第十話 出里若菜の受難

 先だっての訪問者は再恋寺さんとの電話の結果ついに不明という結論になった。その旨を、まだ店長には伝えられていない。云ってもよかったのだけれど、伝えたことで話がこじれてしまうのでは、というあたしなりの危惧があった。店長はどうにも人柄がよすぎる点がある。彼女にこの不審人物のことを告げると、彼女なりにどうにかしなければならんと行動を起こそうとするはずだ。あたしはそれを望んじゃいない。

 ぼかして躱しておくことの方が何かと都合がよかった。彼女には悪いけれど、蚊帳の外にいてもらう。



 さて、定時を迎え、退店する頃には路面は水浸しになっていた。夕方ほどから急に雲が現れたようで、絶えず今に至るまで降り続いているらしい。昼間はああまで燦燦と日が照っていたというのに、あるいは空も情緒が安定しない時分があるという示唆だろうか。

 しんしんと雨は降る。街灯の薄い橙が、注ぐ光の粒を見せている。分厚い膜を張られたためか下界は大分暗い。駅前という人の繁盛を良く見せつける立地とはいえ、裏切りの雨を浴びてか人っ子がさっぱりといなくなっていた。まるで異世界にでも駆り出されたかのように静かだ。

 本来は差すべきじゃないけれど、日傘を脳天のお守りとして開き、明かりを頼りに帰路につこうとした。すぐ頭上に黒い天井を張った、ちょうどその矢先。



 びりりりりり、と。

 雨天の中で似つかわしくない音がかすかに聞こえた。デフォルトの電話の呼び出し音。普通なら拾わぬ音も、こうまで閑静を極めれば蚊の鳴く音すら赤子のだだに聞こえる。何と言えどもこの並みならないじゃくまくの最中だから、聴覚ばかりは鋭敏になっていた。

 この呼び出しの音が、一向に鳴りやまない。薄く、絶え間なく、雫のつぶてが砕ける音の中を細くたなびいているようだった。

 公園のほうからだ。例の、さびれた公園。どうにも、あの公園が出どころとなると気になって仕方がない。

 ちょっとばかし確認したらすぐに帰ろうと思った。今日においては再恋寺さんも言っていたように、あまり外にいるべきじゃないのだろう。

 いるべきじゃないとはわかっているものの、湧いた好奇心を押し殺して生きるというのは健康に悪いと相場が決まっている。豆粒程の昇華でもよいから適度に放っていくのが真の健康だ。これもそうである。

 ひょこひょこと足音をなるだけ漏らさぬようにして公園に寄ってみると、びたびたに濡れまくったベンチの座面に、何やら、微量な光を放つ物体が、か細い泣き声をあげている。

 ……ケータイだ。

 ぽつねんと、孤独に置かれている。近くに人の気配はない。乳飲み子が親に排乳を催促することよろしく、必死に、震えながら誰かが応答してくれるのを待っているようだった。

 どうしてこんなところに? 誰かの落とし物か? あたしは日傘の柄を握りしめ、やおらに近づいた。

 やまぬ呼び出しの音は、発信者の焦燥を表しているようだ。きっとケータイの落とし主が、自分の電話を探しているに違いない。

 と、あたしは、ケータイの画面を拝見した。

 一重に、好奇心の為である。

 そうして、一瞬固まった。

 「……!? うそ、なんで!?」

 『入海遥』。

 水滴で汚れる画面には、発信者の名前が表示されていた。



 運命論についてはあたしのこの脳内文芸の中でなんども触れて回ったけれど、その悉くを否定して見せた。ちょっとなびくところもあったけれど、あたしはこの運命論とやらは断固反対の意思を持っている。定められたレールを走行することをのみ人生というのなら、これほど救われないものもないと思うからである。

 そんな運命論否定派のあたしに、この仕打ちというのは、さすがに神様は底意地が悪いんじゃないだろうか。あたしがちょうどバイト終わって? たまたま雨で人がいなくて? 偶然電話の音を聞いて? 何の因果か電話の落とし場所がこの公園で? なんの巡り合わせか、そのケータイはあたしが本日の真昼時に仲たがいした入海君のケータイを発信源とする着信を受け取っている。

 気味が悪いに決まっている。何が起きてんだ、これは。

 あたしは、ケータイを手にした。見知らぬ振りができなかった。この呼び出しはまるであたしを誘っているかのようで。

 手にして耳に添え、緑色の応答のボタンに指をかけようとして、止まる。

 薄く呼吸を整えた。そして、意を決して応答をする。

 鳴くばかりのケータイが、息を吹き返す。

 「もしも」   

 ヒィィィィイイイイイン、と。

 鼓膜にとんでもない異音が届いた。

 「うるっさ!」

 反動で傘を落とした。あまりの音量に視界がチラチラする。

 イタズラ電話、とかじゃない。この異音の原理を、あたしは知っている。

 ハウリング。ケータイを持ち始めたころ、ふざけて近くの友達に電話を掛けたことがある。するとその直後、波打つような異音が響いたかと思いきや、次第にその波は大きくなっていき、しまいには怪音波が絶えず流れ出してくる始末になった。ケータイが壊れたものと思い涙目んなって大葉さんのもとに駆け込んだ思い出がある。自分の発した電波を、自分が受け入れてしまい発生する重複のような現象。明るくはないが素人目に説くとするならこれがハウリングというやつだ。

 普通に電話する分には起きる可能性は極めてすくない。だってそうだろう。普通は、『離れている相手と話すための』通話なのだから、離れている人間に対して送った電波を、自分のケータイが拾ってしまうはずがない。

 だって届きようがないんだから。

 ……つまり。

 「やっとあ『やっとあえたわね』」

 騒音の中、右耳と左耳。同じ言葉が、時間差で聞こえた。

 バクン、と心臓が跳ね上がった。内臓が底冷えていく。

 癪に障るハウリング音が、すぐ後ろからも高らかになっている。

 雨が額を滑っていく。背には嫌な熱気がこもる。足は定まらず、ただ震えるばかり。

 いる。

 うしろに。

 ケータイが、ぶつっと断末魔を上げて息絶えた。



 「好奇心は猫を殺すっていうじゃない。あれはさ、好奇心が刃物をもって猫にとどめを刺すわけじゃあないの」

 「あくまで好奇心は死に至る起因よ。死ぬには必ずほかの暴力が働いている。だから、好奇心は悪いわけじゃない。一番悪いのは猫を殺す暴力が悪いの」

 「それだから、あなたが私たち二人の関係性に好奇心をもつこと自体は、怒ったりしようとは考えてないの。でも、踏み込んでくるのなら話は別じゃない?」

 「指をくわえてみてりゃよかったのに、どうして食指を動かしたのかしら。唾液も乾かぬうちによくもまあぬけぬけと、入海君に手を出そうとしてくれたわね」

 「貴方は何? 私たちになんの因縁があって割って入ろうとしてくれてるのかしら? 邪魔をするのは野暮じゃない? 人の関係性に自分が思う正義とやらを振り上げて土足で踏み込んで、許されると思った?」

 「泥棒猫。あなたを殺すのは好奇心でも何でもないわ。あなたの浅はかな考えが生み出した壮大なエゴ。唾棄すべき小さな自尊心が招いた暴力によって死ぬのよ」

 「私という、暴力に」

 あたしは、この声を聴いたことがある。

 前回会ったときは、あたしのことを優しくほめてくれたはずだった。いい子だと。きれいだと。だけれど今放たれる言葉の節々からは、そんな丸みの感触はない。ただ敵を威嚇し、潰すばかりの、とげを含んだ言葉ばかりだった。

 刃物のごとき鋭さを持った声はこうも続ける。

 「……良い縁じゃなかったみたい、私たち。そうでしょ? 出里若菜ちゃん」

 無糖のコーヒーを飲んだ時のような苦々しい味が口の中に広がる。顔をしかめた。

 ああそうか、貴方だったのか。

 落胆はあるけれど、不思議と違和感は感じなかった。確かにそうだもの、この人は端から、相応の怪しい雰囲気を持っていたじゃないか。

 先日、たった一人で喫茶店に寄ったときも、きっと『そういう』ことだったんだろう。

 あの時だってきっと、入海君が訪れるのを待つために来店したんだ。

 待ち合わせを埋めるための、アイスコーヒーだった。

 「……あなたが、吸血鬼だったんですか」

 「そうよ」

 「最近の傷害事件も、貴方の仕業なんですか」

 「さあ。どうかしらね」

 「入海君も同じように、いつかその手で殺すんですか」

 「答える義務はないわねえ。しいて言うなら」瞬間、両肩に、並みならない力で握られる感触が伝わった。「ッ!」声が出ない。固まるあたしに彼女が耳元で囁く。

 「あなたは、そうなる」



 再恋寺さんとの出会いを思い出した。このトイレの前でいきなり力に物を言わせて壁に圧しつけられたあの時の衝撃。それ以上の力で、ぐいぐいとトイレの奥の奥、人の目の届かないところへと抑え込まれる。

 「やめろ! 離せ! 離せってバカ!」バタつき、蹴りつけ、抵抗をしても、彼女がひるむ様子はない。まるで造作もなく、自室に荷物を運びこむかのような軽快さで、あたしという一人の人間を力のみで押し込めてくるのだ。

 ……かなわない。そんな現実が、脳みそに浸りこんでくる。

 深海のようだった。もがいてももがいても、ただただ沈んでいく。塩水飲んで届かない空を羨望するような、そんな絶望。引っ掛かりに手をかけても、力負けして引きはがされる。足で地面を突っ張っても同じこと。攻防はあくまで一方的。これ以上、押切という言葉が似合う場面はないだろう。視界がにじむ。

 逃げるという選択肢が、こうまで通じないなんてありえてたまるか。

 途端、あたしの体は解放された。

 解放、というのは誤用か。袋に入れられたネズミを、人の手から離れたからと言って解放というのは少しおかしい。

 「いッた!」

 個室に投げ入れられたらしい。背中と尻にとんでもない衝撃が加わる。

 あたしは、怪物を見上げた。

 逆光が差す。トイレの個室は暗くて狭くて、出口に陣取る彼女の顔は、影が生じてよく見えない。

 けれど爛と光る眼光だけはよくわかる。交じりっ気のない深紅。およそ人のソレじゃない、その双眸。

 「ねえ、今どんな気持ち?」

 化け物が悪戯っぽく嗤う。

 あたしは何も答えられなかった。からっからの喉が、へばりついて言語を吐き出せない。

 「自分が毎朝見ていたニュースの、被害者として並ぶことになる、その感想は?」

 そんな言葉を皮切りに、彼女はずいとあたしに顔を近づけた。

 「やめっ! ……」やっとこさ出た拒否の言葉。それで彼女が勘弁してくれたなら、どれだけよかったか。

 ふわりと鼻腔に泡の匂いが届いた。彼女のウェーブのかかった髪が伴う、芳香。首筋には暑い吐息。これから起こるであろう暴力を、理解した。

 「やだ……まって。やめて」押し返すにも力が足んない。顔を背け、肩をすくめ、上体をどれだけ揺らしても彼女は微動だにしない。瞳からこぼれた恐怖が頬を伝う。連日テレビに映ってた報道がフラッシュバックした。変死、不審死、重傷、失血多量、行方不明、事故死、出血性ショック。

 何者かに襲撃され、意識不明となった被害者。

 『そんなもの』の内に、はいりたくない!



 途端、ぶつりと、耳の近くで皮膚が破ける音がした。先の、電話の切れるような、そんな音。ともに、体表を貫いて奥に進む刃の違和感と痛み。

 視界がスパークを起こしたように、バチバチとした。

 「ッあ!」

 脳髄を鮮烈に焼く電流が走る。首筋から端を発したその感触は、神経の、てっぺんからつま先までを縦横無尽に動き回るようで、痛みの次には、気味の悪い不快な感触が体をしびれさせた。ぞわぞわと押し寄せる悪寒が、背筋を通って体表に粟を生ませる。

 「イッッやッッ」

 耳元で絶えずなる体液をすすられる音。鼻息荒く、乱暴に、まるでそばでも食ってるかと思うくらい、下品に、じゅるじゅると、口内に備えた舌を、ヒルでものたくらせているかと勘違いさせるくらい、ぬるぬると、刺し貫いたそれは、捉えた獲物を逃がさぬよう、痛覚で支配するためにかズキズキと、それは晩餐というより、どちらかと言えば愛撫のそれに近しい、高貴的とは呼べない、どこまでも世俗的で、背徳的で、情欲的な行為。入海君はこの吸血行動を食事だと表現していたが、そう表現するにはあまりにも。

 余りにも、ヤラしい行為にすら思えた。

 これを、彼は耐えていたの?

 誰にも、明かすことなく。

 たった一人、己の中の秘密として。

 「ハッ……ハァッ……ハッ」

 地面にいながら窒息するかというくらい、呼吸がしずらい。

 力が抜ける。抵抗の余地すら考えられない。体が冷める。その一方で、体の輪郭を伝っていく血の温かさだけは感じる。あたしの、生きる素が抜け落ちてく。生理だとか、ケガだとか、そういう理由じゃなく、ただ、人の暴力で。

 瞬間あたしは、体内に生まれた閃光が、上は脳天、下は股ぐらまでを、貫くような衝撃にまみえた。ズグッと押し寄せたその波は、腹部の臓物を内側から膨らますような違和感と、神経性の毒のような痺れを生んだ。少し経って、隅々の筋肉をこわばらせる感覚と、強力な脱力感。脳みその中心が、ドクドクッと、波打ってるような感触がある。

 何が起きたか、わからない。ふわふわする。息が吸えない。唾液が口の端からこぼれる。ただむさぼられるばかりで、為す術が何もない。

 こんなの、あたしは知らない。

 「もっやだ……いや……死んじゃう」

 懇願がどれほど無意味な事かはもう知ってる。殺すと覚悟を決めた奴の殺意は、どんなに悲劇的な命乞いでも靡きはしない。おろか、一度でもその手で殺めたことがあるとくれば、言うまでもない。一人を殺した奴にとっちゃ、殺害対象が二人になろうが三人になろうが、もはや何ら特別な事じゃないんだろう。

 処女を失えばその後は割と見境がないのと同じように。

 吸血鬼も、人を殺すということに、きっと見境がないんだ。



 晩餐は急に終わりを告げた。

 化け物が、あたしの首筋から遠のいたのだ。

 「……あっ……う」

 気が、済んだのか。

 わからない。でも、殺すはずじゃないのか。口元を赤く染めた悪魔が目の前でにまにまと嗤ってやがる。濃い血液の匂いも相まってひどく気分が悪い。

 拘束を解かれたとはいえ、あたしが脱走を起こす、というのはあまりにも絶望的である。力も入らなけりゃ、もはや立つこともできやしない。太ももから先の足の輪郭を思い出せないほど、疲弊しまくっている。正直、あたしも精神的に参っていた。ヤるなら一思いにヤってほしい。もったいぶらず、その手で。ヤれるんだろ、あんな力を持ってるなら。殺せよ、もう。

 「うふ、だらしない顔」

 うっせぇよ。

 お前がそうさせたんだろ。

 悪態をつきたいけど声を出せやしない。喃語を出すのがやっとである。

 化け物はあたしの顔に手を添えてくる。続く加害を恐れてあたしはのけぞった。彼女の指先が涙の痕をぬぐう。

 なぜか死んだお母さんのことを思い出した。子供のころ、ケガをして泣いたりすると同じようなことをされたっけ。

 「出里若菜ちゃん。あなたのことは、今は殺さないであげる。それが彼との約束だから」

 彼女は言う。きっと入海君のことだろう。

 「けどこれ以上、私たちに何かしら不都合を与えてこようというのなら。その時は本気であなたを殺すわよ。あなただけじゃない。周りのすべてを殺しつくしてやるわ。出里若菜ちゃんにかかわるすべてを悉く干した後、ゆっくりお前を殺してやる」



 化け物はそう言い残すと、あたしが瞬きをするうちにすでにいなくなっていた。

 助かった、と言えるのか、これは? あたしはとりあえず息を整える。

「さいっ……あく……」

 つぶやく。押し寄せる後悔がぬぐいきれん。

 ……こんなことになるなんてわかってりゃ――

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