むさぼる手のむすめ

「おい」


 風紀委員と書かれた腕章をつけたユアの腕が、顔見知りの肩を掴む。


 吸い込まれるようにゲーセンへ入ろうとしていたのは、白い髑髏があしらわれた黒いパーカーを着た生徒。


 その顔が背後のユアを見つけると、あれ、と口が動いた。


「奇遇ですね」


「何が奇遇よ。アンタ、ゲーセンに行こうとしたでしょう」


「しました」


「校則違反よ」


「それくらい知ってますよ」


「じゃあ行くな」


「みんな行ってるのに……」


「みんながしていたらしていいってことにはならないわよ」


「それはそう。でも、ちょっとゲーセンごときに目くじらを立てるのもどうかと思うけどな」


「知らないわよ……。わたしは校則違反を指摘しているだけなんだから」


 ユアは手帳を取り出す。そこには校則違反を行った生徒の名前がびっしり書き込まれている。日時とどんな校則を破ったのか。閻魔帳のようなその手帳の一番新しいところに、黒井なこの名前が新しく記載される。


「ゲーセンに入った疑いっと」


「真面目だ」


「これが仕事ですから」


 ユアはぱたんと手帳を閉じる。明日にでも教師へ報告すると、違反した生徒たちは呼び出しを食らうというわけである。


「最近、多くない?」


「何が?」


「アンタよ。よく校則を破ってるじゃない。退学になっても知らないわよ」


「大丈夫大丈夫。ユア先輩の前でしか悪いことはしてないから」


「それはどうなのよ、殺人鬼さん?」


 ユアの言葉を耳にした通りすがりの人がぎょっとしたように眉をひそめる。殺人鬼なんて呼ばれ方をしたにもかかわらず、当の本人はにこやかに笑っていた。


 なこ自らが名乗ったことなのだ。


 ――私は殺人鬼なんです。


 ユアがはじめて聞いた時は耳を疑った。自分を殺人鬼だと名乗る殺人鬼がどこにいる。それも怖がらせようとしているわけでもなく、自分が殺人鬼という種族であるかのように平然と、だ。


 本当かどうかを訊ねると、笑みが返ってきた。言葉はなく、答える気がないようなので、ユアも信じないことにした。大体、連続殺人事件が起きているからって、まさか同級生が犯人なわけないし。


「あまり、外では言わないでほしいです」


「アンタが言い始めたのよ」


「かっこつけようとした一週間前のわたしが恨めしい……」


 やっぱり冗談だったのだろう。なこは後悔しているかのように、顔をしかめていた。


 殺人鬼と口にするたびに人々はびくりと体を震わせる。顔に現れているのは、そこはかとない恐怖だ。


 世間を賑わせているのは、連続殺人事件だった。


 その連続殺人事件についてわかっていることは、ほとんどない。被害者の体の一部が――大体は心臓――噛み千切られたように欠損していることと、現場には、手に口があしらわれた奇怪なペイントが残されていることくらいしかわかっていない。印象的でどこか嫌悪感を抱かせずにはいられない悪趣味なペイントと凄惨な遺体から世間の注目を浴びているというわけだった。


 そんな事件の犯人を、なこは自称している。


「恥ずかしいなら、殺人鬼だなんて名乗らなければよかったのよ」


「その通りだから何もいえない……」


「まあ、それはともかく、これからの予定は?」


「たった今、予定がなくなりましたよ」


「じゃあ暇ってこと。一緒にどこか行かない?」


「風紀委員の頼みとあらばしょうがないですね。どこへ行きます? 別のゲーセンにしますか、それとも、カラオケとか」


「…………まだ怒られ足りないのね」

 冗談ですからこぶしを上げないでください、なんて声が聞こえたが、無視してゲンコツを落とす。うめき声が、なこの口から洩れた。


「ああ、わたしの灰色の脳細胞が……」


「あたしには冗談が通じないの。行く場所がないんだったら、どこかでお茶しましょ。いいカフェを知っているから」



 カフェを出たユアとなこは、夕日が照らす街を歩く。


 大きく伸びをしているなこの頭には、大きなたんこぶができていた。


「殴らなくてもいいじゃないですか」


「ごめんなさいね。お金にがめついものだから、つい手が出ちゃった」


「まだ根にもってるんですか。許してください」


「まあ、こっちも大人げなかったわよ。先輩なんだから、一回くらいおごってあげても――」


 言葉の最中に、怒声が聞こえた。


 ユアは立ち止まって、周囲を見渡す。浮かんで笑みはどこへやら、一瞬にして険しい表情になっている。隣のなこの表情はほとんど変わっていない。そもそも怒声に気が付いていないのかもしれない。


「どうかしました?」


「ちょっと荒っぽい声が聞こえたのよ」


「それで、見に行くつもりなんですか。風紀委員として」


「風紀委員としてね」


「止めた方がいいと思いますけど」


「そんなことを言うだなんて珍しいじゃない。なに? あたしを心配してくれてるの?」


「別にそういうわけじゃないですけどね。ユア先輩はわたしに話しかけてくる奇特な人ですから」


「それを心配してるっていうんじゃない。まさか、殺人鬼だなんてうそぶくような人が、心配してくれるなんて」


「わたしを何だと思ってるんですか」


「殺人鬼?」


「悪かったですから、殺人鬼って呼ばないでください」


 ひとしきり後輩をいじったところで、またしても声が聞こえる。その声は先ほどよりも大きく明瞭に響いた。聞こえてきた方を見れば、薄暗い路地があった。あそこから行くのが手っ取り早いだろうか。


 ユアは隣のなこを見る。彼女は小柄で、筋肉質というわけではない。運動部に所属しているという話も聞いたことがなかった。


「アンタはついてこない方がいいわ。何が起きるかわからないもの」


「わたしはこう見えてもすごいんですよ?」


「殺人鬼だから?」


「…………食べますよ」


「え、なに、食べるってどういうこと?」


「冗談です。とにかく、役に立つと思いますよ。先輩よりも頭もいいですし、何より正義なんてものにこだわりがありませんからね」


「バカにしているのは置いておくとして、さっきから何言ってるか、一ミリもわからないんだけども」


「いつかわかります」


 不敵に笑うなこを見ていると、ユアは不安になってしまうのだった。



 路地の先にはガラの悪い連中がたむろしていた。制服を着崩した不良たちの輪の中心には、明らかに雰囲気の違う生徒の姿があった。おどおどとしている彼は、恐らくカツアゲされようとしているのだろう。その顔にはあざがあり、手には財布が握られていた。


 彼らは男子生徒に意識が向いているからか、こそこそと歩いているユアたちには気が付いていないようだった。


「アンタはここにいて」


「あの人数に一人で大丈夫なんですか」


「四人じゃない。大したことないわよ。アタシはリビングファイアの頭にだって勝ったことあるのよ」


 『リビングファイア』とは不良集団の一つである。少数精鋭かつ、構成員は全て女子生徒という珍しいグループであった。そのリーダーは玖珂トウコといい、HPL学園の生徒でもある


「リビングファイアのリーダーって玖珂先輩かあ。あの人と、あそこにいる集団は違いますよ」


「どう違うっていうの?」


「うーん。チョコレートとカカオ位?」


「よくわからない例え。……まあ大丈夫よ。あたしってば強いんだから」


 ユアは、集団の方へと歩いていく。背中に、呼び止める声がかかるが、片手を上げるだけにとどめた。


 足音に不良たちが気が付く。


「なんだてめえ」


「誰だっていいでしょ。アンタたちは何者なのかしら」


「そんなことどうだって――」


 舐めるような視線を投げかけてきていた不良の一人が、ユアの腕を掴もうとする。伸びてきた手を弾くと、右足が地面を踏みしめ、拳を振るう。


 風切り音とともに、不良の耳元を硬い拳が突き抜けていく。遅れて、不良が短い悲鳴を上げた。彼からすれば、いきなり拳が飛んできたようにしか見えなかった。


「ふふん。アタシの拳は速いわよ」


 顔を真っ赤にさせた目前の不良がこぶしを振るう。ユアは頭を数センチ動かしただけで、回避。上半身を捻り、腹部めがけてパンチ。


 鈍い音が響く。不良の体がくの字に折れて、倒れた。


 ぴくぴくと痙攣している不良を一瞥したユアは、集団の方へ目線を向ける。


「拳は振るってはいけないって教えられているけれど、悪いやつらには容赦しないわよ」


 ――次はどいつよ。


 どすの効いた声に、不良たちが身を震わせる。女だからと思って油断していたが、まさか格闘技をやっているとは思っていなかったのか、彼らは囁きあっている。どうするのかを考えているようだ。その隙に攻撃を続けることだってユアにはできただろう。だが、そうはしない。別に、戦いに来たわけではない。カツアゲされそうになっている生徒を助けたいだけだ。もっといえば、人を殴りたくはない。平和に終わるならそれが――。


 一人がポケットから何かを取り出すのが目に留まった。次の瞬間、銀に光る刃先が現れた。バタフライナイフ。気が付くと同時に、ユアの体は動いている。


 バタフライナイフを手にした不良へと、疾風のように近づく。ぶんと銀の刃が振るわれるが、回避する。前髪がはらりと舞い落ちるが、気にせずケリを放つ。鋭い一撃が、凶器を握りしめる手を打ち、ナイフが地面へと落ちた。


「武器を使うなんて卑怯よ」


 回転して、ハイキック。暴風のような風圧とともに、ローファーの先が不良の顎を捉える。鈍い音ともに、木の葉のごとく飛んでいく。不良の体がゴロゴロ地面を転がり止まった。その顔を見れば、白目をむいていた。


 ユアはステップを刻み、残りの二人の方へ百点満点の笑みを向ける。師匠から習ったことだった。睨むよりもこっちのの方が怖いらしく、意識のある不良たちは情けない声を上げていた。


 ――これなら、抵抗してこないでしょ。


 しかし、その表情に一縷の希望のようなものが浮かび上がったのが、はっきりとわかった。彼らの視線を辿って背後を向けば、歯をむき出しにしてユアのことを見る柄の悪い男がいた。


 手にはナイフ。


 ナイフの切っ先は――なこの真っ白な喉元にあてがわれていた。


「あー先輩。ごめんなさい」


 そんな言葉には、ちっとも謝罪の気持ちなんて込められていなくて、その理由を訊ねようとしたとき、頭に星が瞬いて、意識を失った。



 不良集団は、ただの不良集団ではなく、カラーギャングというやつだった。『カラー』といっても、色を塗りあって自らの陣地を主張しあったりはしない。タコ組とかイカ組とかはあるかもしれないが、どちらかといえば、暴力団の末端組織といった方が近いかもしれない。昔はそうではなかったらしいが、今では少なくない援助が行われている。警察のお世話になることがある点では不良集団と何ら変わらない。だが、不良はよくて喧嘩くらいだ。暴力沙汰といっても、死人が出るわけじゃない。だが、カラーギャングは違う。非合法なことだってやる。喧嘩の際はナイフや銃を使うし、人質だって取るのだ。


 ユアの知っている不良集団とは何から何まで違うのだ。


 そんな最低な人間の集まりは、気絶させたユアをどうするのかを考えていた。


 胸元が大きくはだけたユアを見つめる四人は下劣な笑みを浮かべている。


 彼らが思い浮かべていたのは復讐。自分たちを傷つけた女に、自分たちの力を思い知らしめようとしていた。


 そんなときに低俗なやつらが考えるのは一つだ。女の気がおかしくなるまで――彼らなしでは生きていけなくなるまでその体を堪能する。


 リーダー格の男の手には注射器が握られていた。その中に入った玉虫色の液体は、非合法な薬物。身も心も廃人へと追い込み、どこかの風俗にでも売り飛ばす。今まさに行われようとしている犯罪が露見しにくくなるし、ついでにパトロンである暴力団も潤って、一石二鳥だ。いや、それだけでは物足りない。この傷の借りを返すなら、殺したっていい。幸いなことに売り飛ばす女はもう一人いる。人質に使ったやつが。


 注射器の先端から液体がピュッと飛び出す。


 辛抱たまらんとばかりにベルトがカチャカチャと音を立てる。


「――殺されると困ります」


 声が響いた。


 いきなりのことに、男たちの間に動揺が走る。男の声ではなかった。女の声だった。臭いマットレスの上に寝かせられた少女から発せられたわけではない。人質にとった女を放り込んだ倉庫の方から聞こえてきていた。


 見れば、少女が立っていた。なことか呼ばれていた少女。


「なっ。手首を縛ったはずだぞ!?」


「ちゃんと縛られていましたから安心してください。でも、結束バンドはやめた方がいいかな。すごくマズいから」


 マズい。


 その単語は、普通ならよくないという意味になるだろう。拘束には適しない。だが、どこか違うニュアンスを秘めているように聞こえた。味覚に関して言っているのではないか――。


 だが、そんなことはどうでもいい。


 少女が拘束を外して、自由に歩き回っているという事実の方が問題だ。


 男たちの目に、ユアへと注がれていたものとは違うたぐいの、剣呑な視線が向けられる。カラーギャングは、暴力団の小競り合いにも動員されることもあり、睨みには死線を潜り抜けてきた者に特有の凄味があった。女性なら悲鳴を上げ、許しを請うだろう。男だって、気の弱いものなら財布を放り投げて逃げ出す。


 少女は違う。むしろ、うっとりと顔を蕩けさせていた。


「そう、その目。わたし『たち』が好きな下品で下劣で唾棄すべき悪の色。だからこそ、あなたたちに目を付けた」


 意味が分からない。睨みを利かせていた男たちの間に、困惑の色が浮かぶ。目の前の少女を殺すつもりで――いや、殺すよりもひどいことをするつもりだった。その意思を睨みに乗せたはず。それなのに悲鳴の一つを上げず、むしろ歓喜してさえいる。


 変人。


 気でも狂っているのでないか。


「狂ってなんて、そんな。しいて言うなら、きみたちと一緒」


 ――わたしは殺人鬼なので。


 ユアとはじめて出会った時と同じように、ごく当たり前のことに、そう名乗った。


 その時とは相手が違う。ユアは格闘技をしていて、殺気というものが何となくわかる。そして、殺人鬼なら、殺気とか敵意とかをあたりにまき散らしている――例えばHPL学園の生徒である玖珂トウコという少女は、炎のような敵意を全周へ放射している。


 なこはそうではなかった。殺意なんて露わにしていない。そもそも殺意なんてない。


 だが、なこの体から沸き上がるようなどす黒いオーラは一体なんだ?


 陽炎にも似た漆黒の揺らめきは、堅気では知ることがない世界に身をやつしているカラーギャングだからこそ、感知できる類のもの。それは濃密な死の臭いを漂わせながら、頭をなくした肥満体の人間を形づくる。


 瞬きののちに、それらは掻き消えている。今のは錯覚だったのだろうか。


 なこは、にやりと口角を上げる。


「見えるんですね」


「み、見える……?」


「この身に宿るかみさまの姿」


 神様。そう言われたら、先ほどのオーラが形作った姿は神様といえるだけの迫力があった。だが、その神様はあまりに禍々しく、背筋が凍ってしまうほどの恐怖を抱いてしまう。


 邪神という言葉がぴったりだ。


 恐怖におののいている男たちを、なこが品定めするように眺める。


「ホントはね、あなたたちにはユア先輩を滅茶苦茶にしてほしかったんですよ。先輩ってば、正義の味方みたいなことしてるんです。わたしたちからすれば先輩の本質はむしろっていうのになあ。だから、勘違いしているあの人にわからせてやりたいんです。真面目くさったあの顔をぐちゃぐちゃにしてやりたいんですよ」


 その言葉の意味と、そこに潜んでいる常軌を逸した考えを理解するのに、時間がかかった。――そして、恐怖した。


 コイツは、知り合いが男たちに襲われてもよかった。むしろ、そうして欲しかったと言っているのだ。


 そしてそれは、こうなることは想定内ということ。


 恐怖に息が詰まる。影を地面へと縫い付けられてしまったかのように、一歩も動けない。


 カツカツと足音を響かせ、歌うように言葉が続く。


「そうしたら、あなたたちや男に対する憎悪であなたたち以上の悪人になると思うんです」


 でも、となこが声を潜める。


「それってもったいないことだと思いません? わたし以上の悪になれるかもしれない。今よりももっともっと、かみさまを満足させられるかもしれないのに、復讐の鬼くらいで終わらせるなんて、ねえ?」


 なこの視線が、いまだ気絶しているユアへと向けられた。その瞳は、歪んだ感情で鈍く輝く。


 さて――と手を叩きながら、なこが言う。


「あなたたちにはもう価値がありません。価値がないのですから、わたしが食べちゃってもいいですよね」


 ここではないどこかに座している『かみさま』とやらに、なこは訊ねる。


 その言葉の意味が察せない男たちではなかった。殺意はなくとも、その言葉は死刑宣告に等しいものだ。


 恐怖にがんじがらめになった体を動かすことができたのは、死への恐怖ないしは生への執着が、なこへの恐怖を上回ったからかもしれない。


 このレンガ倉庫は、カラーギャングの根城で、暴力団のシマでもある。警察もおいそれとは捜査できない場所。所持が許されないものがいくつもあった。


 棚が勢いよく引き出され、その中の拳銃――旧ソ連で生み出されたトカレフだ――を掴み、なこへと構える。


 少女一人に対して、五つの銃口が向けられる異様な光景。


 もっと異様なのは、そんな絶体絶命の状況にもかかわらず、余裕のある笑みを浮かべ続けるなこだ。JKの小さい体に穴を開け、魂を神の国へと送り返すには過剰すぎる威力がある。しかも、トカレフは五丁ある。空間を埋め尽くすように殺到する銃弾を避けるのは困難だ。――少なくとも人間には。


「拳銃、ね。でも、こんな事件を知ってますか。歴史の授業じゃなくて、記憶力の問題。世間を賑わせている連続殺人事件です。あ、三つ目の事件ね。その事件の被害者は警察官三人――」


 銃声。


 弾丸六つが、小さな体を食い破らんと殺到する――。


 不意に、弾丸が跳ねた。少なくとも、跳ねたようにしか見えなかった。だって、そうでないと説明がつかない。一歩も動いていないにもかかわらず、少女は傷一つなくその場に立っていたのだから。


 なこは、上げた手を下ろす。


「話は最後まで聞いてほしいものです。先生に怒られますよ?」


 その声には怒りは露ほどもない。どちらかといえば、楽しみが滲んでいる。うきうきと胸を高鳴らせているかのように、リズミカルに、皮手袋を外す。


 男たちの中に悲鳴が走る。


 なこの手のひらには、口が付いていた。唾液にぬらぬらと輝く毒々しい赤い口が二つ。


 ねっとりとした外気に晒された舌が、喜びに打ち震えている。


 男の一人が失神した。倒れたのを見たなこが、ぷくりと頬を膨らませる。


「ひどいなあ。わたしの手を見て、気絶するだなんて」


 ――最初はあなたに決めた。


 ゆったりとした足取りで、倒れた男へとなこは近づいていく。その間、ちょっとだけ雨量を減らした弾丸の雨が降り続いていたが、なこを穿つことはない。あげられた右手を中心として、見えないバリアが生まれているかのように、銃弾は逸れていった。


 間もなく、なこは男の下までたどり着く。その時には、トカレフの弾はすっかり打ち尽くされていた。百発以上撃ち込まれたはずなのに、無傷。男たちは呆然としているようであった。


 なこは銃を手にした男たちなど気にも留めていない。「いただきます」とごく当然のことのように手を合わせた。


 右手が、失神中の男の胸へとあてがわれる。


 ぶちり。


 肉が裂けていく音が倉庫に響く。


 ぐちゃぐちゃもちゃもちゃと咀嚼し、飲み込むように手が律動する。


 はあと、熱っぽい吐息が、なこの口から洩れる。


「これです。これ……! この味が堪らないんです」


 立ち上がったなこの右手は赤く染まっている。その真紅の液体を、口から伸びた厚い舌が舐めとっていく。


 その目には歓喜だけ。


 大好物の料理を目の前にした、年相応の笑顔が浮かんでいる。


「そこで待っていてくださいね。骨までしゃぶってあげますから」



 軽い振動でユアは目を覚ました。


 目覚めてすぐに気が付いたのは、自分が何者かに背負われているということ。


「うん……?」


「お目覚めですか、先輩?」


「その声は、なこ……」


「はい。なこですよ」


「一体何が」


 思い出そうとすると、頭がキリリと痛んだ。物理的な痛みとともに、幻肢痛にも似た痛みが頭の中に広がる。映像を伴った痛み。


 ぶよぶよとしたバケモノが、ヒトを食べていく光景。


 それはあまりにも真に迫っていて、事実かと錯覚してしまいそうになる。吐き気がこみあげてきて、うめき声をあげる。


「大丈夫ですか?」


「…………吐きそう」


「頭を殴られましたからね。脳震とうにでもなってるんじゃないですか」


 大事なパーカーですから吐かないでくださいね、なんて言いながら、なこが膝をつく。そろりと背中から離れて、その辺のベンチに腰掛ける。


 息を吸って吐く。


「飲み物買ってきましたけど、コーラと水どっちがいいです?」


 気が付くと、そんな声がした。そっちを見れば、ペットボトルを二つ手にしたなこが立っていた。吐き気を抑えている間に、買ってきたらしい。


「水」


「ですよね」


 差し出された水を一息に飲んで、ふうと口元を拭う。


 ふと、なこのパーカーに目が入った。それが目に入ったのはたまたまだった。


「そこ、汚れてるわよ」


「え、どこです?」


「そのどくろのところ。赤くなってる」


 白の骸骨の顎あたりに、赤銅色の斑点がついていた。さっき見た時はなかったから、最近ついたものだろう。


 パーカーを脱いだなこが、あちゃー、と悲しそうな声を上げた。


「お気にの服だったのに」


「また変なところを汚して」


「ホントですよ。いつ汚したのかなあ。食べた時? でもきちんと食べたつもりだったんだけど……」


「食事中に汚したにしては随分と変なところね」


 ほら、とユアが手を差し出す。なこがきょとんと首を傾げる。


「パーカー貸しなさい。わたしが洗ってあげるから」


「いいですよ。別にこんなの捨てちゃっても」


「お気に入りのものなんだから大事にしなさい。色的にはケチャップってところかしら。それなら、時間が経ってなければ何とかなるかもしれな

いわ」


「ホント、先輩って優しいですね」


 ――悪人の素質があるなんて思えない。


「何か言った?」


「ただの戯言です。それよりも、先輩って洗濯なんてできたんですね」


「そりゃあ乙女のたしなみですから。っていうか、あたしが気絶している間に何が起きたの?」


「えっと、すっごく大変だったというか何というか。殺人鬼さんが現れて」


「さ、殺人鬼?」


「はい。説明すると長くなるんですけど、倉庫に監禁されていたら男の人がいきなりやってきたらしくて。確かイゴーロナクって名乗ってたっけ」


 会話をする二人は、夜の帳が下りた街を歩く。


 遠くでサイレンの音が鳴り響く。


 通り過ぎるパトカーから発せられた赤い光によって影が生まれる。


 返り血のような赤の中で、首のない巨体が、待ちわびるように手を振っている。

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