亡者を統べる者

ワイズウィル

第一部

第1話

 どこかで嗅いたことのある匂いだ。汗と血のむせかえるような臭いの中に仄かに混ざる、甘い花のような香り。その香りが鼻に届いた時、なぜだが懐かしさと罪悪感で胸がいっぱいになった。


(助けてあげられないの?)

「もう手遅れだ」


 彼女はそう言ったあとで軽く舌打ちをした。


「子供相手はやっぱり胸糞悪いな」


 暗闇に包まれた森の中で不吉な二つの赤い光だけが不気味に光っている。弱々しく光るその目は海の波が押し寄せるかのように一定の間隔で明るさと深みが増したが、その間隔は徐々に短くなっていった。今や瞳の赤色はほとんど白目にまで及び、血のように濃さを増していった。意識まで食らい尽くす完全な乗っ取りが始まろうとしているのだ。


「何か言い残すことはある?」


 彼女は木に寄りかかりながら倒れ込んでいた少年に向かって冷徹にそう言い放った。少年の左肩や腹部は血で大きく滲み、腕から指先まで伝う血が地面にポタポタと落ち続けている。少年は生気のない真っ赤な瞳で目の前の少女を見た。


「……て」


呼吸は弱々しく、何かを口にしたのだがよく聞き取れない。


「何?」

「早……く……乗っ取ら……に」


 意識が徐々に乗っ取られる恐怖と闘いながら、僅かに残った気力でその言葉を振り絞ったようだ。


「もう……あと少……で……」


 彼女は一転して慈愛に満ちたまなざしで少年に語り掛けた。


「苦しいのは少しの間だけだからね」


 きっと月に照らされたその横顔は、主人が奴隷に対して接するような独特の威厳と美しさを湛えているのだろう。


「ゆっくりとお眠りなさい」


 彼女は少年に数秒間、そっと口づけをした。少年は微笑んだように目を細め、体を弛緩させた。重ねた唇の周りが淡い光を放っている。彼女が口を離すと光はすぐに消えた。そしてその後に彼は急に目を見開き、涙とよだれを流しながら痙攣を起こしはじめた。


「うっ、うっ、うぐがあぁ、が……が」


 瞳の炎の勢いは少しづつ弱まっていき、数分後に元の色を取り戻した眼球は目の前の少女を見つめたまま動きを完全に停止した。もうコオロギの鳴き声以外何も聞こえない。 彼女は無言で、悲しそうな表情で亡骸となった少年の短く刈られた髪を優しく撫で、ハンカチで涙とよだれを拭いてあげた。そして少年の鼻先まで顔を近づけて言った。


「何年も辛かったね。もう苦しまなくていいんだよ」


◇◇◇


「明日はひどい筋肉痛になると思うから」


 何もしゃべる気になれない。


「ねえ、聞いてるの?」


 彼女はバックから数年後には使えなくなるガラケーを取り出しながら再度私に問いかけた。


(かわいそう)


 私の声はきっと聞こえないほど小さかったはずだ。でも彼女は間髪入れずに吐き捨てた。


「慣れろ」


 私は押し黙った。言い過ぎたと思ったのか、少女は首を掻きながら大きくため息をついた。そして今度は少し怒ったような口調で、自分に言い聞かせるように言った。


「仕方ないだろ、こいつは自分の意志で亡者に憑かせたんだ。だいたいなぁ、いちいち迷いながら戦っていたらこっちが殺られちまう」


 そして先程取り出したガラケーで不機嫌そうに電話を掛けた。1コール鳴るか鳴らないかですぐに相手が出た。彼女は早くこの場を離れたいのか、相手の返答に対して早口でまくしたてた。


「もしもし、終わったよ。何?当たり前だろ!夏香でも三田でもいいからさっさと迎えに来させろ!」


 少女は電話越しのおどおどした声に余計苛立っているようだった。


「大丈夫だっつってんだろ!」


 受話口から気まずい沈黙が漂う。なんだかんだで彼女が一番引きずっているかもしれない。そして深呼吸をして、努めて落ち着いた口調で電話越しの相手に語り掛けた。


「いい?前回のように遺体を乱暴に扱ったら、もうあんたたちには協力しないから。それじゃ早くしてね」


 電話を切った後に彼女はふうっとため息をつき、南の方角を向いて叫んだ。


「終わったよ!」


 と叫んだ。それほど大声でもなかったのだが、闇夜に覆われた森にその澄んだ声が響き渡る。


 暫くして、耳を凝らして僅かに聞こえる程度の足音が聞こえてくる。間隔が短い。早歩きのようだ。彼女が暗闇に慣れた目を凝らすと、森の奥から背の高い人の姿が現れた。私の世界一大切な人。茶色のサマーニットのTシャツにテーパードパンツという恰好でなければ、女の子と見間違えそうな顔だ。彼は目の前の少女の体をざっと見回した。少女の服にも顔にも、返り血がべったりとついている。私はその姿を見ることができないけれど、鋭利な刃物のような表情は、体中の鮮やかな赤も相まって獲物を狩ったあとの肉食獣ように気高いはずだ。


「怪我か?」


 少年は感情を表に出さないが、私のことを心配しているのが伝わってくる。


「返り血だ。今まで一度だってこの子の体を傷つけさせたことはないよ。ただ長く憑き過ぎたからあまり時間はない。そっちは?」

「人型の式神が一人。多分こいつと付き合いが長かったんだろうな、かなり手こずった」

「今回の目標はツカレビトと術師のミックスタイプか……この子、子供なのに強かったなあ……」


 少年もTシャツとジーンズの一部が裂けていたが、どうやら外傷はないようだ。


「さて、帰るか。すぐに私も離れる。早くこの体を休ませてあげてね」

「いつごろ到着するんだ?」

「特急で来るよう言っておいた」


 彼女が言い終わるや否や、複数のヘリコプターの回転音が遥か彼方から聞こえてくる。彼女は唖然とした表情で空を見上げた。


「まさか」


 回転音の音はどんどん大きくなり、赤と黄色の複数のライトを光らせたヘリコプターが夜の空に現れた。彼女はこめかみに手を当て目を閉じながらあきれたように首を振る。


「あいつ、早く来いとは言ったけどまさかヘリを飛ばすなんて」


 普段は物静かで滅多なことでは驚かない少年も、口をぽかんと開けて目をまん丸くしながら上空を見上げている。


「すごい出迎えだな、さすが国家権力」


 少女は忌々しそうに腕組みをした。


「ずれている所は昔から変わっていないんだから。あいつは事務仕事より現場で体を張っているほうが性に合ってるよ。さて……」


 彼女は亡骸に振り返り、ぼそりと呟いた。


「ゆっくりとお眠りなさい」


 Tシャツの少年も近くに這えていた野花を無言で摘み、遺骸の胸の上にそっと置いた。すぐにこの場所からストレッチャーで運び去られてしまうのだが、献花をせずにはいられなかったのだろう。その時この少年は一言ボソリと呟いた。


「あれ?この香り……どこかで……?」


 私は、私たちは、いつまでこの悲しい存在を葬り続けなければならないのだろう?でも泣いちゃ駄目、絶対に駄目だ。彼女の言う通り、いちいち悲しみながら戦い続けることなんてできない。


「さあ、行くよ」


 二人はヘリコプターが降りたであろう場所に向かって肩を並べて歩き始めた。初夏の生ぬるい風が私たちの頬を撫でる。夜9時の、虫の音以外何も聞こえない自然公園は恐ろしいほどに孤独だ。


◇◇◇

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