2. 意外だった

 初めての履修登録も終え、今日から講義が始まった。その帰り道、私は心の中で頭を抱えていた。結局また、誰にも話しかけることが出来なかったからだ。皆は既にSNSで交流を深めていたみたいで、入っていけるような隙もない。

 家へ帰ると、お母さんが心配そうな表情で私を出迎えてくれた。


「どう?お友達出来そう……?」


「……うん。何とか大丈夫そうだよ」


 ここでネガティブなことを言っても、お母さんを更に心配させるだけだから微笑んで誤魔化すことにする。それよりも、私には気がかりなことがあった。


「今日はその……お兄ちゃんの様子、どう?」


「どうかしら……午前中は何の物音もしなかったけど」


 お母さんの言葉を聞いて私は少しだけほっとする。

 私には、三つ年の離れた兄がいる。名前は幡羅友紀哉はたらゆきや。元々は優しいお兄ちゃんだったのだけれど、怪我をして部活を辞めてからはすっかり別人になってしまった。気に入らないことがあったり、機嫌が悪かったりすると、私達家族に怒鳴ったり、手をあげたりすることがある。

 だから家にいる時は、お兄ちゃんの様子次第でどんな風に過ごすか決まる。機嫌の悪いときは隣の部屋で私が少し音をたてただけで怒鳴られたこともあるからだ。

 それでも私は自分の部屋で過ごす時間が好きで、お兄ちゃんを気にして外で時間を潰すなんて考えられず、なるべく音をたてないようにしていた。


「今日は茉莉まつりの好きなオムライスにするからね」


「うん、ありがとう」


 結局その日、お兄ちゃんが一階へ来ることはなく、家族三人穏やかな夕食を過ごした。

 次の日になっても隣の部屋からは何も物音が聞こえてこず、私は少し奇妙に思いながらも大学へ向かった。今日は一番興味のある講義の日。なんとなく浮き足立つ。

 早めに着いて座っていると、賑やかな声が近づいてくる。近くに座るんだな、なんて思っていたら急に声をかけられる。


「ここ、いい?」


「は、はい」


 声の方を見て、思わず固まってしまう。学部説明会の日、私が目を奪われたあの子だったからだ。


「私、三津谷京華みつたにきょうか。あなたは?」


 席へ座るなり、彼女は笑顔で私を見る。直視できず、視線をわずかにずらしながら答えた。


「幡羅茉莉……です」


「視力悪いの?」


 目を合わせられない私とは逆に、三津谷さんは私が焼けそうな程じっと視線を注いでくる。

 

「あ、はい……子供の頃からそうで、それからずっと眼鏡です」


「えー、絶対コンタクトにした方がいいよ。茉莉、眼鏡外したらすっごく可愛いと思う」


 いきなり名前で呼ばれて再び固まってしまう。そんな私に構わず、三津谷さんは笑顔で手を差し出した。


「同じ学部なんだし、これからよろしくね」


「は、はい……よろしくお願いします」


 恐る恐る手を伸ばすと三津谷さんの方から逃すまいというようにがっちり掴まれる。少し強引だけど、相変わらず人好きのする笑顔を浮かべたままで嫌な感じはしない。

 むしろ、自分とは遠い存在だと思っていた人からこんな風に話しかけてもらえたことに戸惑ってしまった。信じられなくて、自分の妄想か夢なのではないかとさえ思えてくる。


「……って、なんで敬語なの?同い年なんだしタメ語でいいよ」


「えっ……でも、初対面ですし」


「そんなのいいから、ほら」


 有無を言わさぬ勢いで、拒否できそうにない。それに、ここで三津谷さんの思うように出来なくて嫌われたくない。

 一度深呼吸をしてから、緊張しつつ口を開く。


「……その、話しかけてくれてありがとう、三津谷さん」


「あ、それもダメ。こっちは名前で呼んでるんだから、茉莉も私の事名前で呼んで」


「えっ、ええっと……京華、さん?」


 うろたえる私に、対する彼女は有無を言わさない笑みを浮かべたままだ。


「さんはいらない」


「……京華ちゃん」


「うん、まあ良し」


 これ以上はもう無理だと思っていたところで、丁度教授が入ってきて講義が始まった。ほっと小さく息を吐いてから、ちらっと隣に座る京華ちゃんを盗み見る。

 そんな人ではないと思っているけれど、どこかでからかわれているのではないかという気持ちもあった。こんな私に話しかけてくれるなんて、意外だったから。

 でも、講義が終わってからすぐ京華ちゃんは当然のことのように言う。


「そうだ茉莉、連絡先交換しよ」


「あっ、うん」


 私がスマホを取り出して操作にまごついていると、スムーズに京華ちゃんが全部済ませてしまう。


「あ、ありがとう。……京華ちゃん」


「何でも送ってくれていーよ。私返信早いから」


 そう言うと、京華ちゃんは「じゃあまた」と手を振って一緒に来た子達と講義室を出て行く。

 京華ちゃんが行ってしまってからも私はしばらく、自分のスマホ画面に表示された京華ちゃんの名前を見つめ続けた。そこに名前がある、たったそれだけで特別なことのように感じる。

 そもそも私にとって京華ちゃんが手を伸ばしても届かない存在だと思っていたからなのかもしれないけれど……それとは別の、何か小さなものが芽生えているような、そんな気がした。

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