眠りにつくその前に
「たっだいまー」
映画が終わりかけの頃、救世主がようやく帰還した。
母、帰宅である。
心の中のリトル俺が「やったー母さん帰ってきたー」とはしゃぐ。
もちろんマザコンではない。
母さんが帰ってきてくれることでようやく、うちに住み着いたメンヘラが帰宅してくれるのだから喜ばずにはいられない。
「あ、時也のお母さん帰ってきたね」
「だな。もう起きろ」
「ヤダ。何よ、見られて恥ずかしいの?」
「……別に」
そう、別に今更である。
毎日俺の膝枕でくつろぐカレンを母は目撃している。
その度に「あらあら、お熱いことで」と言ってニヤける母と「時也のお膝、ちょうだいしてます」と言ってデレるカレン。
貸した覚えはあってもくれてやったつもりはないんだが。
まあ、そんな細かいことはどうでもいいとしてもだ。
「カレンちゃんただいま」
「おかえりなさいおばさん。今日は早かったですね」
「ええ、ちょっと急な出張が決まっちゃって。明日から二、三日家を空けるから、その準備のために早めに上がらせてもらったのよ」
やれやれと言った様子でそう話す母。
そして母の言葉を聞いて、「出張の間も時也のご飯は任せてください」と、ようやく体を起こして前のめりになるカレン。
そんな二人を見ながら、ようやくことの重大さに気づいた俺は、焦る。
「え、出張!? いやいや、どこにだよ」
「ちょっと北海道にねえ。お土産は何がいい?」
呑気そうに母は言う。
父さんが単身赴任中で、自身も仕事で忙しい日々が続き家を空けることが多いというのに全く不安も申し訳なさも感じさせない母の態度は、やはりカレンという存在がそうさせているのだ。
母曰く、「むしろ私達がいない方がいいんでしょ」って。
そりゃあ親がいなくて実質一人暮らしとなれば夜はゲームし放題だし、コンビニだって好きな時に行けるし、彼女ができたら連れ込み放題と、まさにパラダイスなわけだけど。
それは俺が一人暮らしできた場合の話であって。
親の数倍めんどくさいメンヘラ幼馴染がいる現状では、むしろ親の存在が俺の唯一のライフラインであるということをうちの親は全くわかっちゃいない。
カレンはこんなんだけど一応頭は賢いのと外面はいいので、うちの親が帰ってきたら一度身を引く。
もちろんそのあとで地獄の電話ラッシュが待っているのだけどそれはそれとして。
物理的にメンヘラから解放される手段が、今のところ親の帰宅しかないというのに。
出張だと?
北海道だと?
バカを言うなと言いたいところだ。
しかし、だ。
この歳にもなって「母さん、行かないで」なんてマザコン全開なことも言いたくないし。
できる限り早く帰ってきてもらえるように促すくらいしか、今は思いつかん。
「……土産とかいいから、さっさと用事済ませたら帰ってこいよ。カレンに迷惑かけてばっかだと悪いだろ」
「はいはい、わかってますって。でも仕事なんだから仕方ないじゃない。というわけで私は支度したら明日朝イチで出るから、あとのことはカレンちゃんと協力してやってねー」
母はバタバタしながら部屋へ戻っていった。
そして、母がいなくなるとすぐにカレンは、また俺の膝へ頭をぽすっと乗せる。
「お母さん、出張なんだってね」
「嬉しそうに言うな。失礼だぞ」
「な、なによ別に喜んでなんかないもん。でも、明日からは時也、夜一人で寂しいでしょ?」
「別に。部屋にいるからいつも通りだよ」
「で、でも夜中にトイレに行きたくなった時に誰もいないんじゃさすがに心細いよね?」
「さあ。夜起きてトイレに行かないからな」
「ま、万が一のこともあるじゃない?」
「ねえよ。ていうか、泊まる部屋なんかないからな」
うちは一軒家だが大して広いわけではない。
リビングとキッチン、そして父と母と俺の部屋が一つずつある平家だ。
客人が寝泊まりするような無駄なスペースなんてないことはこいつも知ってるだろうに。
「……まあ、いいわよ。それより早く再生して。これ見たら洗い物して帰るから」
カレンもカレンで、その辺はよくわかっているようだ。
当然俺が部屋に泊めるなんてことを許さないってことも理解している。
だからか、諦めた様子で映画の続きを不貞腐れたまま見終えると、さっさと洗い物を済ませて本当に帰ってしまった。
多分怒ってるのだろうけど。
いちいち同情なんてしない。
したら負けだ。
それに、
「もしもし? ねえ、もう部屋に戻った?」
そんなことしなくてもあいつの図々しさは変わらない。
うちを出たかと思ったら、すぐさま電話をかけてきた。
「今戻ったところだよ」
「あ、そ。ねえ、明日からのことなんだけどさ」
「朝飯はどうせ作りにくるんだろ? だったらそれでいいじゃんか」
「まだ何も言ってないでしょ。あのさ、お母さんのお部屋とか借りたらだめかな? い、一応留守を任されてる身として、セキュリティ面を考えて泊まった方がいいかなってだけよ」
「鍵もあるしこの辺は住宅街だから大丈夫だろ。なあ、今日は眠いからもういいか?」
「そ、そんなこと言って電話切ったらどこか遊びに行くつもりでしょ? だ、だめよそんなの。こんな時間にうろうろするなんて」
「誰も出かけるなんて言ってないだろ」
「そ、それじゃ誰か来るの? 誰? ねえ、誰よ」
「虫一匹俺の部屋には来ねえって。だからもういいか?」
「ダメ。ちゃんと時也が寝るまで私、電話切らないからね」
「……じゃあ寝るから。おやすみ」
そう言って俺はスマホを枕元に置く。
通話は切らない。そのまま。
俺は部屋の電気を消してベッドに寝転んで目を閉じるのだけど、その間ずっと、カレンはしゃべり続けている。
俺はもちろん何も返事をしないのだけど、それは決して無視をしているとかじゃない。
こうして寝たということにしないと、カレンは納得しないのだ。
しばらくの間、「ねえ、もう寝た?」「あのさ、最近知ったんだけど通話しながらラインってできるんだってね。もしかしてそんなことしてないよね?」「本当に寝た? 寝たフリだったら私、怒るから」とかなんとか、ずっと一人で喋り続けるカレンの声を聞きながら俺はもちろん全然寝かせてもらえなくて。
だけどジッと我慢していると、「もう、本当に寝ちゃったみたいね。私との電話中に寝落ちしちゃうなんて、時也ったら可愛い。おやすみ」と。
ようやくカレンが電話を切る。
ブチっと音がした後でスマホの画面を確認して、ちゃんと通話が終了していることを確認してからようやく。
長い一日の終わりを実感するのであった。
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