風呂入るフロイライン

よなが

本編

 プリンセスバスタイムアルティメットデトックス、通称PBAD――――私が数秒で考案したこの名称を瑠々るるさんはまったくお気に召さなかったようで「それはないかな」と一蹴したのであった。

 十二月に入ってすぐのことである。二十四節季で言えば、大雪を迎えた頃で、しかし私たちの暮らす町には粉雪さえ降っていない。

 

 瑠々さんと私が初めて出会ったのは大学一年生の春で、それから夏に恋人となり、最初の秋を経て、この冬に至る。友達以上恋人未満であった三か月に、さしてドラマチックな展開であったり、メランコリックな葛藤だったりもなく、私が陰からことをやめてに切り替えて、彼女をその気にさせたのだ。

 通りを歩けば、百人中少なく見積もって八十八人は振り返るほどに美人の瑠々さんをお茶に誘うのには最初、かなりの勇気が必要だった。勢い余って、お茶を摘みに行きませんかと声をかけたのが功を奏して、まずは友人関係を結ぶことができた経緯がある。

 

 瑠々さんは生粋の英国紳士である父と、学生時代より大阪おかんと名を馳せた母を持つ。瑠々さん自身の佇まいはまさしく大和撫子であり、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花の体現者であった。

 顔立ちにこそ西欧の気配があるが、その瞳も髪の色も黒い。その体型はすらりとした背丈にしては起伏に乏しい、いや、慎ましく奥ゆかしさが感じ取れる風体をしている。一輪挿しの菊や業物とされる刀に喩えてもかまわないだろう。以前、そうしてみたら「はぁ」と小首をかしげられたのだが、それもまた大変可愛らしかった。

 

 瑠々さんを形容する語として「大和撫子」と同等に用いられるものがあってそれは「お嬢様」であった。何を隠そう、確かに瑠々さんは社長令嬢なのである。かの英国紳士がどのような商いをしているかは詳しく聞いていない。瑠々さん当人もさほど関心がないと見える。瑠々さんには四つ離れた兄がいて、その長男たる彼が父親の期待を背負って、奮闘しているとは聞いた。

 瑠々さんが進学を機に一人暮らしをしている賃貸レディースマンションのお家賃は、私の住む学生向けアパートの二倍の額である。高ければいいということはないが、たとえば彼女の部屋にあるワードローブは私が七、八人は詰め込めそうな大きさがあり、そこに整然と並ぶお召し物の中には私の家賃三か月分の値打ちがつくものもある。

 現実としては、瑠々さんが着たものであるから私にとってはプライスレスなのだが、そんなふうに褒めそやしていたら、うっかり一着をタダでもらいそうになった。残念ながらサイズが合わないことを理由に辞退した際には「優香莉ゆかりは身長分の栄養が胸にいっているもんね。ずるい」と彼女はむくれてしまったが、やはりこれも可愛かった。腹囲がだらしくなりつつあるのはひた隠しにせねばなるまい。

 

 総じてハイスペック彼女と呼ぶに相応しい瑠々さんである。その冬の日、私が冷え性と寝不足の話をしたとき、そんな彼女が提案したのはバスソルトだった。「しかたないっ、私が今夜から枕になるよ!」なんて展開をほんのちょっとだけ期待した私であったが、バスソルトと聞いて全裸の瑠々さんを想像したのは罪ではないはずだ。

 私たちは恋人になってからキスまではしていたが、間もなく半年を迎える今になってなお、その先というのをしていない。相手が同性であろうが、婚前交渉を彼女が好んでいないから、というのは私の勝手な憶測と言い訳であった。

 怖くないと言えば嘘になる。肌を重ねないうちに、瑠々さんがロースペック彼女である自分から誰か他の男か女に乗り換える可能性を。たとえ肌を重ねようともその恐れはゼロにはならないだってわかっている。

 私の中で出鱈目な計算式で弾きだされたその確率が上昇していくにつれ、私の身体は冷えていき、睡眠時間は確実に失われつつあった。

 

 話を戻すと、バスソルトである。

 金曜日の昼下がり、寒空の下を歩いて、大学の最寄り駅まで来た私たちはホームで電車を待ちながら話す。


「ユタ州だっけ」

  

 私はとぼけてみせた。


「ソルトレークシティとは関係ない」

「ああ、うん。塩ね、塩。あー……ハタハタの塩焼きが美味しい時季だもんね」

「ハタハタ?」

「瑠々さん、ご存知ない? 魚だよ。秋田の特産って言ってもいいかな。しょっつる鍋って聞いたことないかな。そのまま塩に魚に汁って書いて……」

「冬のお魚と言えば、私はブリやアンコウのイメージかな」

「ぶり大根いいよねー。どこだっけ、元々は北陸あたりの郷土料理だっけ。私、アンコウって食べたことないなぁ。あれがいいんでしょ、アンコウ鍋」

「鍋なら、お母さんの地元で食べたてっちりが美味しかったよ」

「出たぁー! フグでしょ? うわー、食べてみたい。あっ、河に豚って書いてフグなんだよね。ちなみに海に豚って書いて何て読むのか知っている?」

「なぁに、いきなり漢字クイズなんて――――って、そうじゃない!」


 瑠々さんには申し訳ないけれど、こういうときの瑠々さんもやっぱり可愛くて、大好きだ。お淑やかさをかなぐり捨てて、眉根を寄せて、ぷんすかと。

 瑠々さんをよく知らない人、その見目麗しさに惑われっぱなしの人には到底、知り得ないだろうが、彼女は存外乗せられやすい。言い換えれば、からかい甲斐のある女の子で、するりするりと話題を逸らしてやると、面白いようにつるりつるりと滑っていく。餌への食いつきが妙にいいのだ。そういうの私相手だけならいいのにな。


「もうっ! 優香莉、またやったね」

「ごめん、ごめん。じゃぁ、罰としてキスしていいよ?」


 私は努めてさらりと彼女に言う。小さな駅だ。向かい側のホームにはたくさんの人がいるのに、こっち側にはほとんどいない。誰も私たちの会話を聞いていないし、きっと恋人同士だとは思っていない。


「こ、こんなところでしないから。それに罰にならない……よね?」

「そうだね」


 私のあっさりとした返答に、唇を尖らせる瑠々さんだった。

 もしも平然とキスの一つでも公衆の面前でするようになって、つまりは恥じらいがなくなったら、それはそれで寂しいかも。でもそんなふうに、あけすけに、堂々としていられる関係になれたのなら……って思うのは私だけなんだろうか。

 大学の共通の友人のうちでも、私と瑠々さんの恋仲を知っているのは二人だけだ。いちおう悪い虫がつかないように、瑠々さんには「恋人がいる」と周囲にはっきり伝えてもらっている。そのお相手の噂というのは、吹く風でかなり様相を異にするもので、年上の企業家だったり、売れないミュージシャンだったり、死別した恩師だったりする。なんだかな。


「それで、バスソルトって? 聞いたことはあるけれど、どんなやつなの」

「興味ある?」

「瑠々さんが興味あるなら。瑠々さんが使っているなら知りたい」

「ふふっ、嬉しいこと言ってくれるね」


 口説き文句なんかじゃない。

 半年近く付き合っているのに、知らないことがたくさんあるってのが嫌なのだ。毎日が新発見などと、明るく前向きに考えることができた夏と秋は終わった。冬の陣は、もっと近づきたい、彼女の心とその体に触れたいと真剣に思っている。


 そうして電車が来るまで、スマホで検索した結果の画面なども参考にして、私は瑠々さんからバスソルトについて講義を受ける。デトックス、リラックス、ポッカポカ。そんな話のなかで私が思いついた名前が即時、却下されたわけである。

 嬉々とした瑠々さんが私にだけしてくれる講義。それは代返が当たり前の講義や、滑舌が非常に悪い教授の講義、瑠々さんを見かけると毎回話しかけてくる金髪男子がいる講義の数千倍は心地よい時間だった。

 そんなこんなでこの三千世界における私と瑠々さんとの奇跡の出逢いをしみじみ噛みしめていると、電車が来た。


「百聞は一見に如かず、だよね」


 瑠々さんはそう呟くと、私より先に車内へとサッと乗り込む。電車に乗るのに手を繋いでってことはないけれど、そんなふうに置いてきぼりをくらうのは珍しい。

 車内は空いていて、私たちは隣り合わせで腰掛けることができた。気がつけば、瑠々さんは神妙な面持ちをしている。綺麗だ、と素直に感じて、危うく口に出しそうになる私。しばし横顔に見蕩れていたけれど、瑠々さんが切り出してくれないので私から訊ねる。


「何か私に見せたいものがあるの?」

「う、うん。あのね、優香莉もバスソルト使ってみないかなって」

「お勧めのを分けてくれるってこと? でも、たぶん高価なやつでしょ。瑠々さん御用達なんだから。今の話を聞いて私のほうで手頃なのを買って試してみるよ」

「そうじゃなくて」


 ついさっき私を糾弾したときとは、全然違う雰囲気だった。


「どうしたの」


 私は声を潜め、彼女の耳元で囁く。その肩までかかって耳を隠す髪に手を触れて、その愛しい小ぶりの耳を露わにしてやりたい衝動をこらえる。甘噛みなんてしたら、どんな声を出すんだろう。


「いっしょに……ふたりで使ってみよう?」 


 妄想する私をよそに、瑠々さんがはにかんだ。

 冷たい風に当たっていたからではないんだろう、瑠々さんの頬に赤みが差したのは。暖色ベースのチークのせいでもないって、そんなのわかっている。


「いいじゃん。名案だよ、それ」


 声が震えた。なんてことないって素振りでいこうと思ったのに、あれこれまた想像しちゃって、それでついつい心が揺れて声にそれが出た。

 この選択が私たちの行く末の明暗を分けるとまでは思わないけれど、でも、うん、何か変えられたらって。

 よしっ……裸の付き合い、してみますか。




 瑠々さんの部屋のお風呂には二度、入った経験がある。

 一度目はまだ私たちが恋人同士ではなかった頃だ。お互いが受講していたドイツ語の講義で行われる小テストに向けて、泊まりで勉強したのだった。正直な話、泊まり込みで勉強しなければならないほどに私たちはそれぞれ日々の学習を疎かにはしていなかった。実際に、勉強したのは最初の少しだけで後はおしゃべりに夢中だった。

 元々は他にもう一人の子を合わせた三人での勉強会の予定だったと覚えている。その子は瑠々さんのファンというのを公言していて、自室に行くことを瑠々さんが許してくれて喜んでいた。でも結局、アルバイトの急なシフト変更だか何だかで来ることができなくなって、私と瑠々さん二人だけになったのだ。ちなみにその子はその後すぐに、バイト先で彼氏ができたけれど、それでも瑠々さんのファンであるのは今も言っている。私が瑠々さんに抱く想いとは違うんだよね。

 

 そうだ、初めから違ったんだ。

 私は春に出逢ったその時から、瑠々さんに恋していた。それをたとえば、彼女の容姿だったり、その人柄だったり一つ一つを確かめていって、証左みたいにする必要はないって思う。だって、その出逢いはなんていうか、雷に打たれた感覚だったから。その雷鳴はゴロゴロでもはたはたとでも鳴り響かずに、静かに私の芯を打ち、これでもないってぐらい痺れさせた。甘く、切なく。雷が落ち、恋に落ちたのだ。


 二度目の入浴は、恋人同士になってすぐのことで、初デートの帰り道、彼女の家まで私が送り届けていた際に、夕立に打たれたのが理由だった。

 恋人の家でお風呂。心臓がバクバクしてしまったのを、ドキドキし過ぎて舌が回らなかったのを鮮明に覚えている。キスだってまだしていなかった。それはまぁ、一度目のデートであわよくば、みたいな思いはあったけれど。

 幸いと言うべきか、下着までは濡れなくて、サイズが緩めの服をしばし借りて、その間に濡れた衣服を乾かしてもらった。瑠々さんの言葉数があまりに少ないものだから、私は変におふざけを言っていたっけ。

 瑠々さんの部屋は三階にあって、帰る頃には雨なんて降らしていませんよって顔した夕空が窓から覗いていた。瑠々さんは玄関口まで見送りに来てくれて、それで「初デートの思い出、もう一つほしいかも」って上目づかいで言うものだから、ええいままよって、キスしたんだよね。

 私たちの初めてのキス。しばらく顔が火照ってしょうがなかったのは、お風呂上りだったからだけじゃない。


 そして私は今、瑠々さんの部屋のお風呂で三度目の入浴を迎えようとしている。

 バスソルトの話をした二日後。日曜日の午後五時。二人でのアフタヌーンティーを終えた後だ。もう外は暗いが、星が冴える時刻にはまだ早い。

 

 十分なお湯が浴槽を満たすまで、私たちは部屋で肩を合わせて床に座って、どうしようもなく平和な、愛玩動物が和気藹々としている動画を二人で眺めた。

 床と言っても、直にではなくてふかふかのカーペットだ。その手触りだって、服越しでも伝わってくる瑠々さんの柔らかさや体温の愛しさには敵わない。

 スタンドを買って、机において、そこに立てかければそれで済むのに、二人で瑠々さんのスマホを手で持っている。その重さを分かち合っている。軽いけれど、どちらかが不意に離してしまえば、バランスを失って落ちちゃいそう。


「ねぇ、瑠々」

 

 ぽつり、と。私は続ける言葉を考えずに、呟いた。

 ルールがあった。なんとなく。本当に二人きりのときだけ、呼び捨てにするっていう。そんな、さっさと捨ててしまえばいいルールを私が身勝手に決めていて、それを瑠々さんも許していた。


「な、なにかな」

「……緊張しているの?」


 動画では子猫が無邪気に別の子猫と戯れている。ああ、こんなふうに私も瑠々さんとじゃれ合えたらなって思う。


「優香莉は?」

「しているよ。ふふっ、変だよね。お風呂入ってさ、汗やその他諸々、老廃物っての? そういうの流して、身体を温めて、さっぱりして、それで……」


 それで終わりなはずなのに。


 ――――それでいいのかな。


 恋人だから。そんな義務感で、私は瑠々さんと一線を超えたいわけじゃない。

 でも、瑠々さんが私を今日誘ってくれたんだ。期待、していいのかな。


「あのね、瑠々。私……好き」

「えっ」


 突拍子もなく私が放った愛の告白に彼女は動揺する。

 私は続ける。止まれない。


「好きなの。今、この瞬間も愛している、あなたのこと」

「ちょっ、え、待ってよ、も、もうっ、またそうやって……」

「けどね、そのことと自分に自信があるのとはまた別」

「え?」

「瑠々からも聞かせてほしい。臆病な私に、もっともっと好きって言って。あなたの好きを信じさせて。……ダメ?」


 子猫のじゃれ合いが終わる。次の動画は再生しない。

 お風呂が沸いたのを明るいメロディが告げる。

 私たちは見つめ合っていた。

 

「私だって怖いよ。ちゃんと私の好きが伝わっているのか」


 瑠々さんがスマホを床に置いて、そう言った。真っ暗な画面。


「……そうなの?」

「うん。女の子を好きになるのは、ううん、こんなに誰かを好きになるのが初めてで。それでちゃんと恋人できているかなって。飽きられたりしないかなって」

「飽きるも何も、私はまだまだ瑠々のこと知らないのに。もっと知りたいのに」


 泣きそうだった。私も彼女も。情緒不安定だなぁって笑っちゃいそう。

 それで察した。彼女も不安を抱えていたんだって。似た者同士なんだ。もしかしたら、似てきた?


「あのね、知れば知るほど好きになれるって限らないよ。ほら、私は世間知らずの箱入り娘だし」

「箱から引きずり出しちゃうから」

「ほんと?」

「うん」


 私はもう我慢できなくなって、瑠々さんにキスをした。

 彼女がそれを受け入れてくれる。


「好きだよ、私も好き。優香莉のこと、大好き。私に……優香莉の全部、教えて」


 彼女の素顔に触れる。他の誰にも触れさせたくない。


「入ろっか、お風呂」


 私は瑠々さんの頬に光る、涙を指で拭うとそう言った。もう声は震えていない。


「瑠々、私の好きをあなたに教えてあげる。何度でも。だから、瑠々も教えてね」


 私は自分の目元をこすって、瑠々さんに微笑んだ。すると、彼女は微笑み返してくれるから、嬉しくなって、熱くなって、もう溢れる愛で満たされちゃって、でもその先に進みたくなって、だから私は彼女の手をとった。

 彼女から指を絡めてくる。お姫様をエスコートするのがお姫様でもいいって思う。

 私にとって彼女がそうであるし、彼女にとってもそうなのだから。


 バスソルトが甘くなるぐらい、私たちは溶け合い、愛を確かめ合うのだ。

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