神話生物を擬人化させてきゃっきゃうふふするだけの話
藤原くう
九頭竜の呼び声
声が聞こえた。
寄せては引いてを繰り返す海のような声が、頭の中でこだまする。周囲を見渡してみても、ユウへ話しかける生徒はいない。昼休みの喧噪に包まれている中に、ユウは棒立ちになる。
まただ。また、声が聞こえる。儚げな声は、先ほどよりもずっと大きく聞こえた。
――呼んでいる。
なんと言っているのかは分からなかったがそう感じた。
ユウは誘われるまま声のする方へと歩く。
気がつくと、古めかしい建物がある。旧校舎だ。声は旧校舎の奥から聞こえてきていた。
意を決して、中へ入る。
春の陽気に包まれた外とは違い、中はイヤに寒い。建設されてから百年以上の歴史ある建物は、経年劣化によって変色している。そのせいか中はうす暗く、どこかおどろおどろしい。
おそるおそる廊下を歩く。木製の床が軋む度、ユウは飛び上がりそうになった。
声のする方へと歩いた先には、扉があった。
保健室。
扉の上のプレートにはそう書かれていた。ユウの頭をよぎったのは、高校の七不思議だ。
旧校舎の保健室は開かずの間となっており、そこには眠り姫がいる。
あくまで七不思議で、本当のことではない。だが、保健室の扉には鍵がかかっていて教師でも開けられないともっぱらの噂だった。
ユウは、ここHPL学園へと入学してすぐに旧校舎を調べ回ったから間違いない。
しかし、声は扉の向こうから聞こえてきていた。
木製の扉に手をかける。そっと力を込めると、開かないはずなのに動いた。
驚愕に口をぽかんとさせながら、あっけなく動いた扉を開ききる。
はじめて入った旧校舎の保健室は、新校舎のそれとほとんど変わらない。保健の教師の机、薬品棚、そして、いくつかのベッド。違うところといえば、じめじめとした湿気を感じることくらい。
ベッドの一つがカーテンで仕切られていた。それが意味するところは一つしかない。
ごくりと、つばを飲み込む。
極力音を立てないようにしながら、カーテンに近づく。カーテン越しのベッドはうす暗くて、そこに誰かがいるのかいないのか定かではない。
カーテンに手を伸ばす。震える指が思ったよりも綺麗なフリルを掴み、ゆっくりとスライドさせる。
開かれていくカーテン。
露わとなったベッドには、少女が横たわっていた。
シミ一つない真っ白なベッドに投げ出されたみどりの黒髪に、病的なまでに白い体が浮かんでいる。少女は見なれた制服を身につけているから、HPL学園の生徒らしい。
すうすうと動く口元から顔全体へとユウの視線は動く。見覚えはなかった。少なくとも、クラスメイトや同級生ではない。
パチリと瞼が開く。ユウの体が硬直する。目の前に横たわる少女が起きがけに、知らない人間がいたらどう思うだろうか。考えるまでもなく、恐怖するだろう。女性ではないユウだって――相手が女性だろうと男性だろうと――怖い。
しかし、少女は叫び声一つ上げない。それどころか体を起こし、聖女のような微笑みをたたえてユウを見た。
「ごきげんよう」
春の日光を思わせるような柔らかな言葉が、自分へと向けられているとは、すぐには気がつかなかった。きょろきょろと見渡してみて、保健室に自分と彼女以外誰もいないことを確認してようやく、ユウは自分を指さした。
「それって僕に?」
「ええ、そうですけれど」
「…………」
「なにか、気になることでも?」
「なんていうか、驚かないんだなって思って」
「どうして驚く必要があるのでしょう」
「どうしてって、起きがけに知らない奴がいたらびっくりするよ」
そうかしら、といって少女は笑う。鈴を転がすような笑い声は、先ほどまで聞こえていた声とどことなく似ていた。
――気のせいだよね。
首を振るユウは笑い声を聞いた。少女はユウの考えていることなんてお見通しだぞ、とばかりに笑みを強めている。
「な、なにかついてます……?」
「何もついてないから安心して」
「じゃあどうして笑ってるんですか」
「不快な思いをさせてしまったのならごめんなさい。ちょっと、嬉しくって」
「別にそんなことはないですけど、嬉しい?」
「ここへ来てくれる人ってすごく少ないから」
「…………」
ユウを見て、少女がクスリと笑う。
「九頭竜碧よ」
「え?」
「私の名前。九頭竜碧っていうわ」
突然の自己紹介に、ユウの頭は一気にフリーズ。真っ白になった思考に、碧の楽し気な声が届く。
「私は眠り姫なんかじゃないわ。だから、貴方のことを取って食ったりはしないから、そんなに怯えないで」
「ええっと」
脳内で、同級生の顔を思い出す。全員を覚えているというわけではないが、碧のようにほんわか空間を放出している生徒は多くない。だが、記憶にはなかった。だが、眠り姫という架空の存在でもない。
となれば、一つ。
「ゆ、幽霊ですかっ!?」
後ずさりながら、ユウは叫ぶ。緊迫した彼の言葉を耳にした碧の瞳が大きくなったかと思えば、噴き出している。
「幽霊なんかじゃないってば。私は人間で、ここの生徒」
「で、でも見覚えがないです」
「それは貴方が一年生だから。私は二年生で、貴方の先輩。だから見覚えがないのも当然なの」
言われてみれば確かに。先輩であるという可能性を失念していた。ユウの口から、なあんだ、と呟きが漏れた。気が付けば、あっけなかった。
碧はベッドから降りて、ユウの目の前までやってくる。艶やかな髪が揺れる。血色のよい唇が言葉を紡ぐ。
「貴方に頼みがあるの」
「頼み……」
「大したことじゃないよ。私と話をしてほしいの。ここに来てくれるだけでいいから」
碧はポケットから鍵を二つ取り出す。古めかしい銀の鍵には、サメとタコのストラップがぶら下げられていた。二つのうち、タコの方がユウへと差し出される。
「それはここの鍵」
「どうしてそんなものを持ってるんです」
碧はストラップの紐の部分に指を通して、くるくる回す。「さあて、どうしてでしょう」
「二度と来ないかも」
「それは残念。でも、貴方は来てくれると思うな」
「…………理由を教えてください」
「だって、七不思議とか好きなんでしょ?」
ねえ、ユウくん。
それだけ言って、碧は保健室を後にする。笑い声が遠ざかっていった。
誰もいない保健室で、ユウは息を吐く。
それにしても、どうして名乗ってもいないのに名前を知ってるんだろう?
結局、碧の言う通りになった。
翌日から、旧校舎の保健室へと足を運ぶようになった。別に、七不思議が気になるとか、碧が否定しようとも、やはり彼女が眠り姫なんじゃないかとか、そういうことを考えてではない。ユウ自身、何となくとしか言いようがなかった。
扉には鍵がかかっている。渡された鍵で開錠し、保健室の中へと入れば、ベッドに腰掛けた碧がゆるゆると手を振る。
「やあ」
いつだってそんな言葉を投げかけられた。どんなに早く来ようとも、すでに碧は保健室にいて、ユウのことを出迎えるのが常だ。四時限目の授業が五分ほど早く終わった時でさえも、それは変わらなかった。
「いつもここにいるんですか」
「いつもってわけじゃないけどね」
「サボりですか」
「ひどいなあ。サボるような人間に見える?」
言いながら、碧はくるりと回転する。スカートが翻る。窓から差し込む日の光を受けて、黒髪が光を放つ。ゆったりとした口調だが、ユウは騙されない。不真面目さはなくても、真面目というわけでもない。惰眠をむさぼるためだったら、授業だってサボってしまいそうだ。
碧が何よりも大切にしているのが、睡眠のようであった。今だって、口に手を当て、あふうとあくびをしている。目はとろんと緩んでいる。今なら部屋を出てもバレないのではないか、と思って扉の方へと向かおうとすると、背中に声がかかる。
「まだ話をしていないのに、もう行っちゃうの?」
ユウは戦々恐々としながらベッドの方へと戻る。碧がベッドをポンポンと叩く。そこに座れということらしい。隣に座らないといけない。一個上の女子高生――それも美少女だ。緊張しないわけがなかった。その緊張が距離となって現れる。人一人分ほどの空間を見た碧は小首をかしげる。それから腰を上げ、ユウのすぐ近くに座り直す。
肩と肩とが触れ合う至近距離。甘い香りが、ユウの体温を上昇させる。
「ち、近いです」
「そうかな」
「そうです! だいたい隣に来なくたって話は」
「聞こえないかもしれないよ?」
「もう十分すぎるくらい聞こえてますっ」
ユウは距離を縮めてきた碧の肩をそっと押して、距離を開ける。そっぽを向けば、朗らかな笑い声が聞こえた。
「……いつも笑ってて楽しそうですね」
「事実、楽しいもの。ほら、前にも言ったじゃない。ここにはあまり人が来ないって。人が来ないと話が出来ない」
「旧校舎にいるから話ができないんですよ」
「それはそうなんだけど、なんとなく、ね」
この手の話になるといつも、碧は悲しげな表情になる。旧校舎から出て、多くの人と話をしたい、でも、できない……みたいな。
――でも、どうして、僕とは話をするのだろう。
「どうかした?」
「あ、や、なんでもないです……」
「変なの」
くすくすと碧が笑う。変なのはどっちだとユウはいつも思う。
それが夢だと気づけたのは、あまりに荒唐無稽だったから。
ある時は、巨大な白鯨と人間との死闘。またあるときは、火を噴く戦列艦と、それにからみつくクラーケン。
特に覚えているのは、エーゲ海を思わせる陽気な海面から沈んでいく夢。
最初は鰯などの魚群が見えて綺麗だったが、だんだんと真っ黒に染まっていく。
光がなく、音もない深海。ただ落ちていく。身動きはできなかった。
時折、影が視界を通り過ぎていく。その影は魚というよりは人の形をしているようにも見えたが、判然としない。その影は、落ちていくにつれて増えた。ちょうど、校庭に犬が紛れ込んだときの小学生のように、ユウの周りをくるくる動き続けていた。
不意に、背中に固いものがぶつかった。見れば岩肌があった。海底にまで到達したのだ。
いつの間にか、体の自由が利くようになっていた。
見上げれば、マリンスノーと覆いかぶさるような深く暗い闇。
ユウは体を震わせ、目線を下げる。揺蕩う影が一点へと向かっているのが見えた。
――僕もいかないと。
夢の中のユウは、意思とは関係なく動いていた。
影を追いかけるように、海をすいすいと泳ぐ。現実のユウはカナヅチだったが、今は違った。
視界の先に、何かが見えてくる。
モノリスだ。だが、既存のそれとは決定的に違う。幾何学を無視して造ったかのように歪んでいた。形はしっかりとあるのに、変化し続けているように錯覚してしまう。
モノリスの奥には城砦都市が広がっていたが、モノリスよりもさらに狂っている。海底に沿うように建設された都市は、歩いていると下っているようにも上っているようにも感じられるのだ。
自分がおかしいのか、この石造りの街がおかしくさせているのか。
街からは、悪意と恨みつらみを濃縮したような瘴気が放たれている。それは、彼たちを水底へと押しやった連中に対して向けられたもの。
円形の街はアトランティスを彷彿とさせたが、ひどく禍々しい。むしろ、神聖なものを冒涜しているかのようだ。
石畳の道路もそこにかかるアーチも、道路の両側に建つオベリスクも何もかもが、見ているものの常識や正気を根底から揺らがす。
進むにつれ、建物や道路に施された装飾が複雑になった。
まもなく、巨大な建造物が見えてきた。かなり古いものなのだろう、いたるところが削れ、豪奢な装飾だったものは、今では見る影もない。だが、その禍々しさはみじんも失われてはいない。
建造物の前には数多の影。彼らはそわそわしている。何か、大事が起きる前のように。――実際、ユウの直感は的を射ていた。
その巨大建造物には相応の扉があり、扉の前で影が口ずさむ。人類の言語とは考えられない、そもそも発音できるのかすら危うい文言が奇妙なリズムで発せられたかと思えば、地面が揺れた。
揺れとともに、扉が叩かれる。それは大砲の発射音のように、どこまでも響く。
封印をこじ開け出てくるのは、タコと形容するにはあまりに冒涜的な不定形の――。
そこで、目が覚めた。
ぜえぜえと荒い息がユウの口からこぼれていく。枕もとの時計は丑三つ時を差していた。
悪夢は毎晩のように見た。そうすると、健康優良児のユウでも、流石に疲れてくる。目の下には大きなクマができ、しょっちゅう欠伸をする。眠くて眠くてしょうがない。授業中に居眠りしてしまい、時には教師に怒られた。
それは、碧と話しているときも。
とろんとしていたユウは気が付かなかったが、彼を見る碧の目はどことなく申し訳なさそうに揺れていた。
ある日。
帰宅部であったユウは、放課後も碧と話をする仲になっていた。その日も、碧と話をしていたが、いつの間にか寝てしまったようだ。
机に体を預けるように眠っていたからか、腕がピリピリ痺れた。重い頭を動かし周囲を見ても、碧はいない。
開け放たれた窓から吹き込む強風が、カーテンをはためかせる。向こうの空は燃えるほど真っ赤で、ユウの心をざわつかせる。
「一人で帰っただけだよね」
不安に揺れる心へ言い聞かせるように、ユウは呟く。
その日は、保健室を後にした。
次の日の昼休み、ユウは駆け足で保健室を訪れた。
「こんにちは――」
言葉は誰にも返されることなく、乱反射して自分へと返ってきた。
保健室には誰の姿もなかった。
昨日感じた不安は、今や現実のものとなってしまった。
ユウは、鍵を閉めるのも忘れて、保健室を飛び出していた。碧がどこかへ消えてしまった。でもどこへ? わかるはずがなかった。
とりあえず、新校舎にある二年生と三年生の教室を見て回る。用がないのに上級者の教室へ立ち入るのはなんとなく緊張する。ざっとしか見て回れなかったが、恐らくいない。
――学校に来ていない?
それが確かめられる場所は一つしかない。職員室だ。
職員室までやってきたユウは、どの教師を呼べばか悩んだ。それに、なんて説明すればいい。先輩の九頭竜碧さんって人がいなくなった――それで、そんな生徒はいないと言われたら? 頭がおかしいと思われるに違いない。
スチール扉の前で考え込んでいると、扉が勝手に開いた。
そこには、赤いスーツを身にまとった美しい女性が立っていた。
「おや、君はユウだったか」
コクコクとユウは頷く。女性の名前は、八塩紅というらしい。学園の理事長の秘書らしい。
秘書がこんなところで何をしているのだろう。
それに。
「どうして、僕の名前を……」
既視感。碧と出会った時も同じようなことを口にしたが、あの時とは反応が違った。
どこかあざ笑うかのような笑みが返ってくる。
「そりゃあ、一度会ったではないか」
「え?」
「覚えてないならいいさ。それで、そんなに慌ててどうしたのだい?」
「えっと」
「私は教師ではないが、この学園のことなら一家言あるつもりさ。たいていのことは知っているよ」
どうする、と紅が問いかけてくる。
ユウは思案する。常識的な教師たちとこの得体のしれない女性と、どっちに打ち明けるべきだろう。
「九頭竜碧さんって知ってます……?」
正直、あてにはしていなかった。どれだけ詳しいといっても、一介の秘書が知っているとは到底思えなかった。
それなのに。
「ああ。碧君なら知っているぞ」
「ほ、本当ですか!」
「嘘をついて何になる。確か、三年生のサボり魔だ」
「やっぱりサボってるんじゃないですか……」
言葉が、ユウの口からこぼれる。紅の眉がわずかに上がった。
「碧君のことを知っているような口ぶりだね」
「ま、まあ」
「おや、おやおやおや」
紅の顔がユウへと近づいてくる。鼻と鼻とが触れ合うほどの距離。黒曜石を思わせるような瞳が、切れ長の目の中でこれでもかと広がった。瞳に浮かぶのは漆黒の光。
「もしかしてだが、碧君のお気に入りという男子生徒か。なるほど」
「お気に入り……?」
「何でもない。こちらの話だ。それで? 一年生の君が、どうして上級生の碧君について聞いているのかい」
「なんていうか……今日って、休みなのかなって思って」
「休みといえば休みだな」
「よかった」
「いやいや、よくはないぞ。――君にとっては最悪の知らせだ」
「最悪」
最悪という割には、にやにやと笑っている。碧の笑みとは対照的で、恐ろしい。
「ああそうだ。碧君は海に行った。海に帰るために、な」
海に帰るため。
人は海になど帰らないが、冗談を言っているようにも見えなかった。
入水。
そんな単語が頭の中に浮かんできたのは、国語の授業でたまたま耳にしたから。
ユウは愕然とした。錆びついた音が聞こえてきそうになるほどゆっくりと、紅を見た。
紅の頭が縦に動いた。
「そんな……! どうしてっ」
「さあな。あの子の考えていることなんて、私にはわからないよ」
ただ――。
紅の指が伸びる。真紅のネイルの先にいるのはユウだ。
「君のため、という可能性はあるかもしれないな?」
「僕のため」
「その様子から察するに、碧君とは親しかったのだろう。それで、寝不足に――」
「寝不足なのが関係するんですか」
「大いに関係している。恐らく、君が悪夢を見ていると確信している。そして、自分のせいだとも」
「悪夢……」
脳裏によぎるのは、毎夜見ていた、鮮明な映像たち。
この世のものとは思えない巨大な海洋生物が現れる夢の数々。
それが、先輩のせい?
「そんなことって」
「それがあると思っているわけよ。そんな理由で、というのはなしだ。本人は本気だからな」
「…………」
「とまあ、べらべらと憶測を語ったが、どこまで的を射ているのかはわからない」
気に病む必要などない、なんて紅は続けたが、気に病まないはずがなかった。
先輩が思いつめているなんて思わなかった――。
「気になるのであれば、海へ行くといい」
ユウは軽く頭を下げ、走り出そうとしたところで、ヘイボーイ、と紅の声。振り返れば、何かが飛んできていた。キャッチすると、それはペンダントだった。奇妙な星の印が刻まれた石がぶら下がっているだけのシンプルなペンダント。
「それはお守りだ。彼女に渡してあげるといい」
――私からの祝いの品だ。
笑いながら、紅は去っていった。
HPL学園の近くには海がある。学園は丘の上にあり、坂道を下っていけばすぐだ。だが、海といっても海岸線は一キロ以上続いている。どこにいてもおかしくはない。
時刻は昼休みが終わろうとしたところ。街には、会社勤めの人たちの姿がちらほらと見受けられる。後は、観光客くらいだろうか。大人ばかりが街にはいて、制服姿の女子生徒はかなり目立ちそうだ。道行く人々に聞いて回ると、崖の裏の方へと歩いていく制服を見た人がいたらしい。それを信じて、崖の方へと急ぐ。
崖は街の北西に位置する。神様が来たことがあるとかで、観光客に人気の場所である。さらに西北西へ進むと、崖に隠れる形でこじんまりとした砂浜があった。岩礁に囲まれており、五メートルもいけば深くなるから海水浴客も少ない。
人気が少なくて、死ぬにうってつけの場所。
ユウは駆ける。胸はろっ骨を突き破らんと脈動し息を吸うたびに痛む。酸欠気味なのか脚は重いし、汗が止まらない。それでも、ユウは腕を振り、脚を動かした。
そして――今まさに、白波をかき分け膝まで海水で濡らし、母なる海へと還ろうとする碧が見えた。
「碧先輩!!」
力いっぱい叫ぶ。
碧の脚が止まった。
ざぶんざぶんと、崖へと叩きつけられては白くなる波の音が、静寂の中で響く。
「やめてください……そんなことは!」
「じゃあどうすればいいの?」
悲痛な声が、ユウの胸を詰まらせる。
振り返った碧の顔はくしゃくしゃで、その目は腫れぼったく赤い。
「私のせいで、ユウくんが悪夢を見てる」
「そんなことは」
「ううん。ずっと寝不足でしょ。大きなクジラとかタコとかが出てくる夢を見ているんだよね?」
ユウは答えられなかった。嘘をついたところで、意味がなかった。
碧が悲し気に微笑む。
「やっぱり。そうだと思った」
「でもだからって、悪夢を見たのは先輩のせいじゃ――」
「私のせいなの。私はね、よく変な夢を見させてしまうみたいなの。眠っていないと、特に」
眠っていた原因は睡魔もあったが、周囲の人間に悪夢を見せないようにするためだった。
「保健室にいたのは、人も来ないし、よく眠られるから。それに、万が一起きていても悪夢を見せなくて済むかもしれない」
「…………」
「でも、ユウくんは来た。七不思議の調査のために。……あれだけ脅かしたのにね」
「声――」
「そう。あれは私の声。大体はびっくりして、逃げ出しちゃう。ユウくんは違ったみたいだけど」
「呼ばれているような気がして」
「呼ばれている?」
「いきなり脳内に声が響くのは怖かったですけど、優しくて、悲し気で。怖がらせているようには感じなかったから」
むしろ、逆だ。
碧先輩は、話し相手を求めていたのではないか。
立ち尽くす碧へと、ユウは歩み寄る。
砂浜から波打ち際。そして、海。ローファーが濡れる。スラックスが水を吸って、重たくなる。五月後半の海は、海水浴をするにはあまりに冷たい。腰まで海水に浸り、寒さに体の感覚がマヒしていくが、それでも先へ。
碧の前へ。
驚いている碧へ、ユウは手を伸ばす。
「僕なら大丈夫です」
「でも」
「ほら、こんなところにいたら風邪をひきますよ」
手を差し出す。その手に碧はたじろぐ。波に浸かった右手が背中へと隠される。
ユウは一歩踏み出して、隠された手を取る。濡れてひどく冷たくなった手をしっかりと握り、陸へと戻る。
二人の体はびしょびしょ。服の端からしずくが落ちて、砂に吸い込まれていく。
碧が立ち止まる。ユウも無理に引っ張ったりはしなかった。
黙っている二人を、春のそよ風が撫でる。
「こう見えても頑丈なんですから」
ユウは、細腕に力をこめる。少しでも碧のことを安心させたかったのだ。
碧は目を丸くさせ、ぷっと噴き出した。
「何それ。ちょっと頼りないね」
「……頼りなくてすみません」
「ううん。頼りないは言い過ぎた。でも、そんなこと、はじめて言われた。私のこと、気持ち悪いと思う人たちばっかりだったから」
「…………」
「気にする必要ないよ。私も気にしないことにするから」
行きましょ、と碧が歩き始める。手は、しっかりと握り返されていて、相手の体温が伝わってくる。
碧の気持ちが伝わってくる。
ユウも歩き始めようとして、思い出した。ポケットに手を突っ込んで、ペンダントを取り出す。
「あの」
「なあに」
「紅さんって人から先輩にって」
「これはペンダントかしら」
「確か、お守りって言ってましたけど」
「ふふっ。ありがとう。誰のか知らないけれど、ユウくんがプレゼントしてくれたものだからありがたくもらうね」
「なんか含みありますけど、怒ってます……?」
「怒ってません。私も迷惑かけちゃったから」
「?」
「ほら、早く」
ユウは碧の隣に並ぶ。
日光を受けてキラキラと輝く海を背に、学校へと戻る。
深海から呼びかけるような悪夢は、もう見ることはないだろう。だって、そうする必要がないのだから。
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