第498話 順調のはず
「こちらの部屋をお使いください。なにかございましたら私共に命じて下さればすぐに対応いたします」
「ありがとう」
美しいメイドが客室に案内してくれた。
内装は豪華絢爛で家具のどれもが最高級品だ。
ケルベス皇太子が正式な客人として迎え入れてくれたのが分かる。
それも特別な扱いだ。
「お連れ様の部屋もご用意しております」
「え、でも……」
「せっかくだから案内してもらえ。羽を伸ばしてくるといい」
帝城は帝国で最も安全な場所だ。なにも起きるわけがない。
アズは少しだけ名残惜しそうにしながら頷く。
「分かりました。なにかあったらすぐに呼んでくださいね」
「心配しすぎだ。ここより安全な場所を探すのが難しいくらいだぞ」
「もちろんでございます。客室の周辺は騎士が警護しておりますのでご安心ください」
メイドは自信に満ちた表情でそう言った。
「私はどこか物置でも……」
「そんなこと言わないの。ほら、こっち」
遠慮するオルレアンをアレクシアが引っ張っていく。
フィンは両手を頭の後ろで組むと周囲を見る。
ふーん、と言った後はメイドについて行った。
旅の疲れを癒す良い機会だと思って、戴冠式まで世話になるとしよう。
エルザはさりげなく一緒に部屋に入ってこようとしたが、アズに見つかり手を掴まれて引き摺られていった。
なにをしているんだまったく。
部屋の中に入り、ソファーに座る。
柔らかくお尻が沈んだ。これは良いソファーだ。
ティーテーブルの上にはお菓子や果物が用意されており、お菓子を一つ摘まんで食べるとバターの風味と控えめな甘みが口の中に広がっていく。
「美味いぞ、これ」
そう言った後に部屋に一人なのを思い出した。
寝るとき以外は仕事中も含めて最近は常に隣に誰かがいたので、つい話しかけてしまい気まずくて頬をかく。
日中から完全に一人の時間は久しぶりな気がした。
背を伸ばすと背中で骨が鳴る。
アズたちに羽を伸ばすように言ったが、隣にいるのがもう日常になっていたんだな。
商人としても、一人の人間としても今更彼女たちがいない日々など考えられない。
それからの日々はまさに据え膳上げ膳といった日々だった。
退屈しないように色々と案内もしてくれたので少しだけ帝城にも詳しくなっていった。
フィンとアレクシアは訓練場で兵士や騎士相手に腕を磨いている。
お互い良い刺激になっているようで、汗を流していた。
アズとオルレアンは城の中に併設している図書館で本を読んでいる。
自分の名前を書くのが精々だったアズが、オルレアンの助けを借りつつ自分から本を読むとは。
成長したなと感心する。
引き取った責任があると思い、教育も行ってきた甲斐があったというものだ。
エルザはメイドや使用人たちの悩み相談みたいなことをしている。
さすがは司祭というべきか。かなりの人気があるらしく、行列が出来てメイド長が注意をしたほどだ。
手相占いは怖いほどよく当たるらしい。
帝城をあらかた回った後は帝国の商人たちと話す機会を設けてもらった。
今までなら皇帝御用達の商人と話せるような立場ではないのだが、今は王国の使者とケルベス皇太子の客人という立場がある。
話した内容は主にレクレーヌ公爵夫人に納めている香料や石鹸のことだ。
社交界で人気があると言っていたが、思った以上に貴族のお嬢様方にブームになっているようで帝国の商人たちも興味津々だった。
最初は帝国に支店をと思っていたのだが、彼ら曰くやはり国が離れていると管理が難しいという話をされた。
いくつも支店を持つ大きな商家ならノウハウもあるので国を跨いでも問題ないが、今のヨハネの規模ではなにか問題が起きた時に対処できず重荷になる。
下手すると本業を圧迫しかねない、と。
そうするくらいなら直接の儲けは減るが、帝国の商家と提携した方がよほど安全で安定した提供ができるという話になった。
海千山千の商人の言葉はヨハネにとっては非常に魅力的に思える。
もちろんそれは向こうにとっても大きな利益になるが、ヨハネにとってもちゃんと利益になる話なのだ。
彼らから学ぶためにも、今は話に乗っておくべきだろうと判断して話を進めた。
彼らの資本で店や職人が用意されることになり、ヨハネはロイヤリティを受け取る。
懸念事項としてはレシピがコピーされて類似品が売られることだが、それは構わない。
むしろ一般向けにはそうして欲しいくらいだ。
貴族向けに関してはすでにブランド化に成功しているので類似品は貴族に下手に売れない。
あくまでレクレーヌ公爵がお墨付きを与えたヨハネの商品が人気なのだ。
類似品では意味がない。
帝国の商人もそれは分かっているようで、住み分けはできそうだ。
ヨハネにもっと大きな力があれば、自分の力で商業圏を開拓して大きな利益を確保できたのだが……。
ただ既存の商人たちと争わなくてもいいというメリットもある。
本業に集中し、帝国からは一定の利益を上げられると考えれば悪くはない話だった。
握手をかわして正式な見積もりのあとに契約を結ぶ約束をした。
これが上手くいけば、もう馬車で山ほど香料と石鹸をつみ込んで公爵夫人に届けなくてもよくなる。
顔を繋ぐだけなら定期的に新商品を手土産に謁見すれば十分だ。
そして戴冠式が近づいたある日のこと。
ケルベス皇太子に招待され、共に豪華な晩餐を食べて満足感に包まれて少し早めに眠ったはずだった。
今まで聞こえなかった獣の遠吠えが聞こえて目を覚ます。
部屋は薄暗く、まだ夜なのだろうかと時計を確認する。
時計は六時を指した状態で止まっていた。
秒針が動いていない。
カーテンを開けると夜のように真っ暗だった。
「なんだ、あれ」
問題は薄っすらと周囲を照らす明かりが赤かったことだ。
その明かりの元である月は真っ赤に見える。
雲もなく、あまりにも不気味な光景だった。
慌てて部屋の外に出る。
寝ずの番をしているメイドか使用人がいたはずだ。
だが、そこには椅子があるだけで誰もいなかった。
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