第八話 不和。
あたしは散歩を嫌がる柴犬をむりくり路面に連れ出すような形で入海君を人気のいない校舎裏に連れだした。
陽はまだ空高い。だけれども屹立する校舎の上背が、遮光の役割を担っている。ともすればその足元は濃い影が地面に薄く広がっており、日の届かぬその環境は文字通り日陰者の好む湿地空間となっていた。
あたしは好きだ。日の光を天敵とするあたしにとっては、夏場であっても適度な涼風を賜れ、じめっちゃいるが直射ほどの暑さはない。人の気がないというのも重大な加点ポイントと言える。
だから気が向いたらここに訪れる。あたしが一人になりたいときの憩いのスポットだった。
少しの湿り気を帯びた彼の袖を引っ張りながら、あたしは再恋寺さんから言われたことを思い出した。
無理な接触はしなくてもよい、とは触れこまれていた。このことが、無駄な接触をするな、ということなのか、あるいは、無理に接点を作らなくてもよい、ということだったのか、その言葉の真意はわかりかねるけれども、あたしとしては、彼女から承ったその勧告などよりもっと個人的な、心配という感情のほうが
勿論、再恋寺さんという特殊な専門家を蔑ろにするわけではないけれど、しかしどうにも、あたしの根幹の部分がこのまま事の起きる直前まで行く末を見守るという捨て鉢にも思える処置をよしとできなかった。完全に私情でしかないんだけれども、なんせケガは真新しくなっているようだったから、実害は、間違いなく続いている。この実害を見過ごして彼の平穏を唱えるとは少々の違和感がある。
仮に彼が、今にでもこの現状から抜け出したいと願っているのなら、あたしはその手を握ってやるべきだと思っている。手を握ることができたなら、きっと彼からも吸血鬼という正体の解明に役立つ何かしらの情報を得られるに違いない。
あとは再恋寺さんに任せりゃ、あたしたちの学校生活も平穏なものに戻れる。 一気に、片が付くわけだ。
あたしにとってはこの会談はそんな重要なものだった。
大団円に終わればいいけれど。
「地味に初絡みじゃんね、入海君。どうよ、高校生活充実してる?」
とは、あくまで世間話の体で差し向けた軽い挨拶である。あたしは校舎の壁を背負った。そうして、入海君を改めて正面から見据える。相も変わらず、入海君はそわそわとして落ち着いていない。
どう思ってんだろうか。急に襟首を引っ張って付き合えだなんて声をかけたが、これじゃまるきり、あたしがカツアゲをしているようじゃないか。なんとなくだが見覚えがある。それもごく最近の話。同じ様な恐怖を与えていなけりゃいいけれど。
「あの、話したいことって……」
と彼は口を開いた。前髪に邪魔をされる彼の双眸は、動揺のために光が揺れていた。警戒、そんな文字が、彼の黒目に映っているように見える。
「ま、いきなり本題に入る前にさ、渡しておきたいもんがあんだよね」
と言いながらあたしはポケットの中に隠してたある物を露わにした。
「とりま、これ」
生徒手帳。再恋寺さんから受け取った、いわゆる物的証拠というやつである。
さる吸血鬼狩りは血の匂いと香水のほのかな甘ったるさを、この薄っぺらい物品から見出したのだけれど、あたしにはとんとわからない。
彼は至極、目を開かせて
「ど、どうして出里さんが」と、たどたどしく聞いてくる。
「落としもんだよ。あたしの知り合いが見つけてくれて、同じ高校の子だからってあたしに託したんだ。路上でこれ落とすってのはさすがにポンが過ぎるでしょ」
と口頭の注意をしてやった。無くしゃただならん
「あ、ありがとうございます。本当に。全然気づいていませんでした」
と、感情のこもってない謝辞を述べて彼は受け取った。彼もまた生徒手帳とやらに何ら特殊な感情を持ち合わせちゃいないものと見える。
「……あのさ、」とあたしは口を開く。
「……拾った場所、喫茶店フォレストの裏路地に入ったらあるちっちゃな公園らしいんだよ。トイレ付近に落ちてあったって」
静かにそう告げると、入海君の髪色と同化した眉がぴくりと動いた。
「入海君、いたよね、あの公園」
「……話したいことって、何ですか」
それまで極まってよそよそしかった彼の声が、一本筋の通った力の強いものに変わる。いやな視線が、あたしをとらえている。
あの惨状の渦中にいた時と同じ瞳。
変わった点は、その眼球がともす光が、驚愕か、敵意か。その違いのみ。
触れてくるなと言わんばかりの言の鋭さに喉が渇く。
あたしは清涼飲料水を口に含み、舌で転がす。
潤いを得てなお、かすれ気味の声でもってこういう。
「入海君、なんかやばいことに巻き込まれてない?」
「……あたし、見ちゃったんだ。あんたが襲われてるところ」と切り出すと彼は
「……僕も、見ました。あなたがのぞき見してきてるところ」と切り返してくる。
「あたしんは防犯上必要な事だったからね。あれ。声もれてたし、人が襲われてるものと思ったし」
自分のことは棚に上げるのが上手な卑しい女である。耳が
「……実際、入海君、襲われてたし」あたしは髪をイジイジしながら言う。
網膜にあの情景がよみがえる。眼前にいる血色がよく線の細い少年が、あの時分、身体をそり返して死にかけていた被害者である、という事実がなんとも薄気味が悪い。再恋寺さんのいう、社会に紛れる吸血鬼、という題材が如実に表されてる気もする。
「……あれ、何?」と聞くと、入海君は
「うまく説明ができません。……言って、信じられるものじゃないと思いますし」という。
「吸血鬼」とあたしはつぶやいた。
彼の意識がこちらに向いたのを肌で感じながら、かまわず続けて
「それは知ってる。……そのうえで何してたの? って聞いてんの」と聞く。
「……信じるんですか? 吸血鬼」と心外極まった様子で問うてくる。
「一般ピーポーがあんなことできるわけねーっしょ。あたし見たんだぜ、血がビシャーッてなってるところ。それに巷じゃずっとそう噂されてんじゃん。あんなもん見ちゃったら、信じるしかないでしょーが」
……とはいえどぶっちゃけて再恋寺さんとの出会いがなかったれば到底信じようのないものだ。一見と賢人の言説がなければ、化け物の存在に納得はしなかった。百聞は一見に如かずとは言うけれど、委細を見たうえで十聞は
「……おっしゃる通り、アレは吸血鬼です」
と、観念したように告白した。
「……僕は、あの行為を吸血鬼としての食事だといわれてました。本当に、それだけです」
入海君は視線を落としながら力なくつぶやく。
「……食事って。んじゃ定期的にやってんの? 言っちゃ悪いけど、普通じゃないよ、あれ」
と突っ込む。ちょっと彼の表情は曇った。
「……まあ、普通じゃないですよね、あれ」
「いや、責める気はないからね、あたしは」と言って
「ただ、入海君は無事なんかなって思っただけ。見ちゃった以上、あたしにも責任吹っ掛けられてる気がしてさ。なんてーか、野放しにしちゃいけないなって思ったんだよ」
「……忘れてもらえませんか。誰にも言わないでください。出里さんが何かを望むなら、僕は言うこと聞きます。だから、二人だけの秘密にしてください」
と彼は、まるで自分が𠮟責を受けたかのような態度を見せる。
カツアゲ味が増したな。
「勘違いしないでほしんだけどさ、このことをゆすりに使おうとか、最ッ低な考えはあたしにはないんだわ」
とかぶりを振る。振って、次ぐ言葉に
「あたしは君の味方になりたいんだよ、入海君」
とした。
「あんたを助けられる術を知ってる」
入海君の瞳から、わずかに光が消えた気がした。
「助けるって……どうやって?」
「それを言っちゃ意味ないっしょ」
あたしは指を立ててシーッとする。内密。知られてはならない情報。
だが少なくとも、彼に目をつけている吸血鬼を退治するリーサルウェポンが今やいるわけである。いやまあ、どう倒すかは知らないからいまだ暫定のようなものかもしれないけれど。
「入海君のその首筋のケガ。見た感じめちゃくちゃ新しいじゃん。土日にもその食事とやらに付き合わされたんじゃないの? 最近のニュースじゃその手の暴行事件が連日報道されてるし、入海君もいつ大事にされるか分かったもんじゃない。だから会うのやめなよ。このことは秘密にするし、これ以上悪い状況にはさせないから。これ以上関わんのよくないって」
「……彼女は、そんな事件に関与していませんよ。関与できるはずがない……。思い違いです、出里さん」
「実際にケガ負ってんじゃんか。血だって吸われるわけでしょ。相手はしないだけでいつでも君のことが殺せるんだよ。今は餌として見てるから生かしているだけであって、用が済むなり自分に都合が悪くなったら何するか分かったもんじゃないよ」
殺せない、じゃない。
ただ、殺さないだけ。
生かさず殺さずを
そんなの、搾取だろう。
被害者である彼が口を割らないという点でも、何かしら弱みを握られてるに違いない。
『被害者』なのだから、助けてほしいに決まっている。
「……あなたが一体彼女の何を知ってるって言うんですか。何も知らないくせに憶測だけで分かった気になるのはやめてくださいよ」
とここにきて聞き分けのないことを言ってくるものだから、あたしはムッときた。
「確かにあたしはそいつのこと知らねーけどさ。だったら入海君こそ吸血鬼のことを信じすぎてんじゃねーの? 接してくる相手がすべて善人ってわけじゃあねーんだよ。それだったら詐欺だってこの世にないし、最近の事件だってきっとないんだっての。なんて言われてかどわかされたかわかんないけど、絶対このまんまだとろくな目にあわねーぞ」
「なら、出里さんだって、必ずしも僕にとっての善人であるわけじゃないでしょう」
「は?」
「接してくるものがすべて善人じゃないっていうなら、出里さんは何をもって僕に自らの善人性を説いてくれるっていうんですか」
「あたしは、入海君のためを思って」
「出里さんのソレはエゴじゃないですか。人を助けるだなんだと抜かして、結局は自分の願望を押し付けてるだけだ。僕を助けたいんじゃあない。ただ、自分の居心地の悪さをどうにかしたいだけでしょう。そんな自分本位の考えで、他人の関係性に足を踏み込まないでください」
「な……」
……あたしは、言葉に詰まった。彼のその一言は、あたしの心根に育っていた、あたしなりの正義を真っ向から否定する言葉だった。
……エゴ、だって。
「なんだよ……その言い方」
「危ないからかかわるなだとか、このままだと危険だとか、そういうのは結局のところ内情を知らない人間の言う言葉でしょう。常識と違うからきっとよからぬことだってバイアスがかかって、いろんなことを言うんです。そういうの、往々にして当事者のことを考えちゃいない。自分のものさしで、好き勝手にものを述べてるだけなんですよ。その好き勝手の中には、当事者の勝手は含まれていないものです。あなたもそうだ、出里さん」
「……意味わかんない……。なんであんた自分が利用されてるだけって気が付かねんだよ……。あんたこのままだと本当にいつか死んじゃうよ。身近で人が死ぬのはもう嫌なんだけど……あたし」
「……気持ちは、本当にうれしかったです。でも、僕が彼女を見捨てれば解決するなんて簡単な話じゃない。僕らなりのつながりもあるんです。出里さんの言う僕を救出するすべというのがどういったものかはわかりませんが、聞かなかったことにします」
彼はこの夏場における、風鈴を揺らす風ほどの声でそうつぶやくと、最後に
「だからもう、干渉はやめてください」
という言葉だけを残してあたしに背を向けた。
ゆっくりと校舎内へと入っていく彼のその背中は、とても小さく。
そして限りなく、遠いものにも感じた。
「エゴって、なんだよ」
そうつぶやかざるを得ない。……会談で得たものは、彼からの不信感、そして自信の喪失だった。
少なくともあたしの、彼を助けたいという思いそのものが、この時点で純粋な意味での輝きを失い、まるで土を被ったくすんだ鉄を、金属かすらも疑わしいと一思するような、ひどく苦々とした心持に変わった。
錆びた、と言ったほうがいいか。彼を助けたいとしたあたしの気持ちは、この時に金属のごとき光沢が剥離したものとみてよかった。
それにしたって。
「……なにこれ。あたしが悪いの?」
ぶわぁと、眼球が煮えたぐるお湯に包まれていく感触がある。鼓動が激しく高鳴って、みぞおちの上らへんがズクズクとうずく。
あ、だめだ。ダメな日だ今日は。
精神的に弱っちくなってる。普段ならこんな言い合い程度で傷が入ることはないってのに。ハート形の心にびっちりヒビが刻まれてる感触がする。
そうかい、あたしは余計なお世話かい。
あたしの彼に対する庇護心ってのは、結局のところ個人のエゴでしかなかったのかも知らん。
誰も、求めちゃいなかったと。
あたしはぐんにゃりと色形を変えていく風景を認めながら、目頭からこぼれだす感情の高まりをすすることしかできなくなった。
あかん。
こういう時こそラニちゃんに会いたい。
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