第5話

 狩野との時間は、未映子にとって心躍るものだった。


 刑事と被害者という立場なのだが、何故か狩野はあまり事件の事に触れてこなかった。何をしにきているのだろうと思うぐらい、何も聞かないのだ。


 記憶喪失の私を気遣ってくれているのだろうか。それとも、私を疑っていて心理的に追いつめようとしているのか。


 おかしな刑事だ。


「明日、退院されるそうですね」


 狩野が窓の外を眺めながら、未映子に尋ねた。


「はい。まだ記憶は戻っていないのですが、普通に日常生活を送っている方が思い出すかもって、お医者様に言われたので」


「そうですか。じゃあ、お会いするのは今日で最後になりますね」


「えっ」


 驚く未映子に、狩野は淡々と言葉を繋いだ。


「病院でお会いするのがという意味です。まだ犯人は捕まっていないわけですから」


「犯人の目星はついているのですか?」


「それは捜査上の秘密なので、今は話せません」


 犯人の目星はついているのか。と未映子は、安堵する気持ちでいっぱいになった。


 その時、狩野が驚く言葉を口にした。


「私は最初あなたが犯人だと思っていました」


「えっ」


「あなたの靴下に、被害者の血痕が染み込んでいたので」


「血を踏んだからでは」


「いえ、それ以外にも。あなたの靴下には被害者の肉片もついていました。通常、床の血を踏んだだけでは、そこまでの状態になりませんから」


 未映子には記憶がないので、否定する事も出来ず、ただ聞く事しかできなかった。


「ただこうやって毎日のように、あなたに会って話してみて、犯人ではないと今は思っています」


「それを聞いて安心しました」


 未映子は自分がどんな人間なのかもわからないので、狩野にそう言われた事で、自分の中の不安も払拭された気持ちになった。


「ただ」


 狩野が未映子の安堵に待ったをかけた。


「一つだけわからない事があります。あなたが被害者の顔を、何度も何度も蹴った理由です」


「私が母の顔を蹴った?」


「そうです。発見された時の高木治子さんは、認識する事も出来ない程の状態でした。あなたは被害者に非常に強い憎しみを持っていたと思われます」


 私が死んでいる母の顔を蹴った?


 想像しただけでも、恐ろしいと未映子は思った。そんな鬼畜のような行動を自分が取ったなんて信じられない。


「私は母の顔を蹴ったりなんかしてません」


 未映子は頑なに否定し続けた。この事を認めたら絶対に駄目なような気持ちがしていた。


 私と母は仲良しでなければいけないのだ。


「あなたと高木治子さんは本当に仲がよかったのですか?」


 狩野に言われたこの言葉が、未映子の消えた記憶の上に、恐怖とともに上書きされた。




 裕真に連れられ着いた先は、白亜の豪邸だった。庭も広く、門から玄関までの距離がやたらと遠かった。


 「ここは?」


 と尋ねる未映子に、裕真はにっこりと微笑み


 「未映子の家」


 と答えた。


 そんな筈はない。私が発見された場所は、1LDKのマンションだったではないか。


 未映子が不可解に思っていると、裕真が


「少し前まではお母さんの家だったよ」


 と答えた。


 母はこんな大きな家に住んでいた人だったのか。


 裕真の説明によると、母は会社の社長だった祖父の遺産を、未映子が中学生の頃、譲り受けたというのだ。そして母が亡くなった今では、全ての財産が未映子の物になったのだと。


 細かい手続きなどは、未映子が退院してから、弁護士の岩崎さんがちゃんとしてくれるから安心だよと、裕真は意気揚々と話してきた。


 未映子は何もかもがピンと来ない気持ちで、今から住まなければならない大きな家を、何の感情も持てないまま見上げ続けた。



 (つづく)

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