海の幽霊

Tempp @ぷかぷか

第1話

 ざざんと波が打ち返す。

 真っ暗な海に真っ暗な空。分厚い雲に覆われて月も出ていない。

 本当に寒い。風は身を切るように冷たく頬を打つ。コートのポケットに突っ込んで暖めていた手のひらも、じわりじわりと熱を失い、次第に指先がかじかみ始めた。わずかに露出した首元にビュウと切り裂くような風が触れ、そこから冬が忍び込む。

 思わず背筋が揺らぐのと同時に、俺の意気も風船に穴をあけたようにシュルシュルとしぼんでいく。その風船から漏れた空気は中途半端にぬるくて暖かく、それがまたよけいに気概を挫く。既にがたがたと肩が震え始めた。

 フゥと、とうとうため息まで出た。

 『やめだやめだ』という心の声と『今帰ったらバツが悪い』という心の声が押し合いへし合いをしている。


 この神津こうづ港の海岸沿いは海水浴やハーバーポートなんかのマリンレジャーのメッカだ。そこに貸コテージもいくつかあって、そのうち1つを友人たちと借りて騒いでいた。

 きっかけは実に馬鹿馬鹿しい。

 夏の終りにこの海にUFOが落ちたらしい。じゃぁそれを見に行こう。そんな話になった。色々と間違っている。海に落ちたなら見れるはずがないじゃないか。

 酔っぱらいというものは判断力がないものだ。それで最も見に行こうと言いはった、つまり最も酔っ払っていた俺が見に行くことになった。そもそも噂を言い出したのも俺じゃなかったしUFOなんて信じていないというのに。

 冷たい冬の海は酔いをあっという間に冷ましてしまった。冷静になると、俺は何をやっているんだろう、というなんとも言えない微妙な気持ちが積み増してきた。


 それで俺は何のためにここにいるのかというと、馬鹿馬鹿しいことに朝までUFOが出ないか見張るらしい。らしいと言っても、酒の席であやふやな記憶の中で俺が言い放ったことだ。けれども未だ酒が残っているのか、妙に意固地になっている。とっととコテージに帰って温まろうという俺の中の大部分に突っかかって俺をここに引き止めるのは、線香花火の最後の固まりが細いコヨリにぷるぷるしがみついているような、この意地だけだった。

 腕時計を見る。6時。日の出は6時50分。あと50分。

 まぁその少し前には明るくなるだろうし、皆を呼びに行かないといけないから我慢すべきはせいぜい30分くらいだろう。凍死するから帰ろうぜと冷静に頭が動き始めた時、波の間から不意に声がした。


「こんばんは」


 辺りを見渡しても人影などない。それも当然だ。こんなに寒い。他に人がいるはずがない。また、ピョォと冷たい風が吹く。けれどもその声は再び、こんばんは、と聞こえた。

「誰かいるのか?」

「ええ、いますとも」

「どこに」

「あなたの目の前に」

 目の前には暗い海が広がるばかりだ。ざぶざぶと波が音をたてている。俺を揶揄うにしてはこんな悪環境でやることではない。つまりは寒さがみせる幻覚だ。馬鹿馬鹿しい。


「あなたは何故こんなところにいるのですか?」

「お前は何でそこにいる」

 何でいるかなんて馬鹿馬鹿しすぎて答えたくない。口に出すなら余計にだ。だから質問に質問で返した。それで結局、口を開けば冷たい風が俺の中に忍び込み、歯の根が鳴った。

「私ですか。私はここに住んでいますから」

「海にか?」

「ええ」


 いよいよもって支離滅裂だ。けれどもその息を吸い込むと同時に発音されるような、妙なのっぺりとした音質に気がついて、どことなく興味を引いた。

「あなたは何故そんなところにいるんです?」

「……夜明けまでここにいる約束をしたんだよ」

「へぇ。どうしてですか」

「どうしてもだ。お前こそなんで海に住んでいる」

「観測しているんですよ」

「何を」

「着陸したUFOを」

 UFO。そんな馬鹿な。

 二の句を継ぐのも馬鹿らしくて、そのまましばらく沈黙が流れた。

 海の底にあるUFO。耐水性能は大丈夫なのだろうか。俺の中にあぶくのように浮かぶそんな疑問も馬鹿馬鹿しい。


「夜明けはまだ先です。申し訳ないのですが、しばらくどちらかに移動しては頂けないでしょうか」

「移動?」

「そうです。私は一旦陸に上がりたいので」

 ざぱんと波間に何かが揺れた気がした。

 陸に上がる? これは幻聴ではないのか? 目の前の海に、本当に何かがいるのか? この冷たく暗い海に。目を凝らしても真っ暗で、よくわからない。ただの波の動きのようにも思われる。

 幻聴かどうか、確かめる方法がある。それはただ、ここに居座ればいい。


「他のところから上がればいいだろう。この海岸線は長い。どこからでも上がれるだろう」

「それはそうなのですけどね。この海に入った時に降りたところが、ちょうどあなたがいるところなのです。ですので、どいて頂かないと困ります」

「人に物を頼むなら、まずは姿を見せるべきだ」

「……おっしゃることは理解できます。けれどもよろしいのでしょうか。あまり姿を見せるべきではないと言われているのですが」

「そんなもの、見なければ始まらないだろう」

「それもそうですね。では失礼して」

 一瞬、全ての波が停止したように世界がぐわりとずれて見え、俺の正面がぬめりと盛り上がる。

 なんだ? 本当に何かいるのか。

 先ほどと違い、強い緊張に肩を震わせながら待ち構えていると、その黒い波間がちろりと揺れた。そしてノッペリとした何かがずるりと現れ思わず一歩、足を引く。そうするとその黒い何かはヌタリという音を立て、もう一歩を俺に進める。それに合わせて、俺は思わず更に一歩を下がる。


 その姿は背丈は俺と同じくらい、全身黒のボディスーツを纏ったようにも見えなくもない。けれどもよくよくみれば、その表面はゆるやかに蠕動していて大きく黒い海牛のように見えた。その尻は未だに海の中にあり、先は見えない。

 すとんとその場で腰が抜けた。

「おや。ありがとうございます。もう少しお下がりいただければ、なおありがたいのですが」

「なん、なんだお前は」

「私? 私は生き物ですよ。ああ、こまったな。夜が少し明けてきた。急がなくては。それでは失礼いたします」


 確かにその生き物の向こうの海は未だ黒に包まれていたが、その背後にある海と空とをわかつ一本の線はわずかにだけ藍色じみていた。

 その生き物はそろりとさらに伸び上がり、にょろにょろと宙空に体をさらに伸ばしてどんどん高く立ち上がっていく。その最後の尻尾が海から出るころには、海はわずかに紫の光を反射し、そして見上げると、途方もなく高く伸びたその黒く長い生き物はいつのまにか空高くにある雲に突き刺さり、するするとそのまま全てが上昇し、気がつくと消えていた。


「おい、何やってんだろ風邪引くぞ」

「初日の出もう上がっちゃうじゃん。明ける前に呼べって言っただろ」

「んぁ」

 次に俺が気がついたのはその声がかけられたからだ。

 体は夜露のせいか海の湿度のせいかはよくわからないが、ぐっしょりと冷え切っていた。

 間抜けな声とともに目をあければ、すっかり明るくなっていた。

 なんとか体を持ち上げると節々が痛く、体中が凍えてガタガタ震えている。視線のはるか先で、初日はわずかにその尻を海面につけているだけで、あたりはすっかり朝だった。

「大丈夫かよ。わりぃな。俺らも寝ちゃったんだよ」

「そいつが見に行くっていったんじゃん」

 酒のせいか、こんなところで寝こけていたせいか、ガンガンと割れるように頭が痛い。ふらふらと左右を見てもなにもない。ふぅ。なんだただの夢か。そう胸をなでおろし、痛む体でなんとか立ち上がって呆然とした。

 座っていては気づかなかったが、立ってみるとようやくわかるその凹凸。

 目の前には海から俺に向けて一本の轍ができていた。

 その僅かな凹凸に気づいたのは俺だけだったようだ。だから流木かなにかが転がっていったんじゃないかと思って、気にしないことにした。


 それからしばらくして、元旦に神津湾で龍が昇ったという噂が流れた。街アプリではまだ薄暗い中、なんだか定かではない黒い一本の線が海と空をつなぐ写真がUPされ、偽物だとか偽物にしては作りが甘すぎるとか噂が盛り上がる。

 そして俺が悪友たちに龍を見たのかと尋ねられるのは、それからしばらく後のことだった。

 龍? あれはそんなちゃちなもんじゃねえ。


Fin.

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