中編 裏


その夜、妻と深く交わった。とてもゆっくりとした、それでいてどこまでも上り詰めるような行為だった。終わったけだるさのなかで俺は紅茶を入れて、妻の寝顔をゆっくりと楽しむのが好きだ。全身の血がゆっくりと動いていて、脳がホワイトノイズから徐々に回復し始める。いい気分だ。

も起きたので紅茶を入れる。レモンを輪切りにして入れるのが彼女の好みだ。つめたい陶器をおもわせる肌と、エベレストのようなシャープなあごのライン。その気になれば相手を委縮させることができる瞳、とてつもないエネルギーを生み出す大柄な体、そしてそこから生まれる言葉たち。


彼女を観察しながら、これまでいったい何度、そしてこれからどれくらい、こんな時間を持つことができるか考えた。「ねね、おみやげ食べちゃおう」と宝塚のクッキーをあける。白くて丸いヒップが見えて股間にまた火が付くのを感じる。その力を溜めて、彼女との会話を楽しむ。

「今日ってなんにちだっけ?」

俺は日にちを答える

「もう春だね、春の季語で虫が地面から湧いてくるってなんていったっけ?」

啓蟄

「けいちつ!なんかエッチ!!」

エッチなことを考えているからだよ

「ほかにも季語おしえて」

スマホをくりくり、蜂やカエルやおたまじゃくしが季語になるという

「へー、啓蟄や とてもエッチな おたまじゃくし」

アハハと笑う

「季語が2個入っていてお得でしょ」

そうだねと笑う

「ところでさ、ここってどこなんだろうね」

そうだねと言う



ここは間違いなく俺が2年前に買った中古住宅だ。築半世紀という割には窓も開くし、まともに立っている。水回りもしっかりとしていて、無駄に大きな庭もある。駐車スペースが狭すぎて俺がDIYでぶっ壊したブロック塀もそのままだ。

だが、あの三笠の地中での記憶が残っている。回転するいくつもの丸のこぎり。とても狭く赤い部屋。吸い込まれていく感覚。痛み。

「ううっ!!」と嫁が頭を抱えている。「あの、ゴミ野郎・・くそったれの、排泄物!非人間!人にあらず!!一族毛頭みなごろしにしてやる!!目をくりぬいて、鉄格子にいれて、硫酸のシャワーをあびせてやる!世界中の寄生虫を体に埋め込んでやる!!絶対だ!絶対にやってやる!!精神的に3回!殺してやらなければ気が済まない!」

嫁が落ち着くまで俺は紅茶を飲む

それから30分ほど、嫁は黒い言葉を吐き続けた。そして鬼の顔をこちらに向けて「怒ってないの?」という「もちろん怒っている」と答えた。

あのどぶねずみを捕まえて、指を1本ずつ万力でつぶさないと気が済まない。ロサンゼルスの変態ゲイスポットに放り込んで、屈強な黒人にレイプさせなければ眠れない、とてもあごのつよい虫をたくさん用意して、そこに3日3晩放り込まなければこの世は不公平だ。


俺の黒い言葉を30分、嫁は傾聴した。お互い落ち着いたので風呂に入り、もう一度交わった。

狭い湯船にぬるめの湯を張り、そこで抱き合って沈んだ。ここはどこなんだろう。確かにあの時死んだはずだ。でもこうやって生きている。


「わたし、気づいたことがある」


と嫁が言った。「あなたがね、急にパッとでてきたの、それまで1人でこの家にいたんだけど、急にね」

「きっとその瞬間に、俺があっちで殺されたんだ」

「そう思う、それまで私、家の中を調べたり、外に散歩に行ったんだけど、人の気配ってしないの、だからコンビニに行ったりするんだけど、そこにはちゃんと店員がいて、ちゃんといつも通り接客してくれるんだけど、なんか人って感じがしないの」

「俺はちゃんとここにいるよ、生きているかわからないけど」

「うん、それはわかる、だって私の意識の外の動きをしてるから」

「意識の外?」

「えっと、例えば『コンビニの店員ってこんな感じだよね』って意識すればその通りの行動をするって感じ」

「コンビニの店員の行動なんてだいたい決まってるよ」

「そうなんだけど、そうじゃないの、ほかにも『車がだいたいこんな感じで走っているべきだよね』って意識すればそんな車が通るし『ここにはこんな建物があったはず』と意識すればそんな建物がパッと出てくる感じ」

「意識の外・・」

「いまもこうやってあなたがいて、それはあなたって私の意識の外のちゃんとした人間がいるってわかるんだけど、このお風呂場の外は見えないし、意識してないと何もないの、宇宙空間に浮かぶお風呂場って感じ」


そんなことはない、と、俺は言えなかった。世界はつながっているはずだが、ここではどうなんだろう?ひょっとして死後の世界というやつなんだろうか?あの、巨大アンモナイト施設の力で、こんな世界に放り込まれたんだろうか。俺は風呂を出て、服をきて、外に出た。


外は西日がまだしぶとく残っていて、気温がこれから下がってくる予兆のようなものを感じる空気だった。あたりの住宅はいつも通り立っていて、人の気配はない。国道に出るとそれなりに車が走っていて、ちゃんと運転手がいる。コンビニにも数台とまっていて、地元の人のハイエースや、旅行者っぽいキャンピングカー、バイク、学校帰りの高校生の自転車がとまっている。人は確かにいる。俺は高校生に近づき「すいません」と声をかけた。「え?はい?」とこちらをみる。「今、何月でしたっけ?」と聞いたら、とてもおびえた表情で「え・・・5月ですけど」「ありがとう」といい、コンビニに入る。


その時、背後の高校生の気配が消えた。ばっ!と振り向く。だがちゃんといる、気配もある。だが不安定だ。背中を向けた瞬間に消えた感覚がある。ぞわっと背骨のあたりが寒くなった。ハイエースは?キャンピングカーは?バイクは?たしかにそこにあるが、今、ぱっと出てこなかったか?認識を外した瞬間、世界が消えていないだろうか。まるでサーチライトのように、意識が対象をうかびあがらせ、それ以外は暗闇に消えている。


コンビニの棚には俺のしらないカップ麺の新製品が並んでいたり、店員の女の子はちょっと変わったシャギーを入れていることに今気づいた。これらが俺の認識が作り出した?そんなはずないじゃないか!と思うが、ここではそんな気がしないでもない。

俺の認識が届く範囲のみに世界が存在している。意識の外は真っ暗な闇。俺が意識した瞬間にぱっと生まれ、そこに存在している気がする。


家に帰ると嫁がいる。嫁もぱっと存在している。まるでついさっきまで 無 だったように。「私は私として、ちゃんといるよ」という。「これはいったいなんなんだろう?」世界とのタイムラグがある。0.003秒ぐらい世界が遅れてやってくる感じ。うーん、わからない。なんとなくスマホを見てみる。すると着信があった、元友人からだった。


「やあ、今そっちの世界はどうなってる?俺はこっちの世界の中心、アンモナイトの消失点、そしてそちらの世界とつながっている唯一の特異点にいるよー」

全身の毛が逆立つのを感じた。「どうしたの?」と嫁が言うからメッセージを見せた、鬼の顔になった。


「これはなんだ?殺す」


と送ると、しばらく時間をおいて着信。


「それは俺にもわからないって、肉体が死んで意識が消える前に 無 に向かって圧縮されたんだよ、お前たちは、タイムスキップができるかもしれないし、そうでないかもしれない、いずれにせよ、こうして俺とメッセージのやり取りができるのはパラダイムシフトレベルの出来事だから詳しい状況を送ってクレメンスよー」

怒りが体の内部で暴れまわっている。震える指先でおれは文章を書き、送る。

「今からそっちに行ってやるよ」

「これるんならどーぞー」



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