第2話

「今日で二学期は終わりです。明日から夏休みですが、くれぐれも羽目を外して友達だけで遠出したり危険な遊びをしたりしないこと。馬鹿な真似をして学校に迷惑をかけるなってことだからね。それと……」


 1組の担任・園田涼子は何かに気付いて言いかけた言葉を飲み込んだ。彼女の視線の先にはスマホを覗き込みながら忍び笑いをする阿保二人がいる。


「おいそこ、溝口と川瀬!」


 二人は慌ててスマホをしまい込み、きちんとした姿勢で座り正面を向いた。教室中から忍び笑いが聞こえてくる。


「お前ら笑うな!」


 シーン……、園田は生徒たちに舐められたくないという思いが強過ぎたのか、必要以上の大声を出してしまったようだ。園田はわざとらしく咳ばらいをした後に話を続けた。


「話が中断しましたが、何が何でも宿題だけはしっかり終わらせること。以上です、何か質問はありますか?」


 教室中を見渡すが誰も何も言わない。さっさと終わらせろという生徒全員の無言の圧力をひしひしと感じたのだろう。この新人教師は諦めたように軽くため息をついた。


「なさそうですね。じゃあ日直の人、お願い」

「起立、礼!」


 疲れた顔をした園田とは対照的に、日直の覇気のある号令で県立加賀谷北高校一学期最後の日が締めくくられた。


 帰宅部の生徒たちが我先にと下駄箱に向かう普段の光景とは違い、今日は放課後になっても多くの生徒たちがなかなか帰ろうとしない。いつも以上に思春期特有の、あの鬱陶しいまでの熱量が充満している教室で、同級生は各々のグループに分かれて夏休みの予定について興奮気味に語り合っていた。


 恩田巴瑞季はずきと泉沙耶は年頃の女子らしくこの夏休みに青春を謳歌するようだ。馬鹿笑いとともにその会話内容が教室全体に響く。


「……そう、代官山のカフェ巡りとか池袋のプラネタリウムとか。そう、東京だよ、ぎゃははは!ううん、電車じゃなくて車。二人での遠出は初めてなんだよね」

「巴瑞季の彼氏って前に会ったあのイエス・キリストみたいな人だっけ。ぶっちゃけお父さんくらいの年齢だよね?」

「バンドマンだよ。歳は関係ないし……沙耶は太田君とどこ行くの?」

「うちら?夏祭りと市民プールに行くつもり」

「チャリンコで?」

「あはは、二人とも金ないからさ」


 恋話という名のナイフが隅っこで群れているもてない男子三人の心臓に容赦なく襲い掛かる。哀れな野郎どもは平静を装っているようだが、会話が耳に入るたびに内心ざわついているに違いない。アホの溝口が忌々しそうに頭を振った。


「なんであの腐れビッチどもはわざわざ聞こえるようにクソ話をしてやがるんだ?あー、耳が腐る」


 眼鏡を掛けた小柄な村井が腕を組みながらうんうんと頷く。丸刈りの川瀬は忌々しげにその巨体を震わせる。確かに恩田と泉は中学時代からこの調子でうるさいことこの上なかった。まさか高校でも同じクラスになるとはな。


「俺らピュアボーイたちを精神攻撃するのはさぞ楽しかろうよ。見とけ、一矢報いてやるわ」

「やーめーろーよー、川瀬くん。まずいって」


 馬鹿だな、本当に馬鹿。三人の中では一番まともな村井が慌てて制止しようとするも、川瀬はおおげさに左手の人差し指を華の穴に突っ込み、柿の種ほどはありそうな鼻くそを右手の中指で密かに女子グループの方向へ飛ばした。川瀬と溝口は同時に小さく叫ぶ。


「当たれ!」


 こいつらから精神的にも物理的にも距離を置く女子たちの場所までは当然届かず、その行為に気付いた女子一同の糾弾が始まった。


「きったねーもん飛ばすんじゃねーよ、この万年童貞」

「キメェんだよ!」

「女の子に相手にされないんでしょ?ママとデートでもすればあ?」


 口撃という名のマシンガンが三人のハートを粉々に打ち抜いた。同性として、横で聞いているだけで胸が痛くなる。溝口は思い切り顔をしかめて両耳を塞ぎ、村井は大きなため息をつきながら俯いた。張本人の川瀬は慌てて両手を挙げながら白旗を上げる。


「わかった、わかった。もう降参だ!」


 その後も女子たちの嘲笑と暴言はしばらく続き、ようやく収まったころに村井が小さなため息をしながら川瀬に非難の目を向けた。


「だから言ったじゃん、ああいうことをして許されるのはサッカー部の連中だけだよ」


 川瀬がひそひそと悪態をついた。


「しかしあんなガキ臭い女を相手にする大人なんているんかい?」


 村井が皮肉っぽく笑う。


「ロリコンじゃないの?」


 グロッキー状態だった溝口が、その話題で急に表情を明るくした。


「いやあ、恩田は制服で見える以上に胸がけっこうあるぞ。実はな、前の健診のときに保健室の窓からこっそり覗いたんだ」

「ちょっと溝口くん、覗きは犯罪だよ!」

「うるせー、このゴミ以下の高校生活で覗きすらも許されねーのか?大丈夫だ。絶対にばれない死角になる位置があるんだよ。窓の右側がでかい機械で隠されてるだろ。あそこをちょっと背伸びしてだな」


 三人衆は今度は邪な視線で泉の胸のあたりちらちらとを見ている。


「なに見てんだよ!」


 恩田が三人に向かって怒鳴り、女子一同の冷たい視線が再度三人に降りかかる。三人衆は身を寄せ合って体を縮こませる。


「さっさと帰んべ」


 溝口がため息を吐き、二人が力なく頷く。村井が悲しそうに首を振った。


「今年も彼女のいない夏か。なんだろう、このやりきれない高校生活は」

「うるへー、青春なんぞ糞くらえだ。カラオケ行くぞ、カラオケ」


 溝口がそう言うと、川瀬がスウィングの構えをし、腕を大きく振った。


「バッティングセンターに行くべ。白球を女どもに見立てればさぞかし爽快だろうよ」

「いいねえ、決まりだな。ああ、そうだ。おーい、ヒナタ。当然一緒に行くよな。な?」


 溝口は後ろの席で学生鞄に荷物を詰め込んでいる僕に急に話かけてきた。


「え?いや、俺は……」


 言いかけている最中に、溝口が僕の肩に手を回してきた。相変わらず強引な奴だ。ニカっと笑った時に汚い歯の間に青のりが挟まっていたのが見えてしまった。朝飯は焼きそばかお好み焼きか?こいつの普段の食生活を見るに、栄養バランスなんて考えたこともないんだろうな。


「おめー、この前も約束すっぽかしたじゃねえかよ、今日くらいはいいだろ?」

「いや、その……確かにそうだけど……」


 参ったな、すっぽかしたのは本当のことだ。余程困った顔をしていたのだろう。この光景を見た学級委員の山口益美がつかつかと歩み寄り、人差し指で溝口の顔を指した。


「ちょっと溝口、ヒナタ君にちょっかい出さないでよ!」


 山口からの糾弾もものともせず、ニキビ顔がぐいぐいと迫ってくる。


「いいからいいから。一学期最後の日くらい付き合えよ。お前ら、ヒナタも一緒に行くことになったぞ!」

「よっしゃ!」


 川瀬と村井が元気よくガッツポーズを決める。無理やりグループの中に引き込もうとするこいつの意図は的外れもいいところだった。溝口は僕の肩をぽんぽんと叩きながら村井と川瀬に嬉しそうに話す。


「ヒナタがいりゃあ、この女っ気もないグループも垢ぬけるだろう。もしかしたらナンパも成功するかもしれねえぞ。期待してるぞ、ヒナタ!」


 こいつは何を勘違いしているのだろう。僕はナンパをしたことがないどころか、彼女すらいないのだが。川瀬が腕を組みながら諭すように語り掛けてくる。


「ヒナタよ、男同士の付き合いっちゅうのは大事だぞ」

「あー、いや俺は……」


 溝口の手が肩に掛けられたまま僕たちが教室の入り口から出ようとした正にその時、外側からそっと引き戸が開かれた。

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