第8話 絶体絶命

 アズは真っ暗な空洞の中をひたすら走る。

 崖の更に下にこんな空間があったとは……だがそんな事に感心している場合ではなかった。

 頼りになるのは松明の明かりだけだ。

 どこかに上にあがる道があれば良いのだが。


 アズのそんな淡い期待は叶わない。

 松明が照らしたのは無慈悲な程に行く手を遮る行き止まりの壁だった。


 周りを見ても、道などない。


 焦りだけがアズの中で積み重なる。


 そうしているうちに、遠くから聞こえてきた這いずるような音が近づいて来た。

 違う。これは這いずる音ではなく、這いずるように歩く音だ。

 沢山の足で歩き、胴体が地面を這いずる。


 アズは音のする方へと振り返り、松明をなるべく高く掲げた。


 やがて松明の明かりが音の正体を朧気ながら暴き出す。


「ひっ」


 それを見た瞬間、アズは引きつった声を出した。

 それは巨大な……頭だけでもアズよりも大きな百足虫だった。

 全長は松明の明かりでは照らしきれないほど長い。


 節毎に対に生えた巨大な無数の足が生理的恐怖を引きずり出す。


 アズが気を失わなかったのは、気を失えば間違いなく死ぬという予感によるものだった。


 ただそれは、気を失わなければ死なないという事を意味しない。


 巨大な百足虫は顎の牙を威嚇するかのようにぶつけて、その度に硬い衝突音が空洞に響く。


 アズはまだ痺れが残る右手にあらん限りの力を籠め、主人から貰った剣を握りしめる。

 この剣ならもしかしたら、怪物に何かしらダメージを与えられるかもしれない。

 そうすれば私を獲物とは見ないかも。


 そうアズは考える。


 走った所為で乱れていた呼吸は落ち着いてきたが、心臓が早鐘を打つのは一向に収まらない。冷汗が止まらない。アズの全身から血の気が引いている。


 思わずアズが一歩だけ後ろに下がると、その音に反応して巨大な百足虫がアズへと顔を向けた。


 いや、正確には燃えている松明を見ている。

 アズには知る由もなかったが、百足虫は目がほぼ見えない。明るいか暗いかが分かる程度で、音や振動を察知して獲物を追いかける。


 真っ暗な空洞の中で明かりを灯す松明は、百足虫の注意を引くには十分すぎた。

 ひと際大きな牙を打ち鳴らす音と共に、巨大な百足虫はアズへとおどりかかった。


 巨大な体を節毎にくねらせ、見た目よりも遥かに俊敏に動く。


 アズの予想よりも動きが早く、何とか横に避けたものの胸当てが牙に触れる。

 それだけで胸当てがひしゃげて壊れ、アズの体から落ちる。


 守りの魔法が込められていると主人が言っていた筈だ。

 それがこんなに簡単に……!


 胸当てが無ければ、アズの体がひしゃげていただろう。

 幸い守りの力か衝撃がアズに伝わることは無かった。


 そして目の前には無防備にさらされた百足虫の横っ腹がある。

 蠢く足を跳ねのけて、松明を一度手放し両手で剣を握る。

 大丈夫。痺れは残っているけど軽量化されたこの剣なら全力で振れる。


 アズは初めて全力で、本気で剣を相手に振り下ろした。

 アズの生存本能が恐怖を上回り、限界以上の力が込められた一撃は……。


 巨大な百足虫の外皮にとって取るに足らない一撃だった。

 硬さだけで剣が簡単に弾かれ、その衝撃はアズの両腕に帰ってくる。


「つうぅ!」


 剣は幸い欠けなかったが、アズの両手は持たなかった。

 剣を握れず手からすべり落ちる。


 拾おうとするが、それよりも早く巨大な百足虫がアズへ向き直る方が早かった。

 何とか松明を無理やり脇に抱え、急いで距離を取る。


 巨大な百足虫はアズではなく剣の方を眺め、それを口に咥えて――その牙でへし折ってしまった。

 そしてゆっくりとアズを見る。

 次はお前だとでもいうかのように


 ただの少女過ぎないアズの身を守っていた剣と鎧が無くなる。

 そこに居るのは、何もできないただの少女だった。


「やだ……やだやだやだ」


 身を守るものが無くなった事で恐怖をせき止めるものが消え、アズは完全にパニックに飲まれた。


 必死に巨大な百足虫から逃げた。

 足がもつれて何度も転び、体中傷だらけ。服はあっという間にボロボロになった。

 もはやぼろ布を身に纏っているようなものだ。


 パニックになって逃げている間、百足虫の顎にかみ殺されなかったのは彼女の運の良さの賜物だろう。だが少女の体力ではすぐに限界が訪れる。


 逃げている最中、アズにとってはまるで一晩ずっとのように感じられた。

 足がついに限界に達し、倒れこむ。


 なんとか松明を杖にして起き上がろうとするが、足にまるで力が入らなかった。

 痺れた腕では松明を支えることもできず、松明が手からすり抜けて倒れこんだ。

 燃える松明の先端が、壁の中にある窪みを照らす。


 窪みは長さがあるが、幅は狭い。

 リュックを苦労して脱いで、アズは這って窪みへと逃げる。


 思惑通り、巨大な百足虫の頭は窪みより大きく入ってこれない。

 何度か頭を窪みにぶつけ、その度に大きく揺れることでアズの恐怖心を煽るが細かな石が窪みの天井から落ちる程度で済んだ。


 (何とか助かった。こいつが何処かに行くまでここで体を休めよう)


 そうアズが思った瞬間、何かがアズの服を掴み、窪みからアズを引きずり出す。


 アズの手から落ちていく松明の灯りが、一瞬だけその何かを照らした。

 その灯りでアズが見たのは、細く長い百足虫の足だった。


 器用に足を窪みに入れて、アズの服に引っ掛けたのだ。


 ボロボロだった服は破け、ほぼ下着姿になったアズは自覚することなく小便を漏らしていた。

 だが足を伝うその感触すら認識できない。


 暗闇で見えないが、アズの目の前には百足虫の頭があるのが気配で分かる。

 そして、口を大きく開けていることも。


 アズが身に着けているものはもはや下着と赤い魔導石のネックレスだけ。

 走馬灯を見る直前、アズは主人の言葉を正確に思い出す。


「割れて!」


 アズは最後の力を振り絞り、魔導石を握りしめた。


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