12月16日 道を歩く
晴れ。
今日もまた大学内でのバイト勤務であった。やることに専念できる日は、がむしゃらである。ただつっぱしるだけなのだ。でもそれがいい。何も余計なことを為す余裕がない。ひたすらなすべきことを為していくのだから。歩いてはモノをとり、そして然るべき場所に置きなおす。この動作をよりコンパクトにできるか。日々の繰り返される仕事はこれが基本であろう。
歩く禅、座る禅、置く禅。あらゆる行為に対して念をこめ為していく。
ある時聞いた、永平寺元トップの
この間の欲の問題の話に繋がってくるわけだが、何か足りない感覚に陥っていることは何ら不可思議なことではないと思う。だが、どうしてこの結論をどのようなプロセスを経て生み出したのだろうか。その答えはきっと単純で禅によるものなのだろう。だが、その禅行為に内包される智慧を知る能力がないせいか、そうも思わないのだ。
私は今こうして書いているわけだが、どこからかむなしさや疑念など必要以上の感情が湧いてくるのだ。しかし、勤務中はほぼ余計な考えが湧いてこない。この違いは一体何のなのだろうか。わが身の内側の問題なのだろうか。
仏教というのは、心の内側から自他に影響を及ぼすという考えがある。だが、この考えに固執しているという問題を抱えている。ありのままの事象を眺めて問題解決を図るべきであるにもかかわらず、それができていないのだ。何とも情けない話である。
沈黙の時間そのものが答えだったりして……いや、そもそも言語化こそ理解を妨げる原因なのだから、安易にそのように表現していいのだろうか。その可否すら分からないのが、自分の現在地点なのである。
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