第188話 売りに出された宿

 次の日の朝は早かった。


 日が出てすぐ、まだ外が薄暗い時間帯に全員が起きている。

 荷物を纏め、来た時と同じ状態にしておく。


「忘れ物はないようにしろよ」

「確認したので大丈夫です」


 宿の部屋を片付け、綺麗にしてある。

 アズが最後の確認を行い、部屋を後にした。


 宿代は先払いで既に支払っている。

 受付は無人だった。

 もう少しすれば誰かが現れるだろう。

 宿の朝はかなり早い。


 鍵を箱の中に入れて外に出る。

 これでチェックアウトになる。


 エルザが先に移動して、厩舎から馬車を移動させてきた。

 ラバ達は少し眠そうだ。悪い事をしたな。


 昨日借りた道具類を返す為に警備員の詰め所に行き、寝ずの番で待機していた警備員に渡した。

 ズーカシーに宜しくと伝えておいたのでこれで問題ないだろう。


 ヨハネが御者の席に座り、馬車を走らせる。

 海が遠ざかっていくのをアズが眺めていた。

 バカンスはそれなりに楽しかったが、果たして休めたのかは疑問だ。


 ウミネコ達の鳴く声が聞こえてくる。

 海から離れていけばそれもやがて聞こえなくなっていった。


 馬車を牽くラバの足音と、時折聞こえる奴隷達の話声だけが聞こえてくる。

 ヨハネは荷台に居るエルザから果実を受け取った。朝食の代わりだ。

 皮ごと齧ると、瑞々しい果汁が溢れ喉の渇きが満たされていく。


 道中、早く出たのが幸いしたのか魔物やトラブルに遭遇する事もなく。

 予定通りカサッドまで帰還することが出来た。


 壁門から都市の中に入る。

 帝国に行った時も思ったが、数日留守にしたあと帰ってくるとホッとした気分を感じた。


 やはり生まれ育った場所は別ということか。

 一時期はここを離れることも考えていたというのに、人間は現金なものだ。


 ふと、教会が目に入る。

 以前は人だかりが絶えない場所だったが、今は閑散としている。

 それだけあの銅像は衝撃的だった。


 冒険者達が束になっても抑えるのがやっとで、ヨハネの奴隷達がいなければ相当な被害が出ただろう。


 その後にヨハネ自身も危うく命を落としそうになった。

 嫌な思い出だ。


 だが、それとはまた別の感情で人気のない教会は虚しいと感じる。


「これで良いんですよ」


 エルザがそう呟いた。

 いつもの声とは少し違う気がする。


 太陽神教の代わりに婦人会が炊き出しなどを行っていた。

 どうやら教会はもう無人のようだ。


 それもそうだ。

 冒険者や旅をしている司祭等ならともかく、教会に定住していた神父やシスターは針の筵だろう。


 教会が機能しなくなっても、特に変わった様子は無い。

 宗教は苦しみの中で流行るという言葉があった気がする。


 少し前のこの都市はまさにそうだった。

 今は税もまともな額になり、賑わいを取り戻している。

 雰囲気も全体的に明るい気がするし、神に縋らなくても問題ないのだ。


「変な気分だな。生まれた時からあった気がするんだが、呆気なく消えてしまった」

「元々無かったものなんですから。弱みに付け込んでいただけなんです。それで助かった人が居るのは否定しませんけど、結局その場だけ助けて終わりですから、彼らは」

「そんなものか」


 難しい問題だ。

 それに太陽神教だからと言って善人が居ない訳ではないだろうし。

 エルザから見れば全てが不満に映るのもあるだろう。


 さらに進むと、以前見かけた売りに出ている宿の看板が見えた。

 どうやら買い手がまだいないようだ。値段が少し下がっている。


 だが土地の価値も上がってきているし、訪れている人の数も明らかに増加傾向にある。


 少し寂れた場所にあるとはいえ、時間の問題だろう。


「少し待っていてくれ」

「分かりました」


 アズにラバを任せ、ヨハネは御者の席から降りて売りに出ている宿に向かう。

 扉をノックすると、老婆が出る。


 ギルドは別だが一応顔見知りだ。


「なんだい、坊主」

「元気そうだな婆さん。宿はまだ売れてないのか」

「ああ、全く。年月は経ってるがきちんと管理してるってのに見る目の無いやつばっかりさ」


 老婆がため息を吐いた。

 もう少し歩けば表通りで他にも宿があるのだから、仕方ない話だ。

 経営していた頃は迷宮に潜る冒険者の常連が多かったので問題なかったようだが、それはあくまで昔の話だ。


 買い取って新しくオープンしてもその客はとっくに他に取られているか、移動してしまっている。

 とはいえ、その表通りの宿が埋まれば当然需要が出てくる。

 そしてこれからはそうなる可能性が高い。


 この老婆の宿は安宿だがそれなりに広い。沢山客を泊めれる。

 最低限整っていれば後は寝れれば良いという人間はそれなりに居る筈だ。


 食事は道具屋で仕入れている商品を流通させれば安く済むだろうし。


「俺が買おうか?」


 ヨハネがそう言うと、老婆は怪訝な顔をした。

 昔からこっちを知っているだけあって、冗談かと思ったのだろう。


「坊主この宿を買うだって? ぼちぼちの商店を継いだばっかりの癖に言うねぇ」

「おいおい、それなりに稼いでるだぞ」


 アズ達がな。

 だが奴隷の稼ぎは主人のものだから問題ない。


 最近店を改装したのも知っている筈だ。

 ようやく本気だと受け取って貰えたのか、こちらを見る目が変わった。


「なら、これでどうだい」


 指を5本。

 看板より少しだけ安い。


「分かった。金を作るからそれまで勝手に売らないでくれよ」

「年内までは待つよ。そこから先はしらんねぇ」


 そう言って笑いながら老婆は扉を閉めた。

 お茶すら出さないとは流石のケチっぷりだ。


 トライナイトオークションも控えているのに、金は出ていくばかりだ。


「稼がないとな」



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