ナイト・イン・ザ・ルーム

伊島糸雨

ナイト・イン・ザ・ルーム


 仲良しサークルと言えばそれまでだし、お遊びと言われれば黙る他ない。私が弱かった。それだけのことだ。

 捨てられた、なんてのはお門違いで、被害者面した浅ましさの発露でしかない。だから私は黙っていた。五人が四人に変わり、気がつくと二人になっていた部屋で「私も行かないと」なんて宣われたのに、私は祝福も罵倒もできずに、黙っていることしかできなかった。「ごめん」馬鹿だな、後ろめたそうにして。大丈夫、興瀬おこぜは悪くない。というか誰も悪いことなんてあるはずがない。それぞれ自分で選んだことで、辞めた人も努力と実力で成果をもぎ取った人も、それは私と関係のないことだった。大丈夫、私は現実を知っている。

 特に用もないのに集まっていた部屋も、すっかり閑散として寒々しい。アイコンと、身体と、モニターの明かり。夜だけがよすがで数少ない寄る辺だった。でも、それは私だけだったのかもしれないと、今は思う。

 モニター越しに知り合い、目的の一致から始めた部屋だった。共同で何かをするでもなく、個々の作業の合間に話をしたり、きつい時には励まし合ったりするためだけの、なんてことない集まりだった。五年前、誰もが指標を持っていて、目的のために努力していた。争いはほとんど起こらなかった。時々くだらないことで鹿取かとり昭島あきしまが小学生レベルの口論を繰り広げるくらいで、私と興瀬おこぜ葦川あしかわはそれを笑って眺めていた。

 あの居心地の良さは、互いが互いにどことなく尊敬の念を抱いていたからだと興瀬おこぜは言った。言語化以前のぼんやりとした感覚でも、自分にできないことをやってのけ、自分に作れないものを作ってみせるそれぞれに、嫉妬混じりでも敬意があった。自分にこれは生み出せない。距離感を測るのに、これ以上適した感覚はない。

 部屋の中で一番ストイックなのは葦川だった。自分を追い込み身を削ることに彼女はわずかな躊躇も見せなかった。部屋の中で彼女が一番の実力者であることは、誰もが認める事実だった。

 だからかはわからない。最初に葦川がいなくなった。はじめはしばらくの音信不通で、まぁきっと忙しいんだろうと考えていたのに、ひと月経ってもふた月経っても、半年が経っても彼女は戻らなかった。私たちが感知できる前触れは何もなかった。葦川と思しき人物が新人賞をとった時、誰も驚くことはしなかった。「先、こされちゃったね」興瀬おこぜの曖昧な笑みだけが、記憶の梁に引っかかっている。

「ごめん、私やめる」昭島あきしまはそう言って、ふらりとあっさりと部屋を去っていった。元々飽きっぽい性格ではあった。五年続いたのは良い方なのだろうと、私は必死に言い聞かせた。鹿取は最後まで「ふざけんな」と苛立ちを隠さなかった。独自の信念をもってそのために創作をしていた鹿取かとりと、できるだけ多くの媒体に触れて情報の更新を続けていた昭島あきしまは、良い意味で互いを刺激しながら前へ前へと進んでいた。「意味がわからない。それじゃ筋が通らないでしょ」「通る。頭固すぎ」「そっちは良識がないって言うんだよ」「はー、キレた」あとはもうバカだのアホだのタコだのナスだのと、三十分くらいやり合っていつも引き分ける。結局どっちも譲らないので、疲れ果てるだけの徒労に終わる。なのに、そうとわかっていながら反復するのは、折り合いがつかないなりに波長は合っていたのだろう。

 鹿取は昭島あきしまがいなくなった後も、何かに追われるように創作を続けていた。その様子はあまりにも必死過ぎ、私と興瀬おこぜは度々心配になって声をかけたが、彼女が構うことはなかった。鹿取はそのまま体調を崩して、部屋に来ることもなくなっていった。最後、彼女は無言のまま部屋を出た。沈黙は何よりも雄弁に、彼女の意思を伝えていた。

 予感はあった。確信と言ってもいい。なのに私は、最後の最後まで抜けることができなかった。依存して、縋って、未来方向へと止まることのない時間にずるずると引き摺られていく様は自分で見ても少し笑える。彼女たちが、私にも見える場所で、あるいは私の知らないどこかで新しいものを築いていくのに、私だけが何も得られずにここにいる。純然たる怠慢だったとわかっている。手を伸ばせば届いたはずのことでさえ、私は見逃してきたのだから。

「二人だけになっちゃったね」

 興瀬おこぜはそう言って寂しげに笑った。指先では細長い煙草がじりじりと燃え、薄い煙が宙に舞った。私が黙っていると、彼女はうねる灰を缶に落とした。

「最初から、こうだった気がする」


 夜の部屋は私が持てるただひとつの聖域だった。進展と拡大を頑なに拒み居心地の良さに依存して生きるための努力を怠ってきた私にとって、そこだけが最後に残された幻想だった。太陽は私に眩し過ぎ、昼の陽気は熱を持ち過ぎていた。夜だけが生活だった。暗く、冷たく、入水の果てに至る海の底もきっとこんな風だろうと戯れに空想したものだった。どこまでも沈んでいける。終わりのない浮遊感は私を包んで安心させる。永遠の揺籃で、私はいつまでも彼女たちの声を聞いていられる。そう信じたくて、思い込むようにと自らに強いていたのだ。

 個人の嗜好を勘案するなら、私はとりわけ興瀬おこぜの言葉を好んでいた。詩でも歌詞でも小説でも、マルチになんでもこなす彼女の一文一文は、普段のおおらかな姿を越えて、共感を許さない凄みがあった。静かに穏やかに、ともすれば冷徹にもとれる一音一音が、精緻な必然性によって選び抜かれたものであると私は理解していた。彼女が過去にどれだけの支持を得てきたのか、私は知らない。それでも、あの五年間を振り返れば、私こそが彼女の一番のファンであったと主張するのは難しくない。

 葦川、昭島、鹿取、それから興瀬おこぜ。彼女たちの書くものが大好きで、応援していて、尊敬しているからこそ、同じだけ嫉妬もして、悔しくもなった。同じ場所にいると思っていたのに、彼らは私を置いてどんどん先へ、あるいは別の場所と進んでしまう。行かないで、なんて叫べるわけもない。私はただ彼らの後ろで、「いってらっしゃい」と手を振る他にないのだとわかっていた。

 私に残されたのは興瀬おこぜただひとりだった。手放したくなかった。この部屋から消えないままいて欲しかった。いつまで? わからない。私が死ぬまで。私より先に消えないでと言いたかった。喉笛に噛み付いてでも、手放さずにいる方法ばかりを考えるようになった。その細く白い首筋に指を這わせてでも、縊り殺してでも傍にいて欲しかった。愚かなエゴで、醜い自己愛で──浅ましい、寂しさで。

 興瀬おこぜ興瀬おこぜ。あなたの言葉が歌を彫刻するように、どうか私にのみを突き立てて。お願いだから、私に教えて欲しい。

 粘つくこの昏い澱を、あなたはなんと呼ぶのだろう?

「ううん、別に悲しくはないかな。やることはきっと変わらないし、みんな自分で選んだことだろうから」

 五年間変わらなかった夜の時間。あなたは悲しいの、と彼女が言う。私は「ううん」と彼女に倣って首を振る。「興瀬おこぜ、いるから」私は縋るような目をしていただろうか。慣れ親しんだはずのあの微笑みは、どこか憐憫を孕むようだった。「うん、そうだね」彼女はきっと、期待なんてしてはいなかったから。

 そして彼女はこの夜の部屋からも去っていく。私はひとり佇んで、泣き叫ぶことも怒ることもできずに、膝を抱えて蹲る。どうすればよかったのかと毎日毎日毎日毎日考えてはどうしようもなかったと頭を打ち付ける。砂はこぼれ、秩序をもって落ちていく。落ちていくだけだ。彼らは二度と戻らない。

 細長い煙草。去っていく興瀬おこぜに最後にねだったもの。彼女は困ったように眉を下げて、それでも私に残してくれた。匂いを覚えている。私は覚えている。火を付ける度に記憶は蘇る。彼女が生み出した言葉をなぞる度に、心臓は過去に引きちぎられる。

 彼女たちは昼の世界で新しい部屋をつくるだろう。葦川の新作は書店に並び、鹿取も昭島もここではないどこかで生きるのだと確信している。興瀬おこぜも。彼女作った歌も詩も、暗がりのモニター越しには冷たく眩しく私の神経を焼き尽くす。なのに何度も何度も何度も何度も聞いて見つめて反芻と嘔吐をやめられないのは、今でも彼女のことを敬愛してやまないからだ。興瀬おこぜ興瀬おこぜ。こんなことになるならもっと早くに言って、縛り付けて呪っておくべきだった。あなたの作るすべてが好きだと。だから、造物主たるあなたのことも愛している、と。

 興瀬おこぜ。あなたがどこに行っても私はあなたの喉笛を狙い続ける。あなたが何を拒んでも、私はその首の感触を思い描き続けている。あなたが私を忘れても私はあなたの言葉をすべてすべて覚えている。

 執着は側溝にへばり付く汚泥のように腐臭を放って鼻先で匂っている。でも、それもいつしか私の一部になり変わる。私が蕩けて雨水に混じるように、あの部屋も私の捩じくれた思いも全部、夜になってあなたに届く。

「ごめん」と声が聞こえる。馬鹿だな、後ろめたそうにして。大丈夫、興瀬おこぜは悪くない。というか誰も悪いことなんてあるはずがない。悪かったことがあるとするなら、私があなたの言葉を愛してしまったことに他ならないから。

 あの部屋で過ごした夜を私は忘れない。仲良しサークルと言えばそれまでだし、お遊びと言われれば黙る他ない。私が弱かった。それだけのことだ。

 だから、弱い私はいつまでもこの部屋で夜を待つ。昏い水底から、一条の光芒が煌くのを見つめている。あなたが私を忘れても、私がとるに足らない泡沫に過ぎなくとも、あなたの言葉はいつまでも私に届き続ける。

 興瀬おこぜ。揺蕩うこの眩い光を、あなたはなんと呼ぶのだろう?

「最初から、こうだった気がする」

 私はうねる灰を缶に落とす。あなたたちが捨てたこの場所で、私はいつまでも愛を囁いている。

 この暗がりで。

 あなたたちの言葉があった、この部屋の夜で、まだ。

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