第367話 望まぬ客
交わした契約書に書いてある額は、普段扱っている自分の店の売り上げよりも大きな金額だった。
個人で経営している店と、王都の食料を支えるいくつも支店を持つ商会とでは規模が違う。
分かってはいた筈だったが、改めて見るとよく平静なままで最後まで会談を進められたものだ。
エルザがなにかしてくれたのだろうか。
そう思ってエルザの横顔を見ると、その視線は菓子の方に向いていた。
こっちの視線に気づき、顔を向けてくる。
「あら、何か御用でした?」
「いいや。お土産に何か買っていくか」
「それはいいですね。皆喜びますよ」
わざわざ聞くのも野暮だと思い、話を切り替えた。
店先で適当に人気のある定番の菓子を見繕って貰い、ポータルを利用して自分の店に戻る。
契約は成立したので、まずは手持ちの資金でルーイドの人々から売るための品を買い上げなければならない。
十分に足りるとは思うが、帳簿を更新して資金繰りをチェックしておかないと。
そんなことを考えながら裏から入る。
すると、アズがオロオロとしながら入り口で待っていた。
「お、お帰りなさい。ご主人様。あの……」
「どうした? なにかあったのか?」
これほど狼狽えているアズは久しぶりに見る。
アレクシアもフィンもいるのだし、大抵のことには対処できるはずだ。
アズは言い辛そうにしていた。
というか何から言っていいのか分からない様子だ。
それを見かねてフィンがアズを押し退けて現れる。
「客よ、客。あんたにね。アレクシアがとりあえず応接室に押し込んできたけど、あんまり待たせない方がいいわね」
「……約束はなかったが」
「会えばわかるわ。そんなことを気にする相手じゃないってね」
フィンはそう言うとお土産の菓子を奪うようにして取り上げ、未だにオロオロしているアズを引っ張っていく。
エルザと目を合わせて、お互い何のことか分からずにいた。
とりあえず荷物はエルザに任せて、上着だけ脱いで菓子を一袋だけ持って応接室へと向かう。
扉の入り口にはアレクシアが立っており、少し疲れた様子だった。
「お帰り。早かったわね」
「ああ。客が来てると聞いたが」
「そうね。多分最優先で相手しなきゃいけない相手よ。王女様とその召し使い」
「嘘だろ。こんなところに王女様が来るのか」
王家の人間はそう簡単に足を運ばない。
いつどんな危険があるかもわからないからむしろ呼びつけるのが普通だ。
だが、あのティアニス王女ならフットワークが軽いだろうなとも思う。
あまり待たせるのもよくない。アレクシアにはこのまま待機してもらい、応接室へと入る。
応接室はカルネヴァーレに比べると質素で小さい。
あるだけマシ、といったところだ。
そんな場所で場違いなオーラを放っている少女が一人。
アレクシアが用意したのだろうカップを口につけ、寛いでいた。
「ヨハネさん、その様子だと上手くいったみたいですね」
「……お待たせしました。ティアニス王女殿下」
「遅い。王家の人間を待たせるなど」
従者のカノンも一緒だ。
相変わらず綺麗だが心証は悪い。
「せめて一報いただければすぐにでも戻りましたよ」
「そうよカノン。いきなり来たのだから仕方ないわ」
「だそうだ。ティアニス王女殿下の広い心に感謝するように」
これは分かりやすい茶番だ。
カノンの心証を悪くし、その分ティアニス王女の心証を良くする。
だが、あまりにも下手だ。
二人とも人心掌握はあまり上手くないのだろう。
その必要もなかったのかもしれない。
「それで、いったい何の御用でしょうか?」
お土産の菓子を広げて二人に振る舞う。
手も付けないと思ったのだが、ティアニス王女は意外と乗り気で手を伸ばす。
カノンは慌てて毒見を申し出て、奪うようにして口にした。
「心配し過ぎよ。私がどうにかなったら困るのはこの人なのだし」
「御身は高貴な立場なのです。軽率な行動は控えるようにいつも申し上げているではありませんか」
「もう、カノンは固いのよ。そう思うでしょ?」
「私からは何とも」
早く帰ってくれないかなと思うばかり。
いくら王女が美少女で目の保養になるとは言っても、心労の方が遥かに重い。
カノンが居ると尚更だ。
「ルーイドのことは私の耳にも入ってるわ。色々と動いているみたいで感心したわ。商人の人って本当に動きが速いのね。役人たちは本当に動かないのに」
「それはまあ、利益がかかっていますし、必要な経費は自分の懐から金を出してますから。手を付けるのが遅れるほど商機は遠のくのが常です」
「その言葉には賛成だわ。何事も早い方がいいもの」
この王女の部下は大変だろうなと顔も知らない相手に同情した。
王宮の役人たちはミスが許されない。
検討に検討を重ねて、利害も調整してようやく動き出すのはよく分かる。
それがまだるっこしく映るのだろう。
役割も目的も違うのだから一緒にされても困るのだが、苦言を言うにも立場が立場だ。
曖昧に頷く。
「それでどう? なんとかなりそうかしら?」
「ええ。人手がうまく回らず非効率で無駄な部分もかなりあるようでしたので、改善していくかと」
「そう。よかったわ。ならノルマを増やしても大丈夫ね?」
ティアニス王女はキラキラした目でそうのたまう。
今何を言ったのか、一瞬理解できなかった。
「近いうちに食料が必要になるの。これは間違いないわ。大丈夫、増やした分も必ず買い取るのを私の名前で約束します」
「それは……どの程度?」
「三割ほど増やしてちょうだい」
断るという選択肢など、存在しない。
それはカノンの眼光から見ても明らかだった。
ティアニス王女も断られるなどと一切思っていない笑みだ。
一応、計算上は足りる。
足りるはずだ。
「分かりました。ですが、次からはいきなり増やすのはお辞めください」
「ティアニス王女殿下が欲しいと言えば用意するのがお前の役目だろう」
無茶を言うな、と言えればどれだけ楽だろうか。
いきなり足元から湧いてくるものではないのだ。
最低でも事業計画を定める時に言ってもらわねば、どうにもならない。
最悪足りない分を買い付ける必要があるだろう。
そうならないことを祈る。
「ああよかった。用事はそれだけなの。失礼するわね」
「そうですか」
精神的な疲れはピークに達していた。
「美味しいわね。これ。袋ごと貰ってもいいかしら?」
「どうぞ。王都で買えますよ」
「そうなの? 今度カノンに買ってきてもらおうかしら」
そんな呑気な事を言いながら、ティアニス王女は部屋から去っていった。
しばらく立ち上がらず、右手で額を抑える。
本当に疲れた。
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