きみにささやくもの

 リビングに行くと、少女がいた。


 勝手知ったる顔で目玉焼きにソースをかけているその少女に、ユウは見覚えがあった。というか、見覚えしかなかった。


「なんでいるんだ?」


「外で待っていたら、新聞を取りに来たお母様と出会いました!」


 お母様だなんて、と手をパタパタとさせ、ユウの母が言う。味噌汁を注ぐ母の背中を睨みつけながら、ユウはため息。お世辞を言われて気分がよくなっている。


 ユウは、少女の正面の席に座る。少女は平然と目玉焼きに箸をつけている――ように見えて、空をつまんでいる。その頬はわずかに赤い。


 腕を組んで神妙な顔をしていたユウの前に、朝食が並べられていく。あーあ、クロノちゃんはちゃんと取りに来てくれたのにな、なんてお小言が耳に入らないくらいには、考えに没頭していた。


 ちらちらとユウのことを見る少女の名は、後藤クロノ。自分を好きだと公言するクラスメイト。


 そして、ストーカーであった。



 ユウとしては、大したことをしたつもりはなかった。ただ、困っている人がいて、それを助けてあげただけ。それ以上でもそれ以下でもない。


 学校の七不思議でも調べようかと、旧校舎へと向かう最中に、クロノを見かけた。手押し車をあぶなかっしい手つきで押しながらどこかへと歩いている姿を見て、ユウは心配になったのだ。あんなにふらふらしていたら、転んで怪我でもするのではないか。


 それで、手伝いを買って出た。肥料の運搬を代わりにやることにしたのだ。ここまでは普通だった。むしろ、最初はツンケンとしていて勝手に手伝いに来やがって、という雰囲気であったはずなのだ。


 いつ態度がひっくり返ったのかは定かではない。


 気がついたら、クロノの目にはハートが浮かんでいた。ユウがヒシヒシ感じていた距離感は地球と月の距離から、原子と電子くらいにまで近づいていた。手を差し出したが、後生放さないというレベルでにぎにぎしてきたし、名残惜しそうに手を放した後は「一生手洗いしませんっ!」なんてことまで口走っていたほど。


 そんなクロノの豹変に、ユウは困惑した。理解が追い付かなかったが、異様な雰囲気に問いただせなかった。


 その日は、逃げるように去った。次の日には告白をされ、さらに次の日にはストーカー行為に気が付いた。――それが昨日のことなので、四日目には自宅まで見つかってしまって、肉親と親しくなってさえいる……。


 一体、何があったのだろう。


 クロノの行動に対する嫌悪感の前に、そんな疑問が頭の中には浮かんでいたのだった。



 ユウとクロノは街へ出ていた。ユウは漫画を買いに行く予定だったのだが、一緒に行きたいとクロノが言ったのだ。別に断る理由もなかったので連れていくことにした。それに、質問したいこともあった。


「一昨日のことって本当なの……?」


「はいっ! ユウさんのことが大好きです!」


 当たり前のことのように、クロノは口にする。目を丸くさせた道行く人々に、なんでもないですから、とユウは言って回る。そんなユウの背中に、クロノの熱い視線が突き刺さる。


 ため息が出る。好きというのはイヤっていうほど聞かされたのだが、いまだに信じられなかった。


「好かれるようなことはしてないんだけどなあ」


「いいえ、あなたはわたしの王子様ですっ」


「そんなんじゃないってば」


 クロノが立ち止まる。つられて立ち止まれば、その小さくてあどけない顔がすうっと近づいてきた。ユウは息を呑む。黙っていれば、すごくかわいかったが、その小柄な体躯には、ユウという『はくばのおうじさま』に対する狂気的な愛がぎっしり詰め込まれている。


「そんなことないです。わたしを助けてくれたのは、ユウさんがはじめてでした」


「頼めばみんなやってくれるよ」


「それじゃダメなんです。何も言わずに助けてくれるようなヒーロー的な人じゃないと」


 こぶしをぎゅっと握りしめるクロノ。ユウは気が付かれないようにため息をついた。少女漫画の読みすぎなのではないかとツッコみたくなったが、妄想という沼へとすっぽり沈み込んだクロノは、聞いてはいないだろう。


「そんなだから、いつも一人でいるんだぞ」


「わたしはユウさんがいればそれでハッピーですから」


「そうかなあ」


「そうです! あ、チューしてくれたらもっと幸せになりますっ!」


 女の子が気軽にそんなことを言うんじゃない――そんな言葉を口にしようとしてユウはやめた。クロノは勘違いさせようと思っているわけではなく、本気でそうしたいと思っているのだ。


「ほら、バカ言ってないで行くよ」


 はい……と残念そうな声。ちょっぴり言い過ぎてしまっただろうか。


 後悔の念をわずかに覚えながら、隣を歩くクロノの様子を窺う。歩きながらもじもじと体をくねらせていた。腕はかずらのように自分の体へ巻きつかせている。セクシーというよりは気持ち悪い。


「……何してるの」


「ひどいことをしてくるユウさんのことを想像したら、そのう、興奮してきちゃって」


「…………」


 何もツッコめなかった。無敵だなあ、なんて心の中でつぶやくことしかできなかった。



 興奮してしまったクロノは、トイレに行った。あんまり想像したくなかったが、「変なことはするなよ」と釘を刺しておく。「そんなことはしません、ユウさんのためにとっておきます」なんて火の玉ストレートが返ってきて、むしろユウが赤面してしまうのだった。


 そんなわけで、ユウはひとりベンチに座っていた。


 時計を見れば、家を出てからまだ一時間も経過していない。体感だと一時間以上は話していた気がするのに。


 膝に手を置いてクロノが戻ってくるのを待つ。疲れがどっと押し寄せてきて、ため息がこぼれた。手持ち無沙汰だし、スマホでも見ようかなと。


 そうしたところで、影がユウを覆う。クロノが戻ってきたかと顔を上げれば、真っ赤な服の女性が立っていた。そんな人間、この街には一人しかおらず、一人で十分だった。


「八塩さん……?」


「ああ八塩だぞ」


 その女性は、HPL学園理事長の秘書をやっているという八塩紅であった。スカーレット・クイーンとか呼ばれたりもしている。


 そんな学園の有名人は、校外でも真紅のスーツに身を包んでいた。手には、レジ袋が握られていたから、仕事熱心というわけでもなさそうだ。


「学校の外でもその服装なんですね」


「わかりやすいだろう? こういう派手な格好をして歩くことで、非行少年少女がびっくりして動き出したところを捕まえるというわけだ」


「ってことは仕事中なんですか?」


「今まさに、彼女と手を繋いでいた男子生徒を摘発したところさ」


「…………」


「冗談だ。犯罪行為を行っている生徒はいなかったから、昼食をと思ってね」


 からかうような笑みを浮かべた紅が、レジ袋をわずかに上げる。よく見ればコンビニのロゴが記されていた。コンビニ飯らしい。


「ところで君は何をしているのだい?」


「僕はちょっと待ち人を」


 遅いなあ、と思いながらユウはクロノが去った方角を見つめるまだ、戻ってこない。何かあったのだろうかとちょっと心配になってきた。


 視線を紅へと戻せば、にやにやと笑みを浮かべていた。彼女がやってくるのを待ちかねていると勘違いされているような気がして、ユウは焦る。


「……付きまとわれているだけですから」


「付きまとわれている? それなら、断ればいいではないか」


「それはそうなんですけどね。なんていうか、できないっていうか」


「ふうん、そういうものか」


 ユウが頷くと、紅の顔から笑みが消える。神妙そうな面持ちになったものだから、ユウは身構える。何か、変なことを言ってしまっただろうか。


「優しいのはいいが、その優しさは身を亡ぼすかもしれないな?」


「はい……?」


 コホンと紅が咳ばらい。その顔にはいつもの軽薄そうな雰囲気は微塵もなかった。それが逆に、不安を掻きたてる。


「一つ、予言をしよう」


「予言」


「これから本屋に行くつもりだろう」


「どうしてわかったんです」


「だから予言だ」有無を言わせぬ勢いで、言葉が続く。「そして、それによれば本屋にはいかない方がいい」


「本屋に行かない方がいい……?」


「ああ。君の命に係わることだ。私だって君というおもちゃ――いや、面白い人間を失いたくはないからな。助言には従ってもらいたいものだ」


「……もし行ったら?」


「何が起きるかは私にもわからん。だが、ひどい目に遭うのは間違いないな」


「…………」


「信じられないなら、別にいいさ。その場合は、そうだな。クロノ君を連れていくといい」


 ドキンと心臓が跳ねた。


 どうしてそこで、クロノの名前が出るんだ。


「ふふふっ。私だって情報通のつもりだ。付きまとわれている君の姿は校内で見させてもらったよ」


「そんなもの忘れてほしかったです」


「いいじゃないか。あれだって、君の優しさが生み出した結果だ。彼女になってくれる子がいてよかったと考えればいい。――そのおかげで、君は命拾いすることになるわけだしな」


「命拾い?」


 意味が分からず、ユウはオウム返ししていた。優しさのせいで、クロノに好かれてしまったというのはまだ理解できた。


 だが、命拾いするというのはどういうことなのだ。


 ――僕は、後藤さんに助けられるということなのか?


「まさしく」先回りするように紅が言った。「本屋に行くならば、そこで何が起こるのか心配だというならば、彼女を連れていけ。そうすれば、命だけは助かるだろうさ」


「命以外は選択権がないみたいな言い方しますね」


「だって選択権はクロノ君にあるからな。ならばこそ、相応の覚悟をしろ、というわけさ」


「……意味が分かりません」


「だろうな。まあ、心に置いておきたまえよ」


 じゃあな、と手を振り、紅はその場を去ろうとする。一方的に、言うだけ言って。


 もっと、詳細を知りたい。


 そう思って追いかけようとしてが、意に反して体は動かない。特徴的なヒールの足音がゆっくりゆっくりと遠ざかっていって、聞こえなくなる。


 そこでようやく、体の硬直が解けた。


 同時に、遠くから駆けてくる足音。そちらを向けば、スカートを翻しやって来るクロノが見えた。


「待たせちゃってすみ、ません……?」


 ユウの間近までやってきたクロノが立ち止まり、すんすんと鼻を動かし始める。その姿は、自らの縄張りを荒らした犯人を見つけようとする大型犬のよう。


 鼻を利かせながら、彼女の顔はユウの正面にまでやってくる。その目にはいつもとはまた別の、ナイフのような輝きがあった。


「知らない女の香りがする……」


「怖いこと言わないで。知らない人じゃなくて、八塩紅さんだよ」


「誰それ」


「学園にもたまに顔を出す学園町の秘書をしてる人」


 そこまで言ってもクロノは疑問符を浮かべていたので、赤いスーツの人、と言うとクロノはポンと手を叩いた。


「……あの人大嫌い」


「今嫌いになったとかじゃないよね?」


「もともと嫌いだったけど、わたしのダーリンに話しかけてきたからもっと嫌いになったのっ!」


 ダーリンて。


 ダーリンダーリン連呼しながら抱きついてこようとするクロノを押しのけながら、先ほどの言葉の意味を考える。


 本屋で何かが起きる。


 本屋に行ったら命の危険がある。


 それってつまり、命がお脅かされるようなことが起きるということ。一介の秘書の言葉を信じるとしたらだが。


 腕組みして考え込んでいたユウの手に、柔らかな感触。視線を向ければ、クロノが抱きついてきていた。それも、自分の胸部を押し付けるかのように。


「……何してるの」


「えっと、誘惑しようかなって、えへへ」


 えへへ、じゃないんだよ。


 先ほどまで真剣に考えていたのが急にバカらしくなってきた。そもそも予言って口にしていたではないか。そんなあやふやなものを信じようとしていたのか。しかも、クロノがいれば何とかなるっていうアドバイスが、非常に嘘くさい。あまりにタイミングが良すぎた。


 抱きついたままのクロノが首を傾げる。ユウは何でもないと言って、彼女を振りほどこうとする。


「ほら行くよ。漫画本、売り切れちゃう」



 銃声がこだました。ショーウィンドウが割れる音に悲鳴が混じり、アンサンブルを奏でる。


 はたして、予言は的中した。


 本屋へとやってきてすぐだっただろうか。風貌の怪しい男がやってきたかと思えば、銃を構えて立てこもったのだ。


 先ほどで発砲は二回目。閉じられたシャッターの向こうからはサイレンの音が幾重にも聞こえる。パトカーをはじめとして、警察が本屋を取り囲んでいるのだ。


 本屋にいるのは店主を含めると、女性が一人と小学生が二人。そして、ユウとクロノであった。


 ユウは隣に座っているクロノをちらりと見た。クロノは意外なまでに平然としている。女性は体を震え上がらせていたし、子供二人は泣きじゃくっていた。ユウだって凶器を向けられるたびに身がすくむ思いになるというのに、クロノはそう言った素振りさえ見せない。しいて言えば、「きゃーっ」と口にしてユウに抱きついていたが、言葉は棒読み。胸越しに伝わる心臓は、ドクンドクンとゆっくり力強く脈動している。


 いつも通り。こんな異常な状況でさえも、クロノは平常運転だった。それが、怖くもあり、どこか頼もしくもある。


 とはいえ。


 紅の予言は的中してしまった。だが、よりにもよって立てこもり事件だとは思いもしなかった。正直、身の危険があるだなんて言われたところで、それは予言で、まったくピンと来なかったことだろう。だがそれでも。


 ――こんなことなら最初から忠告してほしかった。


 だが、今更言ってもしょうがない。


 ユウの思考はすでに、違うところへと向けられていた。


 店主に銃口を突きつけ、その店主に受け答えさせている立てこもり犯は、こちらへは意識を向けていない。わずかに開けられた窓の向こうには、何十人の警察官がいて、彼らに対して、何かしらの要求を店主を経由させて伝えているらしかった。


 ――今なら、もしかしたら。


 立ち上がろうとしたユウは、服を引っ張られる。見れば、クロノが服を摘まんでいた。


「どうかした?」


「行くんですか」


「……うん。この状況をどうにかしないと」


「わたしをおかしいって言いますけど、ユウさんだって十分おかしいですよ」


「わかってる」


 こんな状況で、まだ人助けをしようとしている。銃を突き付けられたって、ユウは困っている人がいたら動くだろう。そうできているのだろうと、自分でもおかしいと思う。


「体が動くんだ。困ってる人がいたら、勝手にね」


「死ぬかもしれなくても?」


 死ぬ。考えたことがなかった。どうなんだろう。少し考えてみたが、よくわからなかった。怖くないといえば嘘になる。だが、恐怖よりも内から発する衝動がユウを突き動かすのだ。


 頷いたユウを見て、クロノが笑った。


「ううん。訊ねるまでもなかった。そうやって誰彼構わず人を助けようとするから、わたしを助けてくれた」


 ――ユウくんはそういう人なんだね。


 クロノが寂しそうに笑う。


「じゃあ、そんなわたしの王子様のために一肌脱いじゃおっかな」


「だから王子様じゃ――」


 言葉は言い終われなかった。それよりも先に、クロノの姿が消えたから。


 消えたというのは正確ではない。変貌した、と言うべきだ。


 その姿は、漆黒に包まれたかと思えば、黒は泡立ち、雲のようなガス状へと変化していく。ガスからは植物のつたを思わせるような細い触手が無数に伸びている。その中でもひときわ大きなものは、互いに絡み合い、地面へと伸びている。その奇妙なシルエットは、さながら山羊の脚のようだ。


 ガス状ならば重さはほとんどないはずだったが、触手はそのあたりのものを手当たり次第に掴んでは、その体へと取り込んでいく。


 暴食を体現したかのような異形の出現に、ユウはしりもちをついた。


 口をパクパクとさせて、クロノだったはずのそれを呆然と見つめる。すでに自失状態だったから、何が何だか覚えていない。


 粘着質な液体を滴らせた触手の一本が、ユウへ近づいていく。その禍々しくもどこか異様な美しさもたたえた触腕が、姿かたちからは想像できないほど優しく――ともすれば、母が子の頭を撫でるような――触れる。


 それを最後に、ユウは意識を失った。



 それから先のことを知っているものは、異端の教徒が崇めていそうな黒山羊のような姿へと変貌したクロノ以外にいない。というのも、そのほかの人間はユウと同じように気絶してしまったからだ。


 辛うじて意識をつなぎ留めることができたのは、立てこもり犯だけ。震える腕で拳銃を構え、発砲。警察から強奪したニューナンブから、人間を殺傷するには十分すぎるほどの威力を有した9ミリの弾丸が飛び出す。


 弾丸が、腐乱臭にも似た甘い香りを放つ冒涜的な巨体を貫いていく。小さな穴が六つできたが、すぐに触手によって埋められてすぐに消えた。


 立てこもり犯が絶望の声を上げる。シリンダーから、空薬莢が吐き出され、新たに弾丸が込められていく。


 興味深そうに――彼女に表情というものがあったならだが――リロードの様子を見ていた黒山羊の脚を持った触手の塊は、人の体ほどもある口を退屈そうにゆがめた。


 太めの触手が、立てこもり犯の首を掴む。


 バキリ。


 骨が折れる音が本屋に響いた。ぎゅっと首を掴んだだけで、立てこもり犯の体からは力が抜けて、モノになり果てた。


 ヒトではなくなったそれは触手によって口まで運ばれ、その大きな口へと吸い込まれていった。



 目が覚めると、大きな瞳がユウのことを見つめていた。その栗色の瞳はユウの目覚めに気が付き、喜び一色に染まる。


「目覚めたっ!」


 ぎゅっと抱きしめられる。もにゅんとしたものに顔が覆い塞がれて、呼吸ができない。窒息しそうになって、ユウは両手をばたつかせる。


「殺す気かっ!?」


「ち、違うってば。ちょっと心配だったから」


「心配?」


「うん。わたしの本当の姿を見ちゃったら、正気じゃいられなくなっちゃうの」


「はい?」


「それは、異常なユウさんでも変わらないみたい。もしかしたらって思ったんだけど、精神がぽっきり折れちゃった。廃人になっちゃったのね」


「僕は廃人なんかじゃない」


「ううん。廃人にはなったけど、わたしのミルクを飲んだから、元に戻れたの」


 うん? とユウは思わず聞き返していた。聞き間違いだろうかと思ったが、にっこりと笑ったクロノは首を縦に振る。


 ユウはきょろきょろと、周囲に人がいないことを確かめて。


「み、ミルク?」


「知らない? ゴトー印の牛乳って」


 ユウが首を振ると、クロノはあんぐりと口を開ける。それっから、手元に置いてあったカバンをまさぐるなり、瓶を取り出した。これ、と手渡されたそれは白い液体がなみなみ注がれた牛乳瓶であった。ラベルには、ゴトー印、という言葉とともに、デフォルメされたバフォメットが腰に手を当て牛乳を飲み干しそうとしているイラスト。


「これって、あやしいものとかじゃあ」


「わたしが出したと思ってる?」


 ぶんぶんと手を振って否定する。想像するのもはばかられる。体温が上昇する。顔なんか、真っ赤になっているに違いない。


「まだ出せないよ。お母さんが用意したものなの」


「牛を育ててるってこと」


「そんな感じ」


「なんだ。そうなら、そう言ってくれたらいいのに」


 念のため、ネットで検索する。検索結果はいくつもあった。レビューを行っているサイトもあり、濃厚で重厚な味わいが魅力なんだとか。生乳

だけではなく、アイスやプリン、チーズといったものまであるらしい。ってことは、でまかせというわけでもないらしい。


「こんなので元気になるのか……」


「えへへ。なっちゃうんだなあ。わたしが愛情をこめると」


 クロノが蓋を開け、差し出す。受け取ったユウは牛乳をまじまじと見つめる。


 なみなみと揺蕩う白い液体はどこからどう見ても牛乳としか思えなかった。


 口をつける。ほど良く冷えた液体が口いっぱいに広がる。ごくごくと喉を鳴らすように飲み、気が付けば瓶一本飲み干していた。


 おいしかったが、筆舌に尽くしがたい不思議な感覚が体いっぱいに広がる。エナジードリンクの類を飲んだ時の高揚感にも似ていた。


 牛乳の感想を口にしようと、ユウはクロノの方を向く。


 彼女を目にした瞬間に電撃が走った。雷に打たれたような衝撃とともに心がどきどきとしてくる。見慣れていたはずの顔が、瞬きを放っているかのように見ていられない。クロノのことを視界にとらえているだけで心はカッカと熱くなり、今にも暴走してしまいそうだった。


 顔を背けた先に、クロノが動いた。


 栗色の瞳に見つめられると、催眠術にかかってしまったみたいに体が動かせなくなる。


「催眠術とはちょっと違うけど、似たようなものかな」


 やっぱり怪しいものだったんじゃないか。――そのような言葉さえも、口にすることができないほどまでに、ユウの意識は目の前の少女へ向いていた。それ以外のものに意識が向かないようにさせられていた。


「こんな無理強いしたくなかったんだけど、ユウさんのためなの」


「僕の……?」


「こうでもしないと、さっきのことを忘れられないから。もっといい記憶で塗りつぶさないと」


 甘い香りに麻痺しつつある頭がズキリと痛んだ。


 狂気的な映像が脳裏に浮かび上がる。触手でできた塊が、よだれのように黒い液体をまき散らしながら大きな口を開け、弛緩した人間を貪り食おうとしている――。


 絶叫しようとしたところで、口が柔らかいもので包まれた。ほのかな体温を感じるそれが唇であるという事実に気が付くのに、それほど時間はかからなかった。


 優しいが、押さえつけるようなキス。初めてのチューだと脳が理解する前に、液体が流し込まれる。そのキスは口移しのためのもの。


 やってきた液体を飲み込まないようにしても、絡みつく舌がそうさせなかった。ついにはゴクリと、ユウの喉が動く。


 どれくらい唇を重ねていただろう。


 ぷるぷるとした唇がゆっくり離れていく。唾液でできた橋がしなって、切れた。


「そんなこと忘れた方がいいって」


 蕩け切った頭の中に、声だけが響く。意識というものはすでになく、ユウの頭は自然と縦に振られていた。


 楽しそうな笑い声が上がる。


 すっと、クロノがユウの耳元へと近づく。


「大丈夫。次に目を覚ました時には全部忘れて、わたしを好きになってるからね」


 囁き声が、一片の理性を塗りつぶした。ユウの意識は完全にクロノのものとなって、クロノの体を抱きしめるように倒れた。

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