けるあの夏のセミの音も。


「あのね、ヒナタ」

「ん?」

「このままさ、時が止まって世界に私たち二人だけなのもなんだか素敵だよね」


 僕は笑いを堪えながらわざとらしく両手で顔を覆った。


「うわー!

うわっ!恥ずかしー、病院で頭の中見てもらえ」


 僕のツッコミに羞恥を覚えたミツキが顔をクシャクシャにして下を向いたあと、「バーカ」と言い舌を出した。僕は思わず笑ってしまった。それを見たミツキも少し嬉しそうに笑った。二人は肩を並べてまた歩き出した。


 ふとミツキの横顔を見た。前髪が黒目がちの大きく美しい瞳の上で揺れ、並木道の葉を反射した光がまだら模様に彼女を照らしていた。写真ハガキにしたいくらい綺麗な少女だな。どこかこの世界にそぐわないというか、浮世離れした容姿というか。実際にこの美しい姉に彼氏ができたらどんな気分になるのだろう。世間の父親は娘に彼氏ができるとショックを受けるというが、そんな感じなのだろうか。


「さっきから何ぼーっとしてるの?」


 ミツキが不思議そうな表情で僕を見る。我に返った僕は下手な台詞で胡麻化そうとした。


「いやあ、何でもない。風が気持ちいいなーって」


 ミツキはその言葉に反応せずに今度はきょとんとした表情で前方を見た。約十メートル先に見覚えのない少女が立ってこちらをじっと見つめていた。あれは確か名門校である私立鳳凰学園ほうおう高等部の制服のはずだ。


 少女はやがてゆっくりとした足取りで近づいてくる。目の前に立った少女は背が高く170cmはありそうで、首の中間あたりまで伸びたショートヘアがそのすらりとした体つきに良く似合っていた。切れ長の、どこか涼し気な瞳はいかにも知的に見える。肌は透き通るように白く、唇は色素が薄い。ミツキとは違う、凛とした美しさを湛えていた少女だった。一見品の良さそうなお嬢様に見えるが、なぜだろう、胸騒ぎが収まらない。


◇◇◇

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