第500話 帝城であって帝城ではない

「寒いな……」


 開いた左手で右肩をさする。

 上着も着ているのだがそれでもまだ少し寒い。

 そのくせ湿度が高くて不快な気分だった。


 幸い廊下にはあの人型の化け物はいないようだ。

 やはりメイドも警備の騎士もいない。

 争った跡も見当たらないので、まるで最初からここには誰もいなかったかのようだ。


 場所的にアレクシアの部屋が一番近い。

 周囲に注意を払いながらゆっくり進む。


 かすかな物音にすら神経を尖らせなければならず、心拍数が上がるのが自分でも分かる。


 アレクシアの部屋の前に到着した。

 ノックをしたが反応がない。

 まさかアレクシアがあの化け物に後れを取るとは思えないが、寝ている最中に襲われたとしたら……。


 緊急事態ということでドアノブを捻る。

 鍵はかかっていない。ドアが開いた。

 不用心だと思いつつ、部屋の中に足を踏み入れる。


 部屋は真っ暗で人の気配がない。

 燭台に火を移すと部屋が明るくなったが、誰もいなかった。

 荷物もなく、ベッドは奇麗に整えられている。


 どう見ても無人の部屋だった。

 アレクシアはどこに行ってしまったのだろう?

 部屋の燭台の火を消して蝋燭を拝借した。これでしばらくは火の心配をしなくても大丈夫だろう。


 長居するとまたあの化け物がくるかもしれない。

 部屋から出て少し考えを整理することにした。


 寒気を感じるのに緊張のせいか、湿度のせいか汗ばんできた気がする。

 深呼吸するとかび臭い空気を吸い込んでむせる。


 ……さっきからおかしなことばかりだ。

 客室に泊ってから数日、廊下で清掃が行き届いていないなんてことはあり得なかった。

 これではまるでヨハネだけが別の場所にいるようではないか。

 ごくりとつばを飲み込む。


 弱い魔物と遭遇しただけで命の危険がある。

 そしてこの城の外には化け物がいる。

 あまり良い状況とは言えない。


 他の部屋も確認したが、状況は同じだった。

 ただ一番奥の部屋で書きかけの便箋を見つけることができた。

 ペンも置いてあったが、手前のインクは完全に乾いて固まっている。

 かなり長い期間放置されていなければこうはならないはずだ。


 ヨハネはそっと窓に近寄り耳を澄ます。

 カーテンに遮られた窓から外の様子は見えないが、少なくとも滴るような音は聞こえなかった。

 今なら大丈夫そうだ。


 手紙を読む。

 手紙は帝国語で書かれており、しかも少し言い回しが古臭かったので読むのに苦労した。


 書き出しは挨拶のようなので読み飛ばす。

 世間話が少し続いたあと、少し意味深な話題に移る。


 最近奇妙な音がするということ。

 人型の魔物の目撃情報が増えているということ。

 赤い月の幻覚を見たという証言。

 行方不明者の報告。


 それらについて助言を求めるような言葉の途中で手紙は終わっていた。

 送り先は分からないが、手紙の主が頼りにするような人物だったのだろう。

 祈るような言葉がいくつかあったので司祭かもしれない。


 不穏な内容が含まれていたが、それ以上の情報は得られそうになかった。

 ペンは武器になりそうだ。持っていくことにしよう。


 ケルベス皇太子は帝国の平定は終わっていたような口ぶりだったのだが、こんな厄介な状態だったのか?

 それでもなんとかする自信があったのかもしれないが、巻き込まれたこっちはたまらない。


 客室エリアから出て長い廊下を渡る。

 飾られていた調度品などは無くなっており、少し薄汚れていた。

 帝城と間取りは同じなのにとても同じ場所とは思えない。

 まるで誰も居なくなって長い時間を経た後のようだ。


 バカげた考えにため息をついた。

 せめて誰かと合流したい。もしドッキリで脅かされてるだけなら今なら笑って許せるから。

 こんなところに一人でいると気が参ってしまいそうだ。


 慎重に歩いても靴の音が反響する。

 フィンから足音を消す方法でも習っておけばよかった。


 窓から外の様子を見れそうだ。

 そっと窓へ近づき、ゆっくり身を乗り出す。


 そこで悲鳴を出さなかった自分の胆力を褒めてやりたい。

 その光景は知っている景色とは別物だった。


 あまりにも巨大な赤い月。

 血塗れの庭には胴体に目がいくつもある巨大な豚が歩いている。

 空にはさっき襲ってきた化け物が翼を広げて飛んでいるのが見えた。

 まるで蝙蝠人間だ。


 ここは地獄か?

 ヨハネはそっと頬を抓ったが、残念ながら目を覚ますことはなく痛みを感じた。

 この城から出るには見つからないようにあれらを搔い潜る必要がある。

 だが、ただの商人であるヨハネにはとても難しい。


 なんで自分が、という思いが沸き上がってきたが、それを愚痴る相手もいない。

 確かなのは、見つかると命の保証はないということくらいだろうか。


 窓からなるべく離れて歩くのを再開した。

 城の中を探索し、もしいるなら同じように迷い込んだ誰かを探して協力したい。

 持っているペンやナイフではとても対処できない。


 食われるくらいなら……。いや、それは最後の手段だ。

 まだ出来ることはある。


 見つけた部屋を探索していく。

 客室とは違い、戦闘の形跡を発見することができた。

 化け物と相打ちになった白骨死体や、破壊された家具などだ。


 剣も落ちていたが、経年劣化で錆びついておりとても使えそうにない。

 この辺りには騎士の鍛錬所や仮眠室があったはずだ。

 彼らは戦ったのだろうか? だが白骨死体があるのはおかしい。


 そして厨房らしき場所に到着した。

 ここで騎士たちの食事を用意していたのだろう。

 床はネバついた液体がまかれており、少し酸っぱい匂いがする。

 ハンカチで鼻と口を塞いで奥へと進む。


 奥へ進むほど匂いはきつくなっていった。

 引き返すべきか悩む。

 するとわずかに音が聞こえてきた。

 なにかを食べるような音だ。


 もしかしたら誰かいるかもしれない。

 そう思うと居ても立ってもいられなくなり、音の方へと近づく。

 途中で天井からぶら下がっている白い包みが邪魔で押し退けていて進む。

 これはなんなのだろう。


 音はかまどの上の鍋から聞こえている。

 その鍋に誰かが首を突っ込んで咀嚼していた。


 声を掛けるか戸惑った。食事の方法がまともではない。

 後ずさりした瞬間、肘が何かに当たり食器が床に落ちて割れてしまった。


 それは音と同時に咀嚼の音が止まり、鍋から首を出してこっちを見た。

 燭台の明かりが相手の姿を照らし出す。


「――肉?」


 耳がなく、目が縫われ、鼻が潰れたその人物はただ一言そう呟いてこっちに向かって走ってきた。


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