第七話 苦々。

 週の始めを月曜と呼ぶもんだから、日本国内では月に対する評価がどうにも好ましくないようにも思える。月から始まるこの七日制の由来は宗教に根があるらしい。六日をかけて世界を創造した神々は翌日一日を休日として休んだという。従って六日の労働、一日の休暇が定着したそうである。どこまでも神にあてこする愚民である。我々人類とは。忠実さにおいては心根を主にそそぐ柴犬のそれにも劣らぬ家畜根性じゃあなかろうか。

 星に由来を持つ呼称においては繁栄を極めた時勢の帝国が付近の星に準えてつけたと。少なくとも一千年と五百年も前ほどから今日こんにちに至るまでこの呼称は崩されていない。月はその間、不名誉な呼ばわりを受け続けていたわけだ。



 月を嫌うという点では今一つ。

 子女の身体も月のそれに支配を受けるものである。

 二次性徴の大きな目玉の一つとして男女二分の性差に付け加えて女子は都合四十年ほどは付き合う呪いを下腹部の臓器に付呪される。子を宿すという特異的な事象の代償として定期的な出血と並ならん痛みを強要されている。かくいうあたしもその呪いを受けた。幸いにも、この出血はあたしの有する血液恐怖症、通称ヘモフォビアの管轄ではないらしい。初めて出血を経験したときはさすがに意識が飛んだが、定期的に訪れるとなりゃさすがに痛みに対しての苛立ちが勝る。特例な症状であるにせよ、実物大の痛覚を食らわば身のあわもつるりと戻るようである。



 さてもこの定期現象も言わせてもらえば要らんお世話だ。実に。いったいどこの誰が、好き好んでこのような痛みを甘んじて受けるというのか。臨んだ覚えはないぞあたしは。そもろん、今生であたしが添い遂げる相手を見つけられるかもわからんのに、早いうちから準備をしても意味がないじゃないか。惚れた男がいて、かつその男との子を産んでやりたいと思いよぎったころから、この生理現象は起きてもよいと思うのだ。さもなくば、例えば世の中の男人を嫌ったまま生涯を終えたなら。接触を避け、接するを拒み、触れるをいとい、夫婦めおとのままごとにつば吐いて独り旅路を完走したなら。それはまるで痛み損だ。痛み、精神的ダメージ、伴う体調の悪化という不利益を四十年といくらかを耐え忍び、苦痛を苦々しく受けてやったというのに、報われるべきリターンがない。子々孫々を残すというのはなるほど確かに動物的な観点から述べれば第一優先すべき大事だろうけれど、その思考すらふるいと否定するのが現代のヒューマンである。個々の幸せに於いては出産愚か一夫一婦制をすら嫌い、何万何億の年月から続いてきた祖先の努力に土をかぶせ、自らこのつながりをてるも辞さないところまで来ている。群れの中で支えあう種族は、度重なる文明の進化とその副次的産物の利器に囲まれてついには単独を好む種族に変化しつつある。

 現代におけるあたしもその風を一身に浴びる若者だ。例にもれず親愛や友愛という外部的な愛情は持てど、情愛や性愛という内部的密度を持つ愛の矛先がなんとも見つからない。であるに今のところこの身体の異常に意味を見出せない。

 夏場に不似合いな悪寒を堪える月曜日。

 月があたしを苦しめる。



 「わっきー。ワッキー。おーい起きろ寝坊助」

 「……」

 机に突っ伏した状態でその声を聴いた。声の主は言わずもがなラニである。上下深い紺色のジャージを着ている。あたしはこの愛すべきバカを突っ伏した状態でめつけてやった。わけも知らないツインテは我知らずと呆け面をしている。

 「ワッキーよぉ。次は体育だぜぃ? 着替えんでいーの?」

 「あー。あたしアレだわ。今日体育休むし」

 「ほぇー。どしたん? 体調不良?」

 「まあそんな感じ」

 「ふーん」ラニの興味なさげな声が鼻につく。

 「なんならうちが保健室に付き添ってやろうか。きちぃって先生に話付けてやるよ」

 「お前、さぼりたいだけだろ」

 ネズミの姑息さを感じるツインテ野郎には多少の殺意が混じるが、しかしあたしとしてもこの体育の時間というのをすっぽかす気はなかった。

 勿論休めるものなら休みたい。ずっと腰が痛いもんだから、フッカフカのベッドで寝れるのならできるだけそうしたいもんである。平日の昼間から、学校内で、かつ保健室という妙に安堵感のある一室の中で誰にもとがめられることなく惰眠をむさぼるという体験は何物にも代えがたい。

 ではあるが、今日日きょうびあたしにはこなさなきゃならない任務がある。

 入海君の見張り役、というものだ。この役目、あたしにしかこなせない重要なものである。ここでの判断を誤りでもすれば、水面下に敷き詰めた置き網のすべてに穴が空く、そんな緊張感をもってあたしはここにいる。

 特に次なる体育という身体を動かすことを目的とした行事に際しては、入海君を見張る意味合いではかなり有意なものになると存ずる。体躯同士のぶつかり合いも辞さない授業、その上では彼の性格の変化などが見やすいようにも思える。

 とかく、行く。

 こと幸い、体調不良による見学は自由である。見学せねばならない事由があたしにはある。願ってもないことだろう。

 鐘の鳴る様な頭をもたげようとしたさなか、なにかの気配を感じた直後、眼前にはラニの胸部が映った。側頭部から後頭部にかけてを、彼女のダボダボの長いジャージの袖がタコが貝を捕食するときよろしく大事に包んでくる。鼻腔にキツイ柔軟剤の香りが届く。今日はやたら鼻が利くもんで、結構これは辛かった。

 「若菜。辛かったら俺を頼れよ」

 とは耳元に触れたラニの声。ぞわりと背筋に電流が走った。

 「クソうぜえ」

 この馬鹿の脇腹に軽くグーを入れてやったら「ぎゃっ」と割と古風な叫び声をあげて退散していった。おめえの行動が一番辛えと。

 ……あー。

 「……お腹いてえ」

 今日のあたしは機嫌悪いぞ。



 体育館は夏場になると嫌な湿気が舞う。この中を、ただ一人制服のままにいることのきつさというのは、実際に見学という体験をしたものにしかわからんだろう。額に生じる汗を拭きつつ、喉からこみ上げる大きな空気をあくびとして排出する。目じりには常に涙がたまる。暇というほかはない。

 手前半コートは男子がバスケットボールを行っている。人間の顔大のボールを必死な形相で追い回しているわけだが、所詮はアマチュアのプレイだ。目を見張るものはない、言ってしまえばどんぐりの背比べ。退屈の根はこれにありといった感じか。

 内一人、男衆の中であたしはとある姿を目で追っていた。

 入海にゅうみ はるか、という名らしい。学生手帳のおかげで名が割れた。

 歳通りの中肉中背の薄幸そうな子は、一生懸命ボールに縋ろうとしているけれど触れてすらいない。まともにパスすらもらえないあたり如実に運動のできなさが表れてる。そしてその事実が周知の沙汰なもんだから誰も彼に点数のもとを与えようとしないのである。男性社会も存外酷だ。弱者放棄の甚だしい点については女社会のそれよりも険しい印象がある。

 勉強面でもあまりいい噂聞かないし、運動も音痴ときた。うんちじゃん。

 あたしは彼の姿勢をじろりと嘗め回すように確認したあと、次いで彼の首筋に視線を注いだ。掘り起こすは近い記憶。彼は確かに、首元からの出血を経験している。ともすれば、『ある』のだろう。

 吸血鬼にやられた、咬み痕が。

 ジャージとアンダーシャツの間から覗く肌色の表面に、赤く変色した点が二つ。

 ……生々しく残っていることを、あたしは認めた。



 「あー。あーあー、若菜さん。誰を見てるんですかねえ」

 いつの間にかステージにもたれかかるラニがいた。息遣いが変わってないあたり、プレイコートの中にはいるけれどバレない程度にさぼっていやがるらしい。

 「……サボり魔」

 「うちは、兎に本気を出さない質よ。うちが本気出した暁にはこの体育館沈むかんねマジで」

 「あーね。そりゃ手を抜かないといけないなあ。サボりもしゃーない」

 「てか誰見てんの若菜」

 藪から棒にラニがつつく。こいつの洞察力本気でおかしい。

 「誰も見てないよ」

 「はー、嘘。若菜ってば実は自分が結構分かりやすい性格なの気づいてない系っしょ」

 「あたしが? そんなに分かりやすいかね」

 「目でずっと追ってた」ラニは手でカメラの型を作って、遠望している。ふむ、と一息入れて

 「入海君だ」

 という。ギクッとした。

 「はい、目が泳いだ」

 「泳いでねえし」

 「おいおいまぢ惚れかよ。無意識とか激やば。ゾッコンてやつっしょ」

 ラニはウヒヒヒと気色の悪い笑い声をあげてやがる。

 「惚れる? このあたしが? まさか」

 顔はしこたまひきつっちゃいたが、鼻で笑ってやった。

 恋愛感情など沸くもんか。触れあってすらなければ言葉を交えたこともない。正直、見た目もあまりぱっとしない、そんな相手に思いを寄せられるはずがないじゃないかと。

 しかしラニの言う、ゾッコンというのはあながち間違いではないかもしれない。正しく言えば底根そここん、つまりは心の奥底からという意味がある。

 この執着は一重に底の方から心を寄せているからに違いはない。想いを募らせているのではなく、心を配っているのである。心配である。

 彼を救う手立ては再恋寺さんを通して用意できつつある。……あとは、あの子が急変をしないように見守るだけだ。

 「……放っては置けないかも」

 あたしはつぶやいた。あの子もきっと苦しんでいるに違いない。

 横でラニが目をカッ開いてこちらを見ている。



 授業終了後。あたしはこれまた破廉恥なことながら横目で入海君を観察し、どこへ行くかを目で追い、彼がひとりで飲料を買いに行く様を認めた。この後は昼休憩だ。小一時間は暇になる。

 ポケットん中に隠し持った生徒手帳を握りしめた。再恋寺さんから受け取った彼の忘れ物。同時にこいつは、あの時の、あの不審者紛いの人との接点が嘘ではないということの証拠だ。そしてあの面妖な顔を持つ美人の言っていた、吸血鬼どうのこうのというのも、これまた白昼夢のもたらす非現実の話では決してないという証明でもある。

 そうしてあの子は生き証人。吸血鬼と接したという、暗い現実を秘めている。体育の授業中にちらりと見えた二つの穿傷は、まだ新しくも思えた。あたしの予想が正しけりゃ、おそらくはこの休日の間にも会合したのではなかろうか。

 ……吸血鬼と。



 すっかり油断している彼の背後に忍び寄り、ジャージの袖をクンと引っ張った。熱気の中にいた彼の着衣は湿り気を帯びている。

 振り返った入海君は「い、いでりさん!?」と頓狂な声を上げて、小脇に抱えた炭酸飲料を取りこぼしそうになっていた。動揺が前面に出てる。運動神経悪い癖にここの動きばかりはさながら崖から落ちた猫のソレくらいに俊敏だった。

 大事に抱え込んでいるのは深緑色のパッケージをした炭酸飲料。

 「ああ、おいしいよねデュー。あたしもたまに買うわ。喉が渇いたーってときにさ。あったらしい味がでたの知ってる? 桜フレーバーってやつ」

 「い、いいいや、知らないです」

 震えすぎてメガネが鼻から零れ落ちそうになっている。

 焦りすぎだろ。あたし的には声かけない相手だから緊張させないように気使ったつもりが、マズかったかもしれん。

 だがあたしとしても時間が惜しい。気が短いがそういう日である。こうまでくればもう”まま”でいく。

 手を伸ばして彼の首筋に手をあてがった。左の首筋。そこからアンダーシャツを横に引っ張ると、日に余り当たっていない様子の薄い肌色の肉が露呈する。そして、当たり前だがそこにはあった。

 真っ赤な二つの点。あたしが極度に恐れる血液の、漏水地点。赤々しく見える肉の状態は、傷を受けてからまだ新しいように思えた。

「……あんさ、入海君」

 額に冷めた水滴が生じて頬を滑る感覚がある。先日の悪夢が脳裏によみがえった。胃の中がぐるぐるとする心地の悪さを耐えるように、彼の首筋にヒタリと掌をあてがってこう訊いた。

 「……話したいことがあるんだけど。付き合えない?」

 これ以上ないほど顔をひきつらせた彼は、ただ黙ってコクリとうなづいた。



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