「好き」は永遠ではない
気に入って、何度も読み返している本。最近読み返していないが、好きな本。好き、にもいろいろあるが、「最近読み返していないが、好きな本」というのは、なかなか厄介である。
手放せない本の多くはもちろん「好きな本」「気に入っている本」だ。そういう本の多くは、「このシーンが好き」「この関係性が好き」「あそこの言葉が好き」、その他諸々、具体的な好きがある本だったりする。
その具体性が、手放すことを躊躇させる。だって好きなのだ。覚えているくらい、好きな部分があるのだ。時間さえあれば読み返したい。その好きはもう、ときめきと呼んでよいはずだ。
けれども、「好き」は永遠ではない。本は変わることはないが、私は変わる。歳を重ねれば感じ方も変わる。
読み返したくなるが、やっぱりいいかとやめる本がある。今はこの本の気分じゃないというのとも違う。でも、今はいいかな、と思う。
パラパラと捲ってみる。気分は乗らない。またしまいこむ。そんな本がないだろうか。
そういう本をきちんと読み始めると、「おもしろくないこともないがあの頃の気持ちはどこに行ってしまったのだろう」となることがある。あの頃ほどの「好き」が感じられないのだ。
理由の一つは歳を重ねたからだと思う。感受性が鈍くなったなどということではなく、好きなものや刺さるものが変わったこと。それはおそらく自然なことで、経験を重ねれば、同じものに対する感じ方がかわることだってある。
理由としてもう一つ、「好き」を上回る、よくない意味で気になる箇所がある、ということもあると思う。当時は上回っていた「好き」よりも、その箇所に対するマイナスの感情が大きくなれば、その本全体の「好き」の大きさが揺らぐ。
それでも、感情や思い出というのは厄介なものだ。その本に熱中した自分ごと本に想いが乗るせいか、非常に手放し難い。手放すことは好きだと思っていた自分ごと否定するみたいに思えてしまう。
ただ、かつて好きだった本は、もはや今好きな本とは違う。手放すことは自分を否定することでも、その本を否定することでもない。ただ、今の自分に合わないというそれだけのことだ。
そのことに気づくと、手放しやすい。この本はすごく好きでおもしろいのだ、と思いつつももう、どうにも読み返す気にならない本、パラパラ捲るももういいかなと思う本、読んではみたがあの頃のときめきのない本、それは今の自分には合わないと納得できる。
本当はたぶん、全部の本を読み返してみればよいのだ。時間さえあれば。そうすれば納得ができる。読まずにもういいか、の境地にまでいければそれが一番なのだけど。
結局そんなペースなので、まだまだ先は長そうだ。
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