第2話 記憶力が、私の視界を崩壊させるのだろうか。

 ソロモン・ヴェニアミノヴィチ・シェレシェフスキー(Соломон Вениаминович Шерешевский)という人物を知っているだろうか。簡潔に言えば「記憶の達人」である。しかしながら、彼は人の顔を覚えられなかったらしい。一説によれば、それは完璧な記憶力のせいだと言われている。人の顔というのは、微妙に変化し続けるものだ。要は、一人が持つ複数の顔が、全て違う人の顔のように見えてしまうのだ。彼がどのような感情を抱き、人生を過ごしたかは知らない。私のように、別段何も思わないか、はたまたそうでないか。まぁ、どうでも良いが。

 高校生になってから少しばかり、本格的に授業が始まり、くだらない時間が増えてしまった。山村は真面目に授業を受けているが、まぁそれが大多数の常識なんだろう。

「…なぁ、ここの授業ってもしかしてレベル低いか?」

休み時間になると、山村が話しかけてきた。十五分もあるのだから、次の授業の準備が終わったのなら、自習すれば良いものの。

「別段偏差値の高い高校というわけではないからな。それに、医学部志望のお前が躓くとは、到底思えないが?」

学校の偏差値というのは、その人間の学力を判断するための材料には、少しばかり不十分である。結局のところ、外部模試の偏差値を当てにする方が良いだろう。

「まぁな!高二までの範囲なら、もう終わってるしな!割と余裕だぜ」

「調子に乗る暇があるなら勉強しろ。次の残酷模試、一次模試と記述模試両方合わせた判定でA判定取れるようにしろ」

五月の初めと終わりに二つの模試がある。これが、高校で初めて受ける学外の模試となるだろう。残酷模試と揶揄されることがあるが、問題を解くことに変わりはない。

「いやさぁ、俺ら別に高三向けの模試受ける必要なくね?そらぁ河合はどうせできるから良いけどよ。俺まだ数Ⅲ・C甘いんだけど」

「今のうちに慣れろ。高三の時に苦労するよりよっぽどマシだろう」

「う〜ん。自信ねぇなぁ…」

絶え間ない努力は良いことだが、間に合わなければ意味がない。こいつの家庭状況を鑑みるに、浪人する余裕は無いし、まして私立に行くなど不可能だ。故にこいつは焦らなければならないというのに。まぁ高一の初めだから、大目に見るか。それに、こいつが将来どうなろうと、私には関係ない。こいつが他よりマシな人間でなければ、関わってもいなかっただろう。

 放課後になると、我々は可及的速やかに帰る。この高校の殆どの生徒は何かしらの部活動に所属しているらしいが、義務でない以上、我々がくだらない拘束を受ける義理はない。さっさと家で勉強するに限る。

「なぁ河合。お前友人とか作る気ねぇの?」

「無いな」

「恋人とかは?」

「有り得ないな。前にも言ったが、そんな事をしている暇があるなら勉強しろ。学生の本分は学びだ。それに、顔も分からない人間を愛せと?」

私は他人の顔の判別がつかない。別にソロモンのように記憶力が異常なほどに良い訳ではない。私の視界では、顔がバラバラに映るのだ。不便そうに思えるだろうが、特に問題はない。日常生活において判断しなければならない人間などそれほど多くないし、そうせざるを得ない場合には、声を判断の材料にすれば良い。

「そうか、悪い、相貌失認だったな。河合にも青春を謳歌して欲しいのだがなぁ。あれ?その下駄箱に入ってる手紙って…」

私の下駄箱の扉を開けると、小さい封書が置かれていた。

「『河合冥仁さんへ』だってさ!おい河合!これってラブレターってやつなんじゃないか?」

…はぁ。くだらない。

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