とある夜勤の出来事

砂上楼閣

第1話

これは、夜勤で職場に泊まった時の話です。


その日は久しぶりの夜勤だったので、作業内容の書かれたメモを見ながら作業をしていました。


夜勤といってもそんなに作業量はなく、建物の点検と見廻りがメインです。


いくつもある建物を決まった順序に回って、きちんと消灯されているか、入り口などは施錠されているか。


一つ一つチェックしていきます。


夜勤は嫌だという人がいますが、私個人としては夜勤は嫌いではありません。


むしろ他に人がいないので楽ですし、夜勤が増えてほしいと思うくらいです。


報告書は何もなければほとんど書くこともありませんし、これまでも問題が起こる事はほとんどありませんでしたしね。


仕事を終えて帰っていく同僚たちを見送り、最後に職場の鍵の束を受け取ります。


誰もいなくなった職場は驚くほど静かで、なんとなく辺りを見渡してしまいがち。


蛍光灯や電化製品の低い音なんかが妙に響いて…


ガタガタ…


「っ?」


突然の風で鳴った音なんかにもとっさに反応してしまいます。


これは恥ずかしい。


自分の足音なんかも、反響すると後ろから誰かがついてきているように感じてしまう、なんて事ありますよね。


たまに足音が気になって後ろを振り返ります。


あまり音が響かないよう抜き足差し足……なんて。


建物の中をライト片手に進んでいきます。


常夜灯と非常口の微かな光と備え付けのライトで足元を照らしながら、敷地と建物を決まった経路で見回るのが夜勤の仕事。


途中ちょっとした段差につまずいてしまい声を上げそうになって焦りましたが、無事最後まで見回りを終えました。


そこそこ広い職場の敷地をゆったりと回り、事務室に戻ります。


他には誰もいないからと開放的になっているのか、流行りの曲なんて口ずさみながら。


見回りは深夜と早朝に一度ずつなので、あとは細々とした記録を付けるだけ。


それまでは休憩室で仮眠を取るなり、備え付けのテレビを見るなり、携帯を弄るなりある程度は自由ですね。


夜はまだまだ長いですから。


昼間は職場の同僚たちがたくさんいて、夜勤では一人。


まるで同じ風景の別の場所に迷い込んだような不思議な感覚がしますね。


あ……


不意に辺りを見渡します。


視線を感じた、と言うのでしょうか。


何かしらの違和感を感じて、じっと息を潜めました。


部屋の入り口、窓、机の下…


脱力して、笑います。


違和感の正体はテレビに映る自分の顔だったようです。


ほっと一息つきます。


心拍数が上がってしまいました。


こういう不意打ちはよろしくありません。


やはり夜の職場ということで緊張していたのでしょう。


幽霊や不審な噂というのはどこの職場にもありますからね。


そういった出来事に遭遇することなどそうそう…


コン…


最初は気のせいかと思いました。


けれど…


コン、コン…


やはりノックの音がします。


職場には、他の職員は誰も残っていないはずです。


忘れ物を取りに来たのだったら、事前に電話してくるはず。


もう深夜を越えた時間帯です。


コン…コン…コン…


というか、同じ職場の人だったらわざわざノックをするでしょうか?


それも、こんな何度も何度も…


しかしノック音は止まりません。


等間隔にゆっくり、たまに少し間を空けて。


まるで返事をするのを待っているようです。


「はい、今行きます」


意を決して立ち上がり、自分を後押しするために意識して声を出して。


扉の前まで移動します。


扉にある曇りガラスの向こう側は、消灯後ということもあって真っ暗で、人影すら見ることが出来ません。


しかし、


コン…コン…


ノックの音は止まりません。


はたから見ても分かるほど、手が震えています。


ドアノブに手を掛けて、ゆっくりと回します。


「……開けますよ」


扉を開けました。


向こう側は、暗くてよく見えません。


しかし、誰も立っていないのは確かです。


扉の外に顔を出して、左右を確認して。


不意に何かが脇をすり抜けて部屋の中に入り込みました。


ブブブブ!


そして蛍光灯の周りを飛び回り、コン、コンと何度も体当たりします。


「……もう!脅かさないでよ!」


私はそっと息を吐き出します。


音の正体は親指の爪ほどの大きさのカメムシでした。


明かりのついた部屋に吸い寄せられるように来てしまったのでしょう。


しばらくするとカメムシは天井に止まり、動かなくなります。


それはそれで嫌ですが、さっきまでの恐怖心は薄れ、脱力しました。


もうやる事もありません。


仮眠室に入って、そのまま寝ます。


緊張が解けたせいか、すんなりと眠れたようです。


そして朝が来て、再び見回りにいって、時間がきて引き継ぎをして。


その後は特に何もありませんでした。


「それじゃお先に失礼します」


職場を後にしました。


…………。


彼女にとっては一人の夜勤。


仮眠はとりましたが、帰宅後もまた寝るのでしょう。


私もそろそろ帰るとします。


それでは皆さん、私もお先に失礼しますね。

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とある夜勤の出来事 砂上楼閣 @sagamirokaku

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