第563話 変わることは悪いことではない
水筒の水で顔と手を洗い、王都で目立たないように服を着替える。
これならただの少女にしか見えない。
王都の朝は早い。
貴族の住宅があるエリアから移動し、中央の広場に移動すると話し声や準備の物音が聞こえてきた。
日が上りはじめたばかりの薄暗い時間だというのに、もう仕事をしている人たちがいるようだ。
太陽が昇る時間に起きて、日が沈むと共に寝る。
これが普通なのだ。
丸薬の効果が切れたのか頭痛が酷くなってきた。
わずかな仮眠だけで数日過ごした副作用なので、長い時間熟睡しないと体調は回復しない。
ヨハネの家に住むようになってからは健康的な日々を過ごしていたから、余計辛く感じるのだろう。
昔のフィンが今の状態を見たらどう思うのだろうか。
弱くなった、とか?
「甘くてあったかい豆乳はいかがですか? 寒い今の時間にピッタリですよ。銅貨一枚でコップ一杯分です」
頭痛に顔をしかめながら歩いていると、路地で大きな声で客寄せしている少女がいた。
たしか串焼きや果物を売っていたはず。
今日はこんな朝早くに飲み物を売っているようだ。
もしかしたら時間帯で分けて、その時々でよく売れる物を売っているのだろうか?
だとしたらその熱意はたいしたものだと思う。
少女の元気な声もあってかそれなりに繁盛している様子だった。
甘い匂いにつられたのか腹の虫が騒ぎ出す。
大分前にパンだのチーズだのを王女の監視中に齧っただけで、かなり空腹だ。
少しお腹に何か入れるのもいいだろう。
「私にも一杯頂戴」
「ありがとうございます! コップはお貸しするのでここで飲んでいってください」
「なるほど、そういうシステムなのね」
陶器やガラスのコップが並べられており、客が中身を飲み干すと用意された水で洗い流している。
水路の横でやっているのはそういう理由か。
桶の中には小さな水の魔石が沈められており、使った分が補充されていく。
銅貨を一枚渡すとガラスのコップになみなみと豆乳が注がれて渡された。
商売の邪魔にならないように少し横にそれてゆっくりと口をつける。
「あちっ」
豆乳は温かいどころか火傷しそうなほどに熱い。
だが、今はその方がありがたかった。
頭が冴えて眠気が無くなるのを感じる。
豆乳には細かな粒が入っていて、それがどうやら甘さの元になっている。
「お客さん、美味しいですか? それ作ってるのは私なんです」
「へぇ。あんたが。まあまあいけるわよ」
どうやらフィン以外の客は仕事前の腹ごしらえで飲むようで、熱々なのにもかかわらずさっさと飲み干していった。
今は客が途絶えて暇なのか、豆乳の入った鍋を混ぜながらじっくりと飲んでいるフィンに話しかけてくる。
小さな火の魔石が寸胴鍋を温めていた。
普段ならこういうのはうっとうしいと思うところだが、今はそれよりも疑問が勝る。
「この粒はなんなの? 豆の搾りかす?」
「いえ、豆はちゃんと絞った後のは分けてます。それはそれで肥料として売れるんです! その粒はサトウキビを細かくしたものですよ」
「サトウキビ? ああ、だから豆乳なのに色が茶色いのか。それって砂糖の原料よね。あれ食べれんの?」
「食べられますよ。外側を剥いて柔らかい部分をかじるととっても甘くて美味しいんです。砂糖を使うと銅貨一枚では売れないので、こうやってます。甘くて評判なんですよ」
えへん、と胸を張る。
残念ながらフィンよりも小さな胸だったが、自信に満ち溢れていた。
「良かったら齧ってみます? 端切れですけど……。口に入れて噛んでください」
少女に渡されたのはサトウキビの小さな欠片だった。
言われた通り口に入れる。
もし毒だったとしても、フィンには効かない。
小さな破片からジュワッと甘いジュースが溢れ出す。
雑味もあるが、そんなの気にならないくらい甘い。
「とっても甘いわ」
「美味しいでしょう? なんたってルーイドのサトウキビですからね。最近まで直接買いに行かないと手に入らなかったんですけど、ルーイドの偉い人が王国の卸売りと契約したらしくて、安く手に入るようになったんです! おかげでこの豆乳も売れ行きがとってもよくて助かってます」
「そう。よかったわね」
(その偉い人ってもしかしてヨハネじゃないの?)
ルーイドの運営を王女に半ば押し付けられて、どうやってお金にするかに頭を悩ませていた気がする。
サトウキビもその中に入っていたはずだ。
彼がやっていることは、日常にこうやって影響が出るのかと思うと感心する。
「もう一杯貰える?」
「もちろんです。ありがとうございます!」
銅貨を一枚渡し、お代わりをする。
湯気が立ち上った豆乳をフーフーと冷ますと表面に膜ができる。
それだけのことだが、なんだか面白かった。
もう夜に紛れて生きる必要はない。
これからはこれが私の日常なのだと思う。
気分が良くなり、不思議と頭痛もいつの間にか消えていた。
太陽の光も眩しくなってきたし、そろそろ行こう。
空になったコップを返し、少女のお礼を聞きながら王都を後にする。
暗殺者だった頃は名前を残さないようにポータルの利用は避けていたが、今はそんなことを気にする必要はない。
思えば不便な生活だったと苦笑する。
ポータルを経由してカソッドに到着する。
ここまでくればヨハネの店までもう少しだ。
心の中が少し浮ついている気がする。
店に到着すると、営業中という看板と共にシーツで店が覆われていた。
どうやらフィンのいない間に改装を始めたらしい。
裏に回ると、ヨハネがラバを二頭連れているのを発見した。
足元には大量の道具が広げられている。
ラバはいつもの二頭ではなく、新しいラバのようだ。
少し弱っており、歩き方がおかしい。
足を見ると爪が伸びてしまっており、まともに歩くことができないようだった。
「お、フィンおかえり」
「ただいま……何してるのよ?」
「新しいラバを買ってな。ついさっき引き取ってきたところだ」
「それは見れば分かるけど」
このラバに馬車を引かせるのは無理だろう。
一番大事な足がこれでは、何もできないではないか。
フィンは不思議とこの二頭のラバに、暗殺者ではなくなった自分を重ねてしまった。
はたして暗殺者ではなくなった自分の価値はあるのだろうかと。
どうやら頭はまだ疲れているようだ。下らない感傷に浸るなんてありえない。
「このラバはどうするつもり? もしかして食べるつもりじゃないでしょうね」
狡兎死して走狗烹らる。
役に立たなくなったラバは肉にしかならない。
もし役に立たなくなったフィンはどうなるのだろうか。
だがヨハネは何がおかしいのか大きく笑った。
その姿に少しムッとする。
「まあラバも食肉にされることはあるが……このラバは世話をされてなくて安く購入したけど、それは俺ならどうにかできるからだよ。肉にするより働いてもらった方がお互いいいだろう?」
「まともに歩けなさそうだけど」
「まあ見てろよ」
ヨハネは柵にラバの足を括り付けると、鉈を使って伸びた爪の大部分を切る。
見ていて痛々しかったが、ラバは何事もなかったかのようにのほほんとしていた。
「蹄鉄を持ってきました。あれ、フィンさんお帰りなさい」
「ありがとう、アズ」
「これって……」
アズが持ってきたのは馬の蹄にとりつけている蹄鉄だ。
ヨハネはそれから熱した鉄の棒を蹄に当てる。
煙が出るほどだが、ラバが痛がる様子はない。
不思議な光景だ。アズと一緒に横で眺めることにした。
それから鎌を使って蹄を削っていく。
汚く汚れていた蹄が削ぎ落されて白くて奇麗な部分が出てきた。
ヨハネは細かく調整し、蹄鉄をあてがって釘を打ち込んで固定していった。
あっという間に歩くことすらままならなかった蹄が立派になる。
「なんで?」
頭に思い浮かんだ色々なことをまとめきれず、そんな抽象的な言葉が出てきた。
ヨハネはそれをなぜこんな作業ができるのかと思ったらしい。
「これは装蹄っていってな。実は昔うちには馬が一頭いたんだよ。骨折して死んでしまったが、世話をしながら職人に教えてもらって覚えたんだ。ほら、あの鍛冶屋のおっさんに」
「私の剣でよくお世話になってる人ですよね。ご主人様はこんなこともできるんだ。凄いです」
「そう言われると照れるな。人に頼むと結構金がかかるし、昔の経験が活きたよ」
二頭のラバはヨハネの手にかかり、全ての爪がきちんと整えられて軽快に歩けるようになった。
先ほどまでの、歩くことすら苦痛だと言わんばかりの姿からは信じられない。
「これでよし、お前らも嬉しいだろう」
「……やるじゃん」
「だろう。おかげで安くすんだ」
力強く歩くラバはこれからその力を存分に発揮するだろう。
そう思うとなんだか嬉しくなった。
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