第167話 海水はしょっぱい
「忘れ物はないか?」
「確認しました。大丈夫ですよ、ご主人様」
「そろそろ夜が明けそう。早朝から出かけるのはやっぱり特別ですねー」
「眠いですわ……」
店に戻って三日ほど経ち、それだけ時間があれば溜まっていた雑用も大方片付く。
仕入れも確認し、後は任せられると判断して従業員達にまた店を預けた。
実は合間の肩慣らしにアズ達に簡単な討伐依頼で小銭を稼がせたりもしている。
実際のところ、安全な狩りというのは効率的で良い。
危険な狩りほど得られるものが多いというのは確かだ。
だが、ハイリスクハイリターンは必ずどこかで埋め合わせをさせられる時が来る。
怪我をしたり、成功を妬まれたりと。
安全な狩りにはそう言うリスクは発生しない。
大まかに事前に計算が出来て、疲労も少なく済む。
結果的に儲かるのだ。
ハイリターンの仕事をローリスクに出来るのが一番素晴らしいが、流石にその領域にはまだ遠い。
アズ達にとっては楽な仕事を怪我をしない様に注意してさせた訳だ。
この金はバカンスに充てると伝えておいたのでモチベーションも維持できる。
ヨハネとしては折角のバカンスなので豪華にしたいが、持ち出しが多いとやはり財布の紐が固くなってしまう。
その辺りのバランスを考えた結果だった。
そんなこんなで、ようやく海へ行く運びになった。
これから向かう海は王国では一般的に紅海と呼ばれている。
名前の語源は赤い魚が良く獲れるかららしいが、あくまで一説だ。
潮の流れは穏やかで海産物も豊富。ロケーションも良い。
過去にはこの海を巡って争いが何度も起きたと言われている。
今は王国が完全に支配権を確立しており、観光業で収益を稼いでいる。
なので王都から紅海へと定期的に馬車が出ている。
道路も整備されており、人の行き来は多い。
自前の馬車があるのでわざわざ人の密集する定期便に乗る気はしなかった。
御者をするよりもよほど疲れるだろう。
海に行くとはいえ、道中の危険もあるので武器も馬首に持ち込んでいる。
「ぎゅうぎゅうの馬車で海に行くのも、それはそれてで風情がある気がするんですけどねー」
「じゃあお前ひとりでそうしたら良い」
「1人じゃ面白くないですよ……この4人ならってことです」
「私は別に。どうせなら落ち着いて移動できる方が良いですわ」
「まぁ、足も伸ばせますし」
そう言ってアズが荷台の中で足を伸ばす。
普段は座るスペースがあるので開放感があった。
今回はただの移動だ。移動速度を上げる為にも荷台はほぼ空になっている。
アズ達の手荷物などはあるが、大した量ではなかった。
「そっかー、そうだよね。人が多いと窮屈になっちゃうよね」
「そう言う事だ。限界まで人を乗せるから足も遅いしな」
ヨハネは以前の記憶を思い出す。
海自体は良かったが、移動はひたすら苦痛だった。
しかし今では自前の馬車で移動できる。
これだけでも馬車を買った甲斐があるというものだ。
「泳いだことが無いんですが、大丈夫でしょうか」
アズが不安そうに聞くと、アレクシアが振り向いて答えた。
「水の精霊が宿っているのですから少なくともアズだけは何の心配も要りませんわ。どれだけ海が荒れていてもアズの周りだけは穏やかになるでしょうね」
「なるほど、あの子にそんな効果が……」
アズが右目を右手で触る。
すると水の精霊が現れてアレクシアの言ったことを肯定するかのようにアズの周囲を回った。
「一応川で泳いだ事はあるけど、何かあったらアズちゃんに助けて貰おうかなー」
「そうならないのが一番ですけど、分かりました」
「今の時期は海の魔物も少ないだろうし、そこまで心配しなくても良いと思うがな」
ヨハネはガイドブックを眺めながら会話に参加した。
「あ、私にも見せてくださいます?」
「ほら。俺はもう見たからそっちで回し見ろ」
「どうも。というか一番楽しみにしてるのはあなたじゃありません?」
「そうかぁ?」
そう言いながらガイドブックをアレクシアに渡す。
なんだかんだと言いながら、鼻歌まで歌っていて見るからに機嫌が良かったのは間違いない。
そんなヨハネを見てアズも思わず微笑んだ。
道中では魔物の襲撃もなく、アレクシアの魔法もあり一気に距離を稼げた。
カソッドから紅海までは普通の馬車なら野宿を挟んで1日半ほどかかる距離なのだが、日が落ちる前に水平線が見え始める。
「あれが海ですか!?」
アズが驚いてよく見ようと思わず馬車の御者席に乗り出す。
ヨハネが手を貸して、飛ぶようにして隣に座った。
「そうだ。広いだろう」
「はい。青い水がずっと広がってて……綺麗ですね」
「ちなみに海の水は飲むなよ」
ヨハネはニヤリと笑ってアズに言う。
「何でですか? 生水はお腹を壊すから飲むつもりはありませんけど」
「それもそうか。こういうところは知識があるんだな。答えはしょっぱいからだ。海には塩が溶けてて舐めただけで塩の味がする」
「……あの、ご主人様。からかってますよね。あんな沢山の水に味がするほど塩が溶けてる訳無いじゃないですか」
「ほぉ、言うじゃないか。ならもし本当だったら、かき氷を一気食いしてもらおうかな」
「かき氷は知りませんけど良いですよ。私がいくら物を知らないからって毎回騙されませんからね」
そう言ったアズが海に到着するなり手で海水を掬い、口に入れた瞬間。
形容しがたい顔でヨハネを見る。
口の端からははしたなく海水が漏れていた。
エルザとアレクシアは既に笑いをこらえており、ヨハネは店じまいを始めていた海の家からかき氷を購入済みだった。
アズは約束通りかき氷を一気に食べて、頭を抱える羽目になった。
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