第九話 不穏。

 入海君はあたしの行動をエゴと言った。確かに、彼が吸血鬼とどういった関係なのかなんて考えようもしなかった。通り魔に刺された現場に居合わせたとしても、この被害者加害者の関係なんぞまず考えはしないだろう。起きた事件の落着をもってようやっと考えるものだ。あたしにとってのこの吸血鬼騒動はまさに現場に居合わせた時節だ。なんといえど落着をしていない。だから、あたしは彼と吸血鬼のつながりというものを加味していなかった。

 自分本位で踏み込んでくるな、か。

 めちゃくちゃいうじゃん。

 一体全体、どんなつながり何だろう、二人は。

 助けてやりたいなんて言う心がおこがましかったのかもしれない。要らんことを、あたしは善意として押し付けていた、か。

 体の中が伽藍洞になった気分だ。秋風を、薄手のところにまともに受けたような寒さだ。心がしょぼくれてる。面と向かってああまで言われたことは今までに一度もない。ないから大分心に来た。体も重いし、最悪な気分である。



 昼休みの終わりに教室に戻るとラニが寄ってきた。不服そうな面持ちで

 「ワッキーうちに何も言わねーでどこほっつき歩いてたんだよぉ。探したんだぜ? 段ボールの中とか、ごみ箱とか自販機の裏とか」という。

 「あたしのこと猫かなんかだと思ってる?」人を探す気がないラインナップである。

 「つか、目赤くね? どしたんワッキー。誰かと喧嘩でもしてきたんか」と相変わらずの洞察力をたたいて言ってくるからあわてて

 「喧嘩なんぞするわけねーっしょ。目にゴミが入ったんだ」とうそぶいた。

 「鼻声だぜ」

 「花粉症だ」

 「耳まで真っ赤」

 「うるせえもうやめろ」

 ラニがそっとあたしの前にポケットティッシュを差し出してくる。一枚をとって鼻を噛んだ。

 「……なんかあったん?」いつもひまわりのような笑顔を携えている彼女には似つかわしくない心配の表情でそう聞いてくる。あたしは一遍、鼻をすすって

 「……ねぇラニ」と呼びかける。

 「自分が信じたことをやっててさ、その行いを、たった一言、エゴだって言われて突き放されたら、あんたはどうする?」

 「えごぉ~?」ラニは頓狂な声を上げた。寸分沈黙したのち

 「……うちはさ、楽観主義なんだ。なんだって楽しく生きてられりゃいいと思ってる。それで、ほら。若菜が何に悩んでるかは知らねーけどさ……あの、なんだ、そもそも」

 もごついてついに出た言葉が

 「えごってなによ」

 である。

 おめーに泣きついたあたしがばかだったわ。



 心痛を催したとしても従事するべきものには従事しなくちゃならない。たとい己がバイトという至極末端な芥子粒のごとき存在であっても、労働によって 金銭の有無が発生しているともなればそこには必ず雇い主と従業員という浅く広い関係性がある。その関係性を念頭に置くと容易に休むという手を取れないのであった。だいぶ前に話したがあたしは現場に立ち、あくまで業務中においての暇ができたとしても、その余暇を持て余すことに罪悪感を覚える質である。何ら悪いことじゃないのだろうけれど、なんだか背中がムズムズし始める。さぼりならまだしも従事の場に在りながら、尚仕事がないという喜ぶべき事象に身を置いて神経をすり減らすという頓珍漢な精神を持っていた。

あたしは身なりはなるほど不真面目な外見を着こなしちゃいるのだけれど、内身は実に謙虚な真面目人である。ギャルという肩書は肩を張ってサイズをとり丈を合わしているわけである。あたしがギャル足ろうとする料簡においてはここでは割愛するけれども、とかく姿勢のみを見れば純真なギャルたるラニに負けず劣らず派手さを有しているものと自覚している。してはいるが内包する奔放さは彼女にかなわない。あの子はおそらく鼻水が止まらんなんていう理由にならん訳を用いて当日欠勤を決め込む肝っ玉が備わっているが、あたしは断れぬ私用の事柄があったとしても前日前々日の休暇要請の電話をとるときには必ず胃痛が襲う。あたしが休むことによって生じる迷惑を思う。その迷惑が他者に降ることをよしとしない。よしとせんから、その連絡が苦痛であるという寸法だ。そんな思いをして帰宅を決め込むくらいなら、ちゃんと持ち場について肉体的にきつい思いをしたほうがかえって心の平穏なのである。

 こと幸いな点は仕事場がそれほど苦痛を生まない環境であるところだろう。もしこれで従事中にプレッシャーをひどくかけられる場所であったなら、あたしにとっちゃ今夕こんせきが山場だったかもしれん。ヒビった心臓はもうちょっとの衝撃で簡単に壊れるものである。傷心とは文字通りだ。

 禍福は糾える縄のごとしとは言うが、こと禍に限っては幸せの来訪の有無にかかわらず連なってくる感触がある。入海君との喧嘩別れに近い結末を迎えた今、この禍の性質が糸を引いてさらなる不幸を呼び寄せやしないか、そんなことがどうにも不安分子となった。放課後、あたしの従事の時間が来る。



 喫茶フォレストのドア前に立ち、前髪を整えて、一寸の呼吸をし、ドアに反射する薄い鏡像をみて目の腫れを確認する。涙腫れは収まっていた。初出勤の時のような胸の動悸がするが、それを押し殺して扉を開いた。

「お疲れ様ですー。テンチョー」

 店の扉を開けて押し入れば、頭上のすぐ近くで来店の鐘が鳴り、真っ先に鼻腔に芳しい香りが届いた。店の出入り口はさながら喧騒と閑静の境界線である。ああまで、雑音ざつおん足音あしおと声音こわねにまみれたひどい俗っぽさを醸す外界が、塗装でできた木目調の板一枚のみを挟んでからはすっかり黙ってしまった。耳膜に響くは薄いジャズの曲調のみとなる。

 ほども待たずして店の奥からよく見知った女性が現れた。一張羅のエプロンを着こなしている。例の、店のロゴ入りのエプロンである。彼女の体格のおかげで腹回りの絵柄が嫌に突っ張っている。立体的な印象を与えるのは、はてさて狙ったものか、偶然のものか。

 「若菜ちゃんこんにちは」と彼女はまずもって挨拶を放り

 「ようやっと暑くなってきたわね」と世間話を振ってきた。

 「たまったものじゃないですよまったく」

 陽光にさらされるとあたしの肌は過剰なダメージを受ける。であるからして、日焼け止めを塗るのはもちろんのこと、そもろん陽の光を受けない努力を要されるというのが難儀なものだ。夏場は特に日差しを厭うにも工夫がいる。頼んでもないのに注ぎ狂うその陽光をすべて避けきるのは無理があるというものだ。日傘はもちろん、外界の暑さのなかできるだけ肌が露出しない服装を着用しなきゃならない。

 あたしは店に入るなり制服の胸元を緩めて涼をとった。アームガードを脱いで持ちよせているタオルで汗をぬぐう。べっとりとしなだれかかる髪をかき上げてすかした。客がいれば行えないあまりに無作法な行いだけれども、それすら行える点においてはこの店の良い点と言ってよい。過疎が加点とはこれ如何に。

 「これからもっと暑くなるわよ。なんたってまだ七月だし」

 「これ以上は暑くならなくてもいいんですよ。有難迷惑ありがためいわくだわ」

 「今日の最高温度は26度。まだ序の口ね」

 「序でそれか。盛り上がりの最高潮は何度になるつもりだろ」

 「最高潮でしょ。度を越えるんじゃない?」

 店長がカウンターのあたりでこぽこぽと何かを淹れている様子である。そうして持ってきたのはアイスコーヒー。ご丁寧に、グラスの傍らにはシュガー二袋とクリープが一つ添えられてある。

 「ありがとうございます」

 恭しく受け取ってお供の三すくみを空にした。匙で混ぜれば、黒い水が徐々に茶色に変わっていく。底の見えない沼の中で氷がおぼれている。

 「店長にとっちゃ痛々しいことを聞きますけれど、この店、序、中、終で枠づけするなら、どこにいると考えてます?」とアイスコーヒーを飲む片手間にそう聞くと、割と即座に

 「序」と答えた。

 「まだプロローグ。始まってすらないわこの店は。もっと若菜ちゃんに客を連れてきてもらわなけりゃいけないかも」

 店長はイタズラっ子のような笑みを見せる。集客なんぞ好意でやる分には特段責任はないから気楽なものの、そう期待を背負わされるとすくんでしまうというものだ。

 聞くんじゃなかった。

 とんだ受難である。           



 「そういえば若菜ちゃん」

 店長は客の来ぬ長閑を阻むように口を開いた。あたしはカウンターの席に腰を落ち着かせて彼女の言葉に耳を傾けた。

 「どうしました?」

 「さっき若菜ちゃんのことを訪ねてきた人がいたんだけど、知り合いか何かかな」

 「知り合い?」あたしは小首をかしげる。

 「この前、店に知り合いの方を連れてきたじゃない。それだからまた若菜ちゃんを訪ねてきたのかなと思って」

 「それは……」再恋寺さんのことを言っているのだろうが、今日のことに関しては全くもって記憶にない。

 「どんな人でした?」

 「亜麻色の髪でウェーブがかかってて、若菜ちゃんみたいに日傘を差していた人だったわ。大人の人って感じの」

 「その人が何て?」

 「この店に、出里若菜ちゃんて子が働いていると思うんですけれど、もう来てます? って聞いてきた。プライバシーの保護もあるから、お教えすることはできませんって断ったんだけれどね」

 と店長はいう。

 「その人はどこに?」店内を見渡しても人影などとんとない。

 「そうですか、なんて言って、コーヒーを一杯干したすぐ後に帰ってっちゃった。もし若菜ちゃんの知り合いだったら、ちょっと悪いことしちゃったかなって思ってね」

 「……んー」あたしは首をひねった。

 心当たりがないわけじゃあない。というのも、例えば再恋寺さんに面識がある人が、あたしを訪ねてきた可能性もないことはない。この町に依頼者がいるから、挨拶をしといてくれないか、なんていう要件であればこのアポなし訪問も少しは合点がいく。会いに来てみれば、あたしはまだ出勤してないし、しかも店長から粛々と断られたともなればすごすご帰るしかあるまい。不審人物として扱われるのは、誰だって不都合だろう。

 「店長。少し席を外しても?」と聞くと

 「いいわよ。誰もいないし」と妙にとんがった応えが返ってきたのでそれに甘えた。



 店の裏方に回って、もらった連絡先の番号をケータイに入力して呼び出した。相手はあの美人なお姉さん。再恋寺さんである。

 一コール。二コール。サンコール。ぶつっと途切れるような音がするとともに

 『やっほ。こちら再恋寺でーす。どうしたよ出里ちゃん。早速異変でも起きたかい?』

 と彼女の陽気な声が耳膜に届いた。変わらず息災のようである。

 「もしもし再恋寺さん。今お時間空いてます? ちょっと確認したいことがあって」

 とあたしは言った。電波の向こうで彼女はあくび交じりに

 『いーよ。ちょうど暇になった時分。タイミングよかったねえ、かかってきたのが数分も前だったら、時間が作れなかったところだよ』と言った。

 「やったぜ。ついてる」

 『それで、どうしたんだい』

 というのであたしは店長から来た来店してきた人のことを述べた。再恋寺さんに身に覚えがないかとも聞いた。

 再恋寺さんはあたしの一言一句を聞き終えると、

 『う~ん』と唸っている。長い沈黙を経て

 『出里ちゃんはその訪ねてきた人ってのがワタシの仲間じゃないかって思って連絡くれたってことでいいんだよね』と問うてくる。

 「ええ。正直、あたしにも心当たりなんて再恋寺さんの筋の人くらいしか思い当たる節がないし。その確認の電話です」

 『出里ちゃん。結論から言うとワタシの仲間じゃないよその人は』と彼女は言う。

 『大体、君に用があるのならまずもってワタシが君に連絡するしさ。君を訪ねてきたであろうアンノウンXは、こっちとしてもわからない』ともっとおらしいことも付け加えてきた。

 「……違うのか。それじゃあ……」

 一体だれが。

 何のために。

 あたしの名前をどこから知って、この店に来たんだろう。

 『おっそろしい話を持ってくるなあ君は』

 と再恋寺さんは呆れ色の強い声でそう言う。なんとなく彼女の悲壮に満ちた顔が思い浮かぶ。

 「もしかして、ストーカー?」

 『女性が? いや、ないことぁないかもしんないけどさあ』

 「割とあたしは昔からそういう、あとをつけられる被害とかこうむってたりするんですよね。ほら、再恋寺さんならわかるでしょ、なんとなくそういうのに目を付けられそうな、あたしの特徴っていうか特色というか」

 『まあ、わからんでもないけれど。あまりそういう被害に慣れすぎるなよ。慣れってのは人間の危機感を侵すぜ。薄くなった危機感がさらなる危害を誘う。よくあるものと済まさないほうがいい。年ごろの女の子なんだから、自身でできるリスクヘッジは怠るなよ。明日は我が身だ。どうなるかは分かったもんじゃないからな』

 それはそうではある。まったくもっての正論だ。



 『……本来なら、ワタシが君につきっきりになって護衛してやりたいんだがね。実際のところ、こっちも結構立て込んだ用事をさばいている最中だ。今、そっちの街にワタシはいないんだよ』

 「……そう、ですか」

 『ワタシのいない町で生きるのはずいぶん寂しいだろうけれど、とにかく、今ワタシが君の近くにいない点、こればかりはよく胸に刻むことだ。盾がないってのは、攻撃に対して無防備であることを指す。今君が襲われでもしたら、君を守ってくれるものがない。忘れるなよ』

――君の顔はやっこさんに割れてるってこと――と、彼女は付け加えた。

 『とかく、その謎の訪問者に関しては一応頭の片隅に保管しておくといい。バイト終わりの夜道は必ず気をつけて帰ること。たとえおばあさんが倒れていたとしても帰宅を優先しな。特に寄り道なんかはするなよ。まっすぐに帰れ。いーね?』

 「……はい」

 『そいじゃ。ワタシはこっちの件にもどるわ。何かあったらすぐに連絡よこしな。じゃね』

 断線の音とともにケータイは静かになった。

 「……実に」

 実に嫌な予感がする。

 

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