12月17日 無常
雨。
今日は母と買い物に出かけていった。久しぶりに身内との大型店での買い物となったので、それなりに前向きに出かけることができた。買い物の道中、救急車と担架をみかけて、少し首を伸ばしてみると、店窓口のパーテーション奥で倒れている人がいたようだった。母は、それを見ていつわが身に災難がかかるか分からないと話していた。
誰がいつまでも同じ状態であり続けると言ったのだろうか。この国が平和で安全であるがゆえに、そのような錯覚をもたらしてしまった、日本経済の功罪は大きいだろう。自分も明日は我が身だ。明日に自分が死んでいてもおかしくはないし、またこの数十年後に亡くなるかもしれない。ただ、少なくとも「死」の苦しみを皆経験せねばならないことは分かっている。
私は「死」の現場に何度もみてきた。「死」はたしかにそばにあるのだ。だが、それがさも遠い存在であるかのようなごまかしが見られるのである。「死」は恥でも忌むべきものでもない。ごくありふれた現象なのである。
しかし、どうして人は「死」を特別の避けようとするか。これは神道的側面から説明できるのではないだろうか。要は「穢れの思想」から来る不吉な出来事の回避である。だが、そんなことをしたところで根本的な生死解決になるはずがないのである。いかに向き合っていくでき課題が目の前にあるにもかかわらず、今日もまた他人事のように事件の横を通り過ぎるのはあまりにも重たい話であるにもかからずさっと流されるなんとも言えない心境である。
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