深紅のカーペットに額がつきそうなほど深く頭を下げ続けて、一体どれほどの時間が経ったのだろうか。


 ──一体、何がどうなっているというの……っ!?


 計画は完璧だったはずだ。


 現王の権威は失墜し、リリアナが推している第二王子が盤石の地盤を手に入れる。


 リリアナが用意させた呪詛は完璧に機能していたはずだ。


 だというのになぜか『穢れの塔』は崩壊し、王宮は押し寄せる影で混乱を極めた。なぜだか知らないが王宮の建物が破壊されており、少なからず人死も出たという。


 リリアナ自身はカサブランカの屋敷にいたから状況を直に見ていないが、事が起きてから6日後に魔法学院が何とか事態を収束に導くまで、王宮ではこの世の終わりのような光景が繰り広げられていたらしい。


 自分達の計画が頓挫とんざした。ならば次に考えるべきことは『いかにしてカサブランカを敵対勢力から守り抜くか』だった。


 その根回しに取り掛かった矢先に王宮から呼び出しがかかった。本音を言うと応じているどころではなかったのだが、国王、第一王子、第二王子の連名で出された招集に否を返せるはずもない。こんな時にこそ役に立つべきであるエドワードは一週間ほど前から行方不明だ。


 ──どいつもこいつも役立たず!


 仕方なく王宮に上がったリリアナは謁見の間に通された。そこはすでに派閥を問わず国内の名のある貴族家の当主達でひしめき合っていて、今から夜会でも始まるのかと問いたくなるような雰囲気だった。


 そこに不意に侍従の『国王陛下、並びにオズワルド殿下、アイザック殿下の御入場です』という号令が掛けられ、会場にいた人間は皆一斉に膝をつき、こうべを垂れた。


 だがいつまで経っても王から『頭を上げよ』という言葉が降ってこない。確かに入室してくる足元が三人分聞こえてきたはずなのに。


 ──いい加減にしなさい! いつまでわたくしに頭を下げさせるつもりっ!?


 しびれを切らしたリリアナは周囲に気付かれないようにそっと頭を上げる。


 その瞬間、だった。


「『白の賢者ルミエール』『黒の賢者ルノワール』、両賢者様のご入来でございます。陛下、殿下方、頭をお下げになって」


 鈴を振るような声が謁見の間に響き渡る。


 先程の侍従の声ではないと視線を巡らせれば、玉座が置かれた壇上よりもさらに上、緞帳どんちょうに隠されている最上段のひとつ下に茶色のローブを纏った初老の女がいるのが見えた。


 ──なっ!? 陛下と殿下に頭を下げろですってっ!?


 そもそもこの場で王族三人よりも上の段に立つこと自体が不敬だ。たったそれだけで首を飛ばされたって文句は言えない。


 あまりのことにリリアナは思わず立ち上がりながら口を開く。


「おま……っ」


 だがリリアナが何かを叫ぶよりも、王家の三人が文句もなく最上段に向かってひざまずく方が早かった。


「……え?」


 皆が深くかしずく中、一人立ち上がり顔を上げたリリアナから間抜けな声が漏れる。


 その瞬間、最上段を覆い隠していた緞帳が払われた。リリアナほどではないがひそやかに顔を上げていた貴族達が、現れた物を見てサワリとざわめく。


 最上段に置かれていたのは、白と黒の玉座だった。中段に置かれた王の玉座よりも絢爛豪華なその椅子を見た瞬間、リリアナは子供の頃に聞かされた古いおとぎ話を思い出す。


「賢者の裁定……」


 誰もがその言葉を思ったはずだ。ざわめいていたはずの空気がシンと静まり返ったのがその証拠。


 その空気を裂くかのように、カツ、コツと軽やかなヒールの音が響いた。端に引かれて纏められていた緞帳の影から、が姿を現す。


 それは、雪のように白かった。白くつややかな髪に、光り輝くような純白の礼装。まるで光が人の姿を取ったかのような容姿をした男は、長く裾を引く装束を翻し、一人の女性をエスコートしながら最上段を悠々と進む。


 その女性の顔が見えた瞬間、リリアナは状況も忘れて悲鳴のような声を上げていた。


「メリッサ!?」


 美しく結い上げ、水晶と真珠の髪飾りで彩られた黒髪。纏うドレスは髪よりも深い漆黒。銀と水晶と真珠が散らされたドレスは、夜空をそのまま写し撮ったかのように美しい。


 だが何より、そのドレスに身を包んだ当人が、はっと目が覚めるほどに冷涼な美貌の持ち主であった。


 無意識の内にそんなことを思っていたリリアナは、我に返るとワナワナと体を震わせる。


 ──知らない。あんなメリッサは知らない……っ!!


 カサブランカの恥を示す黒。いつでも陰湿な無表情とそっけない声。あんなのを娘と思ったこともなければ、美しいとも、可愛らしいとも思ったことはなかった。


 なのに。だというのに。


「……随分とが高い人間がいるな」


 唐突に声が降ってきた。


 リリアナは無意識の内に声の先を睨み返していた。ギッとあらん限りの怒りを込めた視線を送ってから、リリアナは声の主がメリッサをエスコートしてきた男だったと気付く。


 そのことを理解した瞬間、リリアナの肩はビクリと震えていた。


 向けられた言葉は、何気なく呟かれたただの独白だったはずだ。特に何の感情も載っていない平坦な声だった。リリアナに向けられている黄金の瞳にも感情の色は見えない。


 だというのに、なぜかリリアナは全身の震えを止めることができなかった。


「ぁ……っ」


 まるで足元にぽっかりと穴が開いて、どこまでもどこまでも落ちていくかのような。


 そんな恐怖が、リリアナの全身を縛り上げる。


「仕方がありませんよ。礼儀をわきまえていない人間は、どこにでもいるものです」


 ヘナヘナとリリアナはその場に崩れ落ちる。


 だがリリアナにとって最大の衝撃は、その後に響いた穏やかな声によってもたらされた。


『白』に穏やかに声をかけたのは、二人組の後ろから姿を現した男だった。『白』と対をなす漆黒の装束に身を固めた男の容貌を見て取った瞬間、リリアナは呼吸さえ忘れて固まる。


 それでも言葉は無意識の内に唇から漏れていた。


「リヒャルト……?」


 白い男と不出来な娘の後に姿を現したのは、リリアナの書類上の夫である人物だった。


 ──あれが、リヒャルト?


 だがリリアナは、夫のあんな姿を知らない。


 リリアナに尽くして尽くして絞り尽くされた男は今、屋敷の寝台の中で死にかけているはずだ。あんなに穏やかに微笑むことも、堂々と謁見の間の最上段を進むことも、力に満ちあふれた言葉を操ることも、もはやできないはずなのに。


 どんな時でもリリアナの言葉を聞き洩らさずに従ってきた従順な夫は今、リリアナの言葉に反応を示さなかった。一瞥いちべつさえくれずに壇上を進んだリリアナの夫は、途中で『白』からメリッサのエスコートを引き受けるとメリッサを黒い玉座に座らせる。


「さて、始めようか」


『白』は白い玉座に尊大に腰を下ろし、メリッサは黒い玉座で居住まいを正した。夫はメリッサの椅子のかたわらに立つ。


 そんな信じられない光景に呆然と座り込むことしかできないリリアナの耳に、『白』の言葉が突き刺さる。


「この国をどうするか、『賢者の裁定』ってやつを」

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