第562話 ただ疲れた
鋼糸術。
これを扱う相手に遭遇したのはこれで三度目だろうか。
人間を相手にした不意打ちに限れば恐らく最強の武器だ。
人間の皮膚は脆い。
不意打ちならどれだけ強い相手でも、魔力で身を守る前に仕留められる。
光を使わなければろくに目に見えぬほどの細さであり、空気抵抗もなく音も常人には聞こえない程度の小ささ。
熟練者なら指を動かすだけで首を落とせる。
フィンも一度習得を試みようとしたが相性が悪く断念した。
しかしそのことを後悔はしていない。
最初に遭遇した鋼糸術の使い手はベテランの男だった。
まだ育ての親だった男が生きており、一緒に仕事をしていた頃の話だ。
危うく全身バラバラにされるところだった。
今なら一人でも倒せると思うが、当時は手も足も出なかったのを覚えている。
男はそいつを仕留めたが、私を庇って傷を負ってそれが原因で仕事を引退した。
ある意味彼に私は生かされているということだろう。
二人目はケルベス皇帝の側近であるグローリアだ。
まだケルベス皇帝の専属でなかった頃は王国でも名の通った凄腕だったが、対峙して生き残った者がいないのでどのような戦い方をするのかは長く不明だった。
救出の際に鋼糸術を使って助けてくれたのは、実はかなり異例のことだ。
あの時の技には心底驚いた。
触れただけで皮膚を斬ってしまうほど鋭く磨かれた鋼糸を使って、私たちの肌には一切傷がなかったからだ。
凄まじい技量を持つ人物。
恐らくグローリアと戦うことになったら命はないだろう。
精々爪痕を残すのが精一杯かもしれない。
一番いい方法は敵対しないことだ。
幸いヨハネとケルベス皇帝は利害的にも信条的にも敵対することはないと思われる。
いざとなったら王国を捨てて帝国に行ってもいいくらいだ。
そして今目の前にいるのが三人目。
目の見えぬ貴族の少年であるポリントだ。
不気味で倒錯しており、およそまともとは言えない。
しかし技量は三人の中で一番下なのは間違いない。
他の二人ならもっと糸の速度が速く、前髪が落ちた瞬間首も落ちていた。
もしいたぶろうなどと考えているなら、それはただの甘えだ。
丁度いい。かつて手も足も出なかった鋼糸術を乗り越えるいい機会だ。
「これを知っている人には初めて会いました。皆さん気付く暇もなく死んでしまうのでつまらなかったんですよ」
「初見殺しの代名詞だからね、それ。目に見えないくらい細い鋼糸がいきなり飛んでくるなんて普通は思わないわ」
真っ暗な部屋で会話する。
声で居場所がバレるが、そもそも相手は視覚に頼っておらずわずかな動きで察知される。
それなら会話に乗ってこっちも相手の位置を特定した方がマシだ。
ゆっくりと移動しながら飛んできた鋼糸を短剣で弾く。
ポリントはやはりまだ未熟だ。
鋼糸を動かす時に少しだけ身体が力むようで、一瞬だけ床が軋む音がする。
後はその音がどこから聞こえてくるかで左右を判別し、急所を守るだけでいい。
とはいえ鋼糸術は両手全てに装備して最大十本運用できる。
もし波状攻撃されたらそんなの関係なくフィンの身体は無残な姿になるはずだ。
だが、細くて空気抵抗がなくとも負荷が高い。
ポリントの年齢では全てを動かせば筋肉が耐えられない。
これがフィンが鋼糸術を断念した理由だ。
どれだけ魔物を倒して力を得ているのかは知らないが、最初の一撃で底は知れた。
未熟な鋼糸術使いの欠点は攻撃回数が少なく、また相手を一撃で倒せるがゆえに、どうしても狙いが急所になってしまうことだ。
未熟であるほど思考が縛られる。
これが短剣ならば、一撃必殺など狙わずに少しずつ血を流させればいい。
何度も鋼糸を弾くうちに、少しずつ相手の狙いが雑になってきた。
武器はとても雄弁だ。
相手の心情がこれでもかと伝わってくる。
きっと強敵に遭遇して苦戦などしたことがなかったのだろう。
子供特有の万能感に浸り、性根が腐っていった。
油断を誘う見た目だったこともあり、自分が一番強いと思い込んだのだ。
それが今崩れ去っている。
目も暗闇に慣れてうっすらと相手の動きが見えるようになってきた。
動きが見えるなら予備動作も分かる。
雑な狙いならあくびをしながらだって対処できる。
「戦闘の組み立ても習わなかったの、坊や? ただ糸を振り回してるだけじゃ相手は倒れないわよ」
「うるさい!」
余裕の笑みはもう消え去っていた。
そこにあるのは焦りと困惑だ。
まるで道化だな、と思った。
力任せに鋼糸が振るわれる。
なりふり構わず全ての指を動かして総動員してきた。
だがまともに扱えていないのは明らかで、フィンの方に向かってくるよりも四方八方に鋼糸が飛び部屋を破壊する。
フィンはポケットから自作した照明弾を取り出し、部屋の真ん中へと投げる。
一瞬だけ照明弾が部屋を照らし、鋼糸とポリントを浮かび上がらせた。
それで十分だ。
その場から跳躍し、一気に迫る。
制御を失いつつある鋼糸がそれを阻もうとするが、狙いの定まっていない鋼糸など怖くはない。
紙一重で回避し、一瞬で目の前まで到着した。
「良かったわね。地獄でたくさんの人があんたを待ってるわよ」
ポリントが何かを言おうとした瞬間、短剣で喉を裂いた。
鮮血が噴水のように飛び出し、部屋を汚す。
どんな人間であっても血は赤いのだなとふと思った。
ポリントはまだ息があり、口をパクパクとさせている。
喉から空気が抜けて喋れないのだ。
死ぬ前の一言すら、彼には贅沢だろう。
仕事はこれで終わりだ。王女を狙うものは一先ずいなくなった。
しかし達成感は微塵もない。ただ疲れただけだ。
「さて、どうしようかなこれ」
目的を達成したのはいいのだが、このままにしておくのは問題だ。
それに痕跡を残さないようにしないとヨハネに迷惑が掛かる。
いっそ燃やそうかなと思っていたら、かすかに煤の匂いがした。
ポリントの鋼糸が無闇に暴れたせいでどうやら明かりの油が漏れて出火したらしい。
自業自得だ。
火の手が回る前に何か情報はないかと探る。
ろくなものは見つからなかったが、一つだけロザリオを見つけた。
見たことのないデザインだが、エルザに聞けばわかるだろうか?
窓を蹴破って外に出る。
完全に館が燃えており、人が集まり始めていた。
見つからないように夜に隠れて姿を隠す。
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