第501話 吊るされた包みの中身

 本当に恐怖した時、悲鳴すら上げられないのだとどこか冷静な頭が呟く。

 目が見えていないはずの相手が一目散にこっちに来る。

 かなり早い。


 口を大きく開き、首を狙って噛みついてきた。

 なんとか後ずさって回避する。

 歯と歯がぶつかる音が聞こえ、唾が飛び散る。汚いと思う余裕すらない。


 魔物に襲われた時よりもずっと恐ろしい。

 同じ人間に食われるという生理的な恐怖と嫌悪感が湧きだしてきた。


「来るな! 来たら刺すぞ!」


 ナイフを取り出して切っ先を相手に向ける。

 だがあまり良い手段ではなかった。

 目が見えない相手に刃物で脅したところで効果はない。

 耳もないのではなおさらだ。聞こえているのかすら分からない。


 そもそも、どうやってこっちの様子が分かったのだろうか。

 潰れた鼻が動く。

 匂いを辿っているようだ。


 ゆっくりと横に歩くと顔が移動した方へと向いてくる。


「生きた人間だ。食べたい」


 しわがれた男の声だった。だがハッキリと聞こえる。

 こっちのことは食料としか考えていないのが伝わってきた。


 ナイフを構えながらゆっくりと後ずさる。

 犬ほど鼻が利くとは思えない。距離を取ればなんとか逃げられないだろうか。


 相手は再び走り、両手をこっちに伸ばす。

 燭台を持っている左手が掴まれてしまった。

 見た目はやせ細っているのに凄い力だ。もしこの力で引っ張られて転倒したら終わりだ。


 自分の命を守るために、ナイフを掴んでいる相手の腕へ突き立てた。

 上手く力が込められず少し血が出た程度だったが、相手は慌てて腕を開放する。


 そして傷ついた腕の傷に口を当て、血を吸い取りそのまま飲んだ。

 思わず吐き気がして胃液が少しだけ口の中に逆流し酸っぱい味がした。


 名残惜しそうに何度も舐め取るうちに出血が止まったようだ。

 相手の口元には血の汚れが残っており、その容姿と相まってもはや人間とは思えない。


 ここでやるしかない。

 アズに手を汚させておいて、自分の手は血に濡れたくはないなどという気はない。

 生き残るためにやらなければならないなら、その覚悟はある。


 問題は相手の方が強そうだということだろうか。

 さっきも痛みは感じたようだが、怯んだというよりも零れる血がもったいないという様子でこっちを開放したのだと思う。


 燭台をぶつければ火が燃え移って勝てるとは思うが、そうするとこの恐ろしい場所で明かりすら失うことになる。

 このナイフで、できれば無傷で勝つには……。


 ヨハネは右腕で台の上の皿を薙ぎ払い床へと落とす。

 すると落ちた皿が割れて甲高い音がした。


 相手は音に反応して床を見る。

 やっぱり聞こえていた。床を見た瞬間にナイフを振りかぶって襲い掛かる。

 これで相手のどこかを深く突き刺すか斬りつければきっと追ってこないはずだ。


 だが、戦闘経験のないヨハネは頭で思い描いていた行動をそのまま実行できなかった。

 暗いこともあり、天井から吊るされた白い包みにナイフが当たってしまい、抜けなくなる。


 しまった、と思った時には相手はこっちを向いていた。

 燭台を手放し、両手でナイフを引き抜く。

 すると刺した箇所がみるみるうちに赤く染まっていく。

 これではまるで血が出てるようではないか。


 赤く濡れた包帯から中身がずり落ちる。

 それは……赤黒い塊だった。

 地面に落ちた後、痙攣するように動く。


「肉~~!」


 相手はヨハネではなく、落ちた中身にかぶりついた。

 一心不乱に貪るその様子は、もはやヨハネのことすら頭にないようだ。


 逃げるなら今しかない。

 燭台を拾い、急いで逃げ出した。

 背後からは滴るような咀嚼音だけが聞こえてくる。


「クソ、クソ、畜生!」


 あれはなんだったのか。

 落ちてきた中身はなんだったのか。


 頭に浮かぶそういった疑問を走ることで忘れようとする。

 今はとにかくここから離れたかった。


 もう走れないと心臓が根を上げるまで無我夢中で走り、倉庫らしき場所へ逃げ込んだ。

 中には古びた木箱や資材が積まれており誰もいない。


 座り込んで息を整える。

 道具袋から水筒を取り出し、水を飲む。

 一気飲みしたかったが少し飲んだだけで口を離した。


 こんな場所で飲み水が手に入るとは思えない。

 厨房もあの有様では……水は節約して飲んだ方がいいだろう。

 幸い革袋で作った水筒はそれなりに水が入っており、それが二つある。

 日頃用心しておいてよかった。


 袖をまくり、あの恐ろしいやつに掴まれた腕を見る。

 うっ、と怯んだ。

 真っ青になっており、力が少し入れずらい。

 もう少し長く掴まれていたらと考えると冷や汗が出た。


 なにか腹に入れておいた方がいいのだが、あんな体験のあとではとても食欲がわかなかった。


 幸い走ってくる途中に化け物とは遭遇しなかったし、この倉庫はひとまず安全だ。

 息が整ってきたので少しだけ物色してみる。


 残念ながら倉庫にあるものはどれも使い物にはなりそうもない。

 腐った小麦や酸化した油かすらしきものしかなかった。


 もう一度座り込む。一度心身ともに休まないととても持ちそうにない。

 目を瞑るとさっきの光景が浮かんできてまた吐き気がしてきたので、少しだけ水を飲む。


 衝動的に床に手を叩きつけた。

 痛むが少しだけ気分が晴れた気がする。

 それからゆっくりと深呼吸した。


 ここで長居すると死ぬ。

 出会った人間はあの恐ろしい男だけだ。

 だが、もしかしたらまともな人間もいるかもしれない。

 その可能性だけはまだ捨てきれなかった。

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