(二)廃寺
寅吉の持っていた杖代わりの棒きれは、とっくに何処かへ放り出されていた。
寅吉は、両腕を使い泳ぐように藪をかき分け、ずんずんと迷いなく道なき道を進んでいく。おかげで後ろをついて行くだけの余四郎は楽ができたが、目の悪い寅吉が、今日に限ってなぜこうも健脚なのかと不思議でならない。
「だって、こんなに草がぼうぼう生えてりゃ、どのみち足元なんか見えねえだろう。向こうから来る人もいないし、踏んづけたりぶつけたりもしない。かえって歩きやすいんだ」
「じゃあ、寅吉は市中暮らしが向いてないに」
「だけど、でこぼこ道ではすっ転ぶからなあ。俺がこんなふうに歩けるのは草っぱらか海だけだ」
余四郎は、寅吉の背中を見つめていた目線を、ふいと頭上に動かした。まだ昼だというのに、相変わらず水に墨を溶いたような重苦しい雲が広がっている。そろそろ泣き出す頃合いかもしれなかった。
「寅吉は廃寺の場所ち、知ってんか?」
「おおよそはな。前に行ったことがあるんだ。多分、もう少し先のほうだったと思う」
寅吉の記憶通り、しばらく進むと二人の前に石の塀が現れた。半分崩れたそれには焼けたような煤の跡が見られる。火事で焼失したせいなのか、寺が無人となった後にならず者が焼いたのかはわからない。
どちらにせよ、前もってそこが廃寺であったと聞いていなければ、そこに昔何があったかなど皆目わからなかっただろう。
塀の先は何もなかった。黒っぽい土しかない、真っ平らな更地である。まるで石垣と林とに囲われたその内側だけ、ぽっかりと深い穴が開いているようだった。
その異様さに、余四郎は妙ではないかと顔をしかめたが、一方の寅吉は、雑草が覆い茂る真夏でさえここはこうなのだ、と事も無げに言う。信心深い何処かの誰かが草をむしりに来るのではないか、などとも噂されているらしい。
余四郎は寅吉の左腕を掴みながら、平らな土の上に足を一歩踏み入れた。
「意外と普通やち、肝試しにはならないか」
「肝試しがしたかったわけじゃねえだろう。余四郎、一体お前、どうしてこんな所に行こうなんて言ったんだ」
呆れた声でそう問うたものの、寅吉の顔は笑っていた。
大雑把に見えて妙に堅実なところがある寅吉は、普段なら用もないのに出かけようと誘ったところで付き合わない。にも関わらず、こんな所までのこのことやって来た自分にも、余四郎にも、思わず笑ってしまうほど呆れているのかもしれなかった。
余四郎は「うーん」と腰に手を当てて考え込む仕草をする。
「なんでだろうな。明王様に呼ばれたのかもしらんそ」
「明王様はまだ祠にいるだろう。山に籠るのは元日からなんだから」
寅吉はそう言い返したが、ややあってから、ひょいと余四郎の顔を覗き込んだ。
「その『かもしらんそ』って言うの、久しぶりに聞いた」
「しゃがちい。お前らが散々笑うからそ、何言ってんちぃわくあんそってかしらすち、ほんっちあ、しゃがちゃあちいに」
「何言ってるんだか全然わかんねえ」
寅吉が右手で腹を押さえながら楽しそうに笑うのを見ていたら、余四郎もつられて吹き出してしまった。思えば故郷の言葉で喋ったのは久方ぶりだ。今では母と話すときでさえほとんど使わない。
けらけらと笑いながら平らな黒ずんだ土の上を適当に歩き回っていると、奥の方になだらかな下り坂を見つけた。
獣道というほど荒れてはいない。ただ林の中で、そこだけ綺麗に木が生えてなかった。
「行ってみようよ」
どちらからともなくそう言い、余四郎は寅吉の左腕を一層強く抱えるように握った。
老人の皮膚のような色をした木枝には、葉の一枚も付いていない。ブナに似ているがどうも違うようだ。余四郎が知る限り、この辺りの雑木林は冬でも葉が落ちない樹木ばかりである。この場所の木だけ、むかし誰かが植えたのだろうか。
からからに乾いた刺々しい木々の枝に覆い隠された道は薄暗く、少し先さえ見通せない。
寅吉の歩調に合わせ、二人はゆっくりと、踏みしめるように細い坂道を進んだ。
「あ、誰かいる」
ぼそりと寅吉が呟く。え、と声を漏らす間もなかった。寅吉は余四郎の腕からするりと左手を引き抜くと、突然余四郎を置いて駆け出した。火の中の栗が弾けたような勢いで、みるみる遠ざかっていく。
余四郎は一瞬混乱した。しかし独り置いて行かれるのはひどく心細く、戸惑いながらも友の後を追いかける。小枝に身体を引っかかれるのにも構わず全力で下り坂を走っても、走っても、なかなか寅吉に追い付けない。
余四郎には人影など見えなかった。
道の先はこれほど暗いのに、寅吉には見えたというのか。余四郎よりも目が利かぬはずの寅吉に。
そんなはずはない。
「おおい、寅吉!」
叫びながらなおも走り続けると、余四郎の視界が開けた。
見えた。道の先に平地が広がっている。
余四郎はもつれそうな足に無理やり力を込めて、寅吉の名を呼びながらいっきにその場所へと躍り出る。
途端、周囲がふわりと明るくなった。息を切らしながら天を仰げば、つい先ほどまで分厚い雲に覆われていたのが噓のようによく晴れている。が、夕日が射し始めたときのような黄色っぽい空色はどこか作り物めいていて、余四郎に僅かな違和感を抱かせもした。
――寅吉は無事だろうか。
木々の中にぽっかり空いた土だけの場所。その端のほうで、寅吉はぽかんと立っていた。と言っても、決して呆けているわけではない。周囲の様子をうかがうとき、寅吉はいつもこうして棒立ちになる。薄目で口を少し開き、静かに深く息を吸い、耳と鼻と肌とが捉える感覚に専心しているのだ。
二人をぐるりと取り囲む木立は、坂道で見たあの不気味なブナもどきではないようだ。いくらか見慣れた様相の雑木林に出たことで余四郎はようやく安堵する。身体の中に溜まった不安を追いやるように、長い長いため息を一つ吐いた。
「ここも、さっきまでいた場所に似てるち、なあ寅吉」
周囲を探る時に寅吉がまとう、どこかぼんやりとしたあの雰囲気は、余四郎と目が合った時にはもはや微塵もない。一変、いたく緊張したように、あるいは何かを堪えるかのごとく唇を嚙みしめて、強張った肩を微かに震わせている。
「余四郎。おまえ、さっきのが聞こえたか?」
何のことだ、と問う前に、空気がざわりと揺れた。まるで生ぬるいさざ波に全身を撫でられたようで、余四郎の肌はいっきに総毛立つ。
「おーい。ベネジクチウスよーい、
どこからか響いてきたその太い声に、余四郎は唖然とした。
背中から額からどっと汗が吹き出し、暑いのか寒いのか一瞬わからなくなる。すぐ隣に立っている寅吉も、まるで金縛りに遭ったように微動だにせず黙っていた。
余四郎は何か言おうとした。たとえば「違う」と、寅吉に向かって言いたかった。なのに余四郎の咽喉は枯れたようにひゅうひゅう鳴るばかりで、そんな言葉など紡げたものではない。
誰だ。
なんで、俺の名前を知っている。
頭の中には言いたいことがたくさんあるはずなのに、唇が震えるのみで何一つ言葉が出てこない。代わりに、辛うじて動かせる目だけを寅吉に向ける。
そこで余四郎は見た。
まるで鏡のようだと思った。姿かたちは確かに寅吉であるのに、不思議と自分自身がもう一人そこに立っているようだと、余四郎には思えてならなかったからだ。
寅吉はこめかみに汗をつたわせ、青い顔をしている。まつ毛の上に汗の粒が
―――そうか、寅吉。気づいてたち。やっぱりおまえも同じだったに、俺と。
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