フワリと、紺色の闇の中を純白のカーテンが舞った。柔らかなレースのカーテンが描く軌跡は、天使の羽ばたきを思わせる。


 そんな動きを寝台の中から見つめていたリヒャルト・カサブランカは、ふと生まれた気配に寝台のかたわらを見遣った。


 そこに懐かしい色を見たリヒャルトは、フワリと瞳をなごませる。


「……やぁ、久し振り」


 かすれた声は、酷く聞き苦しい。だがきちんと彼の耳に届いているということは、ピクリと彼の眉が跳ね上がったことから分かった。


「世話をかけたね、

「現在進行形で世話がかかってるんだよ。終わったことみたいに言わないでくれる? 言葉は正しく使ってよね」


 白銀のつややかな髪はうなじでひとつに括られ、メガネが外された瞳は炯々けいけいと今宵の月と同じ色で輝いている。


 ヨレヨレの白いシャツ。黒のスラックスにヒールが高いブーツ。襟元には緩くかけられたループタイ。そのタイを留めるブローチの石と上に羽織ったローブが、部屋を満たす紺色の闇と同じ色をしている。


「当代『黒の賢者ルノワール』がそんなんじゃ困るよ、リヒト」


 あまりにも、彼は変わらなかった。


 100年以上前、まだ子供だったリヒャルトが初めて彼と出会った時とも。リヒャルトがあの屋敷を出た20数年前の時とも。


「『リヒャルト・カサブランカ』なんて御大層な名前を名乗ってるから、すぐには分からなかったよ」

「漆黒の封筒で手紙は出したはずだ」

「悪いけど、僕は相変わらず片付けが苦手でね」


 嫌味を言ったつもりではなかったのだが、フツリと彼の言葉は止まってしまった。


 リヒャルトは寝台に身を横たえたまま彼を見上げる。彼の顔には記憶にある通りに感情は浮かんでいなかった。


 だが今はその瞳に、何か感情の色がある。


「……なぜ、もっと早くに漆黒の封筒緊急信号を送ってこなかった?」


 声は淡々としていて、冷たさを感じた。


 いつだって、彼はそうだ。リヒャルトが知っている彼は、特に不機嫌なわけでも怒っているわけでもなく、普段からこんな声で喋る。


「そうしてくれれば、お前がこんな風になる前に、助けてやることもできたのに」


 だが今はそこに、あえて隠した感情が透けて見えた。


 ──変わらないと、思っていたのに。


 リヒャルトは一度、ゆっくりとまばたきをした。胸の中に広がった感情を、噛み締めるために。


 ──変わる時は、こんなに劇的に変わるものなのか。


「リヒト、お前は女の趣味が悪い。悪すぎる。歴代の『黒の賢者ルノワール』はみんな女の趣味が悪かったけど、お前がダントツで一番悪いよ」


 彼は今、怒っているのだ。


 リヒャルトをこんな目に遭わせた全てに対して。こんな状況に身を置いていながら、自分から助かろうとしなかったリヒャルトに対して。


「お前が本気になれば、こんな家、国ごと吹っ飛ばせたはずだろう? だというのに何でこんな状態になるまで耐え続けた? なぜ事を動かそうとしなかった? なぜ」


 その怒りが、一瞬言葉に詰まった瞬間、グッと深くなる。


「なぜあの子にまで、耐えることを強いた?」


 ──あぁ、


 深く深く、殺意さえ孕んで突き刺さる言葉。


 そんな言葉を彼が使っている所を、リヒャルトは長い人生で初めて聞いた。


 ──あの子をたくして、良かった。


「お前が連れて逃げてくれれば。お前があの女なんかに従わず、戦ってくれていたら。あの子がこんなつらい目に遭うことはなかったのに」


 彼は今、リヒャルトに対する仕打ちよりも、リヒャルトが娘にしてきた仕打ちを怒っているのだ。


 彼にとってリヒャルトの娘は、それだけ大切な存在となった。


 娘を大切に思ってくれる人ができたこと。大切な人に『大切』ができたこと。その両方がリヒャルトには嬉しい。


「お前にとってあの子は何だったの? お前の惚れた腫れたの副産物なの? あの子の幸せをお前はなんで作ってやれなかったの?」


 黄金の瞳が殺意を孕んですがめられる。たったそれだけで強い風が生まれた。


「お前は、娘を愛しているんじゃないの?」

「……愛しているさ」


 リヒャルトは、絶対の自信を以って答えた。


 これだけは自分の中で、何よりも確かなことだから。


「私はメリッサを、誰よりも愛している」


 カサブランカ侯爵夫人・リリアナが最初から自分を見ていないことは分かっていた。だがもうどうしようもないほど惚れ込んでしまった自分を止めることが、リヒャルトにはできなかった。


 サンジェルマン伯爵邸を飛び出したのが23年前。国外から漂流してきた魔法使いだと出自を偽り、優秀な魔法使いを欲していたリリアナに近付いた。


 変なしがらみもなく、間違いなく優秀な魔法使いだったリヒャルトは、リリアナにとって使い勝手が良く、また簡単には手放したくない駒だったのだろう。


 リリアナはリヒャルトを伴侶に定め、全ての思惑を知っていながらリヒャルトはリリアナの夫となった。


 リリアナの心は一切リヒャルトに向いていなかったし、カサブランカの実権は全てリリアナが握っていたが、リリアナの一番近くにいられればリヒャルトはそれで満足だった。


 だがその幸せはメリッサが生まれ、次いでマリアンヌが生まれたことで大きく歪んでいく。


「……レンシア通りの呪詛式術は、メリッサの生活の保障の対価として、リリアナに請求されたものだったんだ」


 自分の容姿を一切受け継がなかったメリッサを、リリアナは愛そうとはしなかった。『カサブランカの家から、私の子供として黒が出たなんてなんて不名誉な』と怒り狂ったリリアナは、産んだ当初からメリッサを殺そうとしていた。それを止めたのがリヒャルトだ。


『色に関係なく、この子はきっと優秀になる』


 事あるごとにリヒャルトはリリアナを説得したが、リリアナの心がメリッサに向くことはついぞなかった。数年後にはリリアナの容姿をそっくりそのまま引き継いだマリアンヌが生まれ、メリッサの立場はいよいよ危うくなった。


 リリアナの考えを変えることはできない。


 メリッサを連れてカサブランカを出ようかとも考えた。だがリリアナがカサブランカの思惑を知ってしまった自分をみすみす逃すとも思えなかった。


 自分だけならばいい。だが幼い娘に逃亡生活を強いるのはあまりにも可哀想だ。


 自分が耐え忍べば、そして娘も耐えることを学べば、名門カサブランカの庇護の下で不自由することなく生きていくことができるのだから。


 そう考えたリヒャルトが取った手段が、メリッサ自身を強く鍛え上げることと、メリッサへの庇護の対価に自身がリリアナに絶対服従することだった。


「ルイスの屋敷を襲撃した術式は、メリッサを魔法学院に入学させるための対価として開発を始めたもの」


 リリアナは前々から権力に執着があった。


 そんなリリアナに命じられてリヒャルトは土地を堕とす魔法……呪詛の研究をずっとしていた。リヒャルトが病に蝕まれているのも、魔力が枯渇してしまったのも、全てはこの呪詛の研究のためだった。


 そして最後は自分が完成させた呪詛を発動させるための原動力として使われ、ほとんど寝たきりの状態まで追い詰められている。


「どれだけ尽くしても、用済みとなったら捨てられるわけだから。……だからその前に、あの子を絶対安全圏に、避難させたかったんだ」


 呪詛に全てを削られた今のリヒャルトは、リリアナにとって何の利用価値もない出涸でがらしだ。取引を持ちかけられなければ、リヒャルトはメリッサを守ってやることができない。


 だから死力を尽くしてルイスにあの封筒を送った。空の封筒は、自力では脱出困難な危機を前にして助けを求めていることを表す符丁だったから。


「結構自信があったのに、ルイスはやっぱり簡単に破っちゃうんだもの」

「……リヒト」

「巻き込んで悪かったね、ルイス」


 自分勝手に、自分の心が感じるままに生きてきた。だから自分の人生に後悔はしていない。


 ただ、置いてきてしまった彼と、自分の身勝手のせいでつらい思いをさせてしまった娘に対しては、申し訳ないと思っている。


「……リヒト、お前は」


 そのうちの『彼』が、静かに唇を開いた。


「自分を助けるためじゃなくて、……彼女を助けるために、あの封筒を送ってきたんだね」


 リヒャルトは体に残った力をかき集めて彼を見上げた。


 凪いだ黄金の瞳に、もう殺意は残っていなかった。ならば何が彼の瞳を満たしているのかと問われても、リヒャルトには分からない。


「僕、ね。彼女を『ルノ』って呼んでるんだ」


 彼の足が一歩、二歩と前に進む。毛足が長い絨毯が敷かれているこの部屋では足音なんてしないはずなのに、リヒャルトにはなぜかカツ、コツ、という心地良い足音が聞こえたような気がした。


「諦めていた僕に、彼女は新しい黎明れいめいを見せてくれたよ」


 彼はリヒャルトの枕元まで歩み寄ると足を止めた。サラリと、今宵の闇と同じ色のローブが揺れる。


「3日後、王宮で『賢者の裁定』が行われる」


 その先から、彼の手が伸びた。ヒタリとリヒャルトの額に載せられた手は、大人の男の骨格を持つリヒャルトからしてみても大きくて硬い。


「リヒト、お前も『黒の賢者ルノワール』として、その場に来なさい」


 その手から黄金の燐光がこぼれる。ブワリと広がって視界を焼いた光は、あの屋敷の中を思い出させる熱にあふれていた。


「勝手に死んで逃げるとか許さないから。ルノが泣いちゃうじゃない」


 その光が全てを書き換えていく。圧倒的な力の奔流に逆らうすべをリヒャルトは知らない。


「お前はまだまだ生きて、責任を果たさなければ」


 柔らかくも厳しい声に、リヒャルトは淡く微笑んだ。


 ──相変わらず、やることが規格外すぎるんだよ、ルイス。


 そう思ったのを最後に、リヒャルトの意識は光の中に沈んだ。

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