第625話 穢れ

 地図が正しければ、あと少しで目的地に到着する。

 踏み込んだ場所が沈む。

 地面がグズグズに腐りはじめていた。

 ブーツを引き抜きながらフィンが苦虫を嚙み潰したような顔をする。


「うげっ。足が沈むし酷い匂い。私には相性最悪だわ……」

「ここで素早く動くのは難しいだろうな」


 今の場所は結界の入り口からずいぶん先に進んだところだ。

 道中では蚊の魔物以外の生物は一切見かけなかった。

 樹木も蚊の魔物に樹液を吸われたのか、カラカラになった残骸がところどころにあるのみだ。


 死の土地、という言葉が頭に浮かぶ。

 ここには生命と呼べるものが何もない。

 もし誰の手も入らなければ、元に戻るまでにどれだけの時間を要するのだろう。


 エヴァリン……エルフが強く警戒するのも分かる。

 この魔物は通り道の全てを食い荒らして進む害そのものだ。

 悪名高い蝗害ですら、蚊の魔物に比べればまだ土地が死なないだけマシだろう。


 結界に入った時は暑かったのに、今は寒い。

 体の芯から凍えるようだ。

 なのに汗が止まらない。

 息も荒い。疲れてしまったのだろうか。


「寒くないか?」

「いえ。湿度が高くて少し蒸し暑いくらいです。……旦那様、立ち止まって下さい。顔色が悪いですよ」


 オルレアンの声で足を止めた。

 一斉に全員がこっちを見る。

 そしてエヴァリン以外がギョッとした顔をした。


「真っ青じゃないの!」

「呼吸が荒くなってますね。ちょっと失礼します」


 エルザが額に手を当てて治療をしてくれた。

 寒さが和らいで心なしか体が楽になった。

 どうやら思ったよりも消耗していたらしい。


「応急処置しただけです。いつの間にこんな……。解毒の奇跡には反応がない」

「ちょっと見せて」


 フィンが顔を近づけてくる。

 手袋を脱いで、舌や瞼の裏、口の中をじっと見つめてくる。

 何かを確認しているようだ。


「毒なのは間違いないわ。司祭の奇跡には反応しないとなると、普通の毒じゃないわね」

「血を吸われた時でしょうか?」

「それ以外考えられないわ。空気に毒が紛れてるなら、こいつだけが毒にかかるのはおかしいもの」


 フィンはそのまま蚊に吸われた場所の包帯を解く。

 消毒液で念入りに消毒したはずだが……傷痕の周辺の皮膚が紫色に染まっていた。


「これを熱して」


 短剣を取り出し、フィンはそれをアレクシアに熱してもらう。


「痛いわよ。タオルを口に咥えて」


 言われた通りにタオルを口に咥える。

 この流れは何をするか予想が付いた。

 目を瞑り、思いっきり食いしばる。


 直後、刺された箇所に焼けつくような鋭い痛みが走った。

 猛烈に痛い。

 肉をえぐるような感触の後、温かい感触が傷を包む。

 エルザが癒しの奇跡を使ってくれたのだろう。


 目を開けるとフィンが傷口に口をつけていた。

 血を吸い、ペッと吐き出す。


「舌がピリピリする。かなり質の悪い毒を食らったわね」

「フィンは血を口に入れて大丈夫なの?」

「私は毒に慣れてるから。それに直接取り込んだわけじゃないし」


 水でうがいをし、フィンが包帯を巻きなおしてくれる。

 エルザの治療もあり、今のところ見た目ほど酷くはない。

 だがすでに体内に入った毒は別だ。

 意識すると一気に体が重くなった。


「……どうするの? あと少しだからこのまま進みたいんだけど」

「生憎うちはこいつが一番重要なの。引き上げるわ。アズとアレクシアもいいわね」

「もちろん。是非もないわ。しんどいけどもう一度頑張ればいいだけだし」

「引き返しましょう。ご主人様の命が一番大事ですから」

「コテージに居た方が安全だったわ。まあいいわ。私だけで確認してくる」

「ちょっと!」


 身動きが取れなくなったのでエルザが背負ってくれた。

 全く情けないが、素直に甘える。


 エヴァリンはこっちを見限り、奥地へと向かう。

 一人だけで向かわせるのは危険だ。


「追いかけて何が出てくるかくらいは見届けよう。それにあの人がやられたら打つ手が無くなる」

「いやでも……」

「俺なら大丈夫だ。大分楽になった」


 嘘ではない。

 それに意識ははっきりしている。


 渋々といった感じの皆を説得し、エヴァリンを追いかける。

 ここまで来たのだから、解決できるならそれに越したことはない。


「……これは川、か?」

「でも流れてるのは水じゃないわね」


 黒い液体が川だった場所に流れていた。

 ブクブクと時折泡が生まれては消えている。

 腐ったような匂いの元はこの黒い液体のようだ。

 これが大地を腐らせている元凶らしい。


 奥にはエヴァリンが佇んでいた。


「酷い穢れだわ。こんなの私でも滅多に遭遇しない。たくさんの魔物の死体を積み上げて、それを長年放置したってここまで酷くはならないのに」

「この森は魔物は沢山いたみたいですけど、魔物の死体はちゃんと別の魔物が食べていたでしょうし」

「何かが起こったはずよ。それが人間の町だと思ったんだけど……」

「やるなら早くしてくれない? さっさと引き上げたいわ」

「この黒い液体を滅ぼせば大丈夫なはずよ。離れて」


 エヴァリンは木の杖を天に掲げ、呪文を詠唱し始める。


「あれだけ魔法を使ったのにまだこんな魔力が……。もっと離れて。ここじゃ巻き込まれるわ」


 アレクシアの言葉に従って大きく離れる。

 かなり離れた位置でもエヴァリンの魔法の余波が感じ取れた。


「準備しているのは火の魔法だけど……込めた魔力が相当なものだわ。それに術式も私のとは全然違う」

「エルフは魔法においては全種族最強ですから」


 エヴァリンの頭上には巨大な火の球が待機している。

 それをそのまま黒い液体へと向けて落とした。

 水分が蒸発する音と共に、黒い液体が一斉に沸騰する。

 このまま火の魔法で決着が付くと思った瞬間、残った黒い液体が火の魔法を包み込む。

 まるで液体が意志を持っているかのような動きだった。

 蒸発して縮小していく。

 だが、途中でそれは止まった。


 どうやら火の魔法を受け止めてしまったようだ。

 残った液体が形作られていく。


 そして現れたのはドリアードと呼ばれる森の精霊だった。

 ただし、形だけで中身は黒い液体のままだ。

 口元が笑みなのがどこか恐ろしい。


「……森の精霊が汚染されたのが原因だったの」

「もう一回さっきのあれやりなさいよ」

「無理よ。魔力は使い切っちゃったもの」

「はぁ!?」


 フィンの叫びと同時に、ドリアードの身体から蚊の魔物が大量に発生した。


「逃げます!」


 アズの宣言と共にその場から逃げ出した。




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