12月15日 自他をみつめる

 晴れ。

 今日は、データロガーの記録結果を知る日となった。このデータロガーは、温度・湿度を断続的に測りグラフ化の元データを生成する機械となっている。私は冗談半分で、自分の棚のフィギュアケース内に入れて2週間ほど結果待ちを行っていた。すると、予想通りではあったが振れ幅が大きいグラフデータが算出された。このデータを見るに、先生の評価としては自宅の環境のわりにいい数値だとおっしゃられた。ただし、これが年間通して維持されなければならないらしいが……

 しかしながら、人間は生まれてこの方自然に打ち勝ったことが一度もない。膨大な自然法則によって我々は操られ翻弄してきた。無論、これに逆らおうと試みた人間は数知れずいた。だが、それらの試みは途中で頓挫したものばかりであった。

 文系脳で理系嫌いな中高時代を過ごしているが、改めてこうしてデータをとる行為をすると、科学は実におもしろいもんだなとつくづく感ぜられる。だが、どうやら私の脳は、科学を深くやることに拒否反応を示しているので残念でならない。


 この授業の後、夕方の授業まで時間があったので京都アヴァンティ―のゲームセンターで遊んでいた。無性にクレーンゲームをやってみたくなったのだ。そこが罠だったのだ。2000円ほど使ってまでして取る意味はなかったし、結局何もとれなかったのだ。そこでふと、大学でお世話になった坊さん先生の拝読音声が脳内に響いた。


凡夫ぼんぶ」といふは、無明煩悩むみょうぼんのうわれらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終りんじゅうの一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと。


 人間の欲というものがいかに深く恐ろしいものか、思い知らされることになった。だからといって、過激なミニマリストみたいにクレーンゲームを「悪の権化」呼ばわりするつもりはさらさらない。だが、実に人間にとって厄介な存在であることには変わりない事実である。

 人間は、どうして欲に流されやすいのだろうか。これには色んな意見があるのだが、私見を述べていこうと思う。そもそも、人間と他の生物との違いは何だろうか。ここの定義からまず考え直さねばならないものがあるだろう。ここの定義づけで傲慢な感情が出るか否かによって狂いに生じる可能性がある。所詮、人間も他の生物と変わらないのではないだろうか。

 人間もまた、本能のままに生きがちな生物ではないだろうか。ここに毛が生えた程度の理性があるくらいだろうかと思う。この理性に対する評価もまた様々な考え方があるだろうが、私としてほぼ評価していない。仮に高い性能を理性が有するというのであれば、これほど欲深いものにとりつく人はいないからだ。

 いつから、この「理性」の対する信仰が始まったのだろうか。否、これは信仰ではない、妄信と言おうか、或いは狂信と言った方が良いのかもしれない。私は仏道の教えを長年聞き、俗人でありながら実践しようと長らくの間試みていた。しかし、実践できずじまいであった。仏教は、実践してこそ意味なす道の教えであり、それを理解しているのにも関わらず、一向にできていなかった。

 その原因を探りに、大学生活を送った所、一つの答えを得ることができた。そして、その答えは親鸞聖人も私とある意味似たような悩みを抱えていたことを知る元となった。そう、人類始まって以来人間が越えられない壁の存在であった。まだ、釈尊が在世中ならマシで越えられる壁であったのかもしれない。しかし、末法の年周辺ではもう既に越えられない壁になっていた。実に知りたくもなかったことでありながらも、今の自分を受け入れねばならないと戒められている思いがした。この壁に立ち向かった聖人がいかに大きい存在であったか改めて思い知らされる機会となった。

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