第162話 フェアトレード
既に公爵に兵士を通じて話は通っていると思われる。
全員の格好をアレクシアが改めてチェックし、よほど酷い不備がない事を確認した。
アレクシアはヨハネの服を張り、少しでも見栄え良くする。
「店に戻ればもうちょっと良い服があるんだが」
「世の中そんなものですわ。出たとこ勝負になることもあるでしょう」
「今回は特にそれが多かったがな……」
ヨハネは採算は取れたが、と付け加える。
一行は公爵家へと向かう。
前回香料と石鹸を依頼してきた家令の男が門で待機していた。
来る時間が正確に分かる訳がない。
連絡があってからずっと立っていたのだ。
「こちらへ」
そう言って家令の指示で門が開く。
そのまま進む家令の後ろについていった。
通されたのは公爵家の当主の部屋だ。
家令の男は扉をノックし、返事と共に開ける。
部屋の中では公爵と公爵夫人がソファーに座り、ワインをグラスに注ぎながらチーズとナッツを摘まんでいる。まさに飲んでいるところだった。
些か呆気にとられる。
家令は案内した後、扉を閉めた。
足音は聞こえないので扉の前で待機しているようだ。
部屋の中には他にメイドが数人いる。
「護衛も兼ねてますわ」
後ろでそっとアレクシアがヨハネに囁いた。
警戒心を抱かせず、しかし身を守るには最適なのだろう。
ヨハネは自分が女の奴隷を冒険者にして近くに置いているのと似てるなと思った。
「とりあえず座ったらどうだ?」
そう言って公爵は向かいにあるソファーへと誘ってきた。
遠慮なくヨハネが先に座り、他の面子も続く。
皮張りの高級ソファーは5人が座っても問題ない。
座り心地も最高だ。
「先にこれを渡す。ご苦労だったな」
そう言って公爵はメイドに指示し、机の上にある袋を銀のトレーごとこちらに寄越した。
袋は重く、中には十分な量の金貨が詰まっている。
「報酬と、後は口止め料もある。今回のことは決して外には漏らさぬように」
「分かりました」
ヨハネは大事そうに袋を持ち、アズに預けた。
公爵は受け取ったのを確認すると、食べやすいように六等分にカットされたチーズを1つ手に持ちそれを口に放り込む。
チーズの味を楽しんだ後、それをワインで流し込んだ。
「農奴――確かオルレアンだったな。このワインの原料である質の良い葡萄はどこで採れたか知っているか?」
そう言って公爵はメイドに葡萄を1房もってこさせた。
立派な葡萄だ。
公爵が好むほどのワインという事は、元になったのは上等な葡萄なのだろう。
聞かれたオルレアンはじっと葡萄を見つめる。
「見覚えがあります。これは荘園で採った葡萄によく似てます」
「そうだ。一粒食べてみろ」
「……はい」
公爵に言われて葡萄の枝から一粒とり、皮ごとに口に入れる。
すると、瞬く間に驚きの表情になった。
「美味いだろう。ワインにするともっとうまい。帝都にいる法服貴族なんぞは借金してまで買おうとする」
公爵も一粒掴み、それを口に入れる。
「商人。お前も食べてみろ」
ヨハネは頷き、食べてみる。
今まで食べたことのあるいかなる葡萄よりも甘く、しかし確かな酸味が有る。
果汁は口から溢れんばかりだ。
この葡萄をもし買えと言われたら、山ほど買うと答えるほどの美味。
「驚きました。こんな葡萄は食べたことがない……」
「そうだろう、そうだろう。我が領地で最も自慢のものがこの葡萄なのだ。この辺りは今でこそ穀物の栽培も盛んになったが領地化した当初は何もなかった」
そう言いながら公爵は銀のグラスをメイドに渡して、その中に深みのある赤いワインを注ぐ。
アズとオルレアンには別の容器から果汁を絞った飲み物が振る舞われた。
「この葡萄が生まれた時から我が家の繁栄は始まった。それを支えたのはお前達になる。そう思えば些か扱いが悪かったかもしれんな」
エルザはグラスをゆっくり回しながら香りを楽しみ、口に少し含んで味わった。
アレクシアは一口舐めるように飲むと、気に入ったのか一息で飲み干す。
アズとオルレアンは甘い葡萄ジュースを楽しんでいる。
ヨハネは新しい皿に盛られたナッツを一つ掴むと、口に運び音を立てて噛み砕く。
それをワインで喉に流す。
塩気と甘みが下を通り過ぎていった。
「つまり、約束通り?」
「そうだな。もちろんこの葡萄を作り続けるのが条件ではあるが、農奴たちに権利を認めよう。学ぶこと、葡萄を含めた生産物を安くではあるが買い取ること。そしてその金で望めば自らの立場を買い戻せることを」
非常に大きな話だった。
この都市のあり方が変わりかねないほどの決定だ。既に大都市化しているからこそか。
荘園の利益がこの都市に注ぎ込まれ、インフラが整備された結果、帝国内の人や物が集まるようになっている。
公爵は旧態然とした農奴を否定した。
自らの持ち物であるから全て奪ったとしても誰も文句はつけないのに。
元老院に席を置く帝国の大貴族が、だ。
オルレアンはそれを聞いて頭を下げた。
「……ありがとうございます。公爵様」
「もう十分貢献した。良い機会だ。お前達の中から優秀なものが出ないとは限らん。お前のように。それにやる事は変わらんぞ。教育も幾つかの本をやるだけだ」
「それでも、です」
公爵はグラスの中身を飲み干すと、新たにワインを注いでガラスで作られたボトルを空にした。
そして空になったボトルを右手で掲げて眺める。
「この世で最も恐ろしいものは何かわかるか? 火竜よりもだ」
問われたヨハネは考える。
彼にとってはそれは破産だが、公爵にとって最も恐ろしいものはなんだろうか。
「病や失脚ですか?」
そう聞くと、公爵は鼻で笑った。
若者らしい答えだとでも言うように。
「恨みだ。一度抱いた恨みは消えん。長く燻り続け積み重なる。それはやがて相手の全てを打ち倒してしまうのだ。恨みは抱かれてはならぬ。これはその一環だ」
話はそれで終わりだ、と公爵は締め括った。
「明日より始めるとしよう。オルレアン。お前は荘園に戻るのだな」
「はい」
「もし自分を買い戻すなら私を訪ねるが良い。雇ってやる」
「分かりました」
オルレアンを拾ってから始まった一連の出来事がようやく片がついた。
頭を下げて部屋を出る。
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