迷子の風船

霞(@tera1012)

第1話

「ちょっと、林葉悟はやしばさとる君!」

「はひ?」


 いきなりフルネームを呼ばれ、目を開ける。

 雲一つない青空を背に、仁王立ちで俺を見下ろしているのは、たしか。


「いいんちょ……さん」


 もぞもぞと起き上がってくあ、とあくびをする俺に、彼女はびしりと指を向ける。


「もう、午後の授業始まるわよ! さっさと教室に戻りなさい! 朝も遅刻だったでしょ!」

「うーん……」


 ブレザーのポケットを探ると、彼女の顔に緊張が走る。

 まあるいたまを口にポイポイと放り込んで、もきゅもきゅと噛み始めたら、とたんに毒気を抜かれた顔になった。かわいいな。


「……ガムか。タバコかと」

「ん、眠気覚まし」


 ぷくーっと膨らませて見せると、彼女の目にまたしてもメラメラと炎が燃えあがる。なんでだ。


「高校生にもなって、風船ガムとか! せめてキシリトールガムにしなさい! 虫歯になるわよ!」


 ぷくく。とうとう、こらえきれなくなった。


「……お母さんみてえ」


 もっと怒ると思ったのに、委員長は少し複雑な顔をして黙り込む。なんかちょっと、嫌だな。


「なんか、聞いてるの」

「……林葉君、『林葉総合病院』の院長の息子さんなんでしょ」


 変に隠し立てしないところ、いいな。


「うん、そう。隠し子だったの。でも正妻さん、子供連れて出てっちゃったから。なんか突然、俺が呼ばれて。で、転校してきたの」


 ばーちゃんたちには、これ以上負担をかけられなかった。

 でも、犬みたいに捨てたり拾ったり、突然金をかけられたりする俺は、何なんだろうとは思ってる。転入した高校の授業に出る気力がないくらいには、思ってる。


「見返すんなら、すじ通しなよ。ちゃんと卒業して、真っ当なやり方で好きな道選んで生きなよ。あたしもそうする」


 彼女の黒縁メガネの奥の瞳はまっすぐに俺を見ている。とても、とてもきれいだった。もっと見ていたい、と思った。


「そしたらさ、ご褒美くれる?」

「は?」


 さっさと距離を詰めると、チュッと右頬にごあいさつ。


「はああ――!?」


 真っ赤になった耳たぶがかわいい。もっともっと近くで見たい。


「俺がいいんちょさんに勝って学年で一番になったら、ここちょうだい」


 軽く人差し指で、かすかに開いた桜色のくちびるに触れて、そのまま屋上に背を向ける。


「はあああーー!?」



 さっき、うれしかったな。迷子センターに迎えが来た時みたいだった。

 階段を降りながら、俺の唇にはこらえきれない笑いが浮かぶ。


 何かを本気で欲しいと思ったのは、多分、人生ではじめてだ。

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