令和4年12月11日 京セラ美術館から

 晴れ。

 冬空の下、コレクション展を見に京セラ美術館に足を運んだ。最近まで仏教美術に執着していた自分であったが、教授の勧めで西洋絵画等の他ジャンルの美術を見ようと思っていた。いや、「観る」が適切だった。されど、何も知識がないジャンルに対して「観る」レベルまで、自分の目の能力は向上しているだろうか。やはり、いまはまだ「見る」にしておいた方がいいかもしれない。

 さて、特別展の部屋がある隣の部屋でコレクション展が行われていたが、主に文展や帝展、日展などの名誉ある賞に受賞した作品が多く展示されていた。

 その中で足をとめてまで見入った作品があった。それは村上華岳むらかみかがくの「阿弥陀」だった。

 近代の仏画は芸術性を重視したものだろうと思い込んでいた。許容できても狩野雅邦かのうがほうの「悲母観音ひぼかんのん」ぐらいだった。だが、そんな偏見を考え直すきっかけを提示したのが、この「阿弥陀」であった。

 仏教美術の観点から「見て」みる。よくよく見れば、法隆寺金堂6号壁に描かれる阿弥陀三尊をベースにし、画面下部に橘夫人念持仏たちばなぶにんねんじぶつ・阿弥陀三尊像の光背内飛天をモデルにしたであろう飛天を添えた画面構成になっている。飛天が、阿弥陀が住する安楽国あんらっこくを導くかのような構成になっている。画面上部には、玉虫厨子をモデルにしたであろう飛天が、天蓋の彩りを添えている。


 「飾られた世界に導かれ、弥陀の説法にまみゆ」


 世界に引き込まれてたどり着いた、その瞬間を切り取ったもの。いわゆるスクリーンショットの表現、これが芸術の極致ではないかと感ぜられた。

 はじめは、絵画を見る気分を見ていた。だが、二度見すると頭が下がる気持ちが起き、展覧会場を一周した後に三度見して名号みょうごうを念じた。


 これは弥陀信仰に傾倒している私だからこそ、この作品に惹かれたのかもしれない。だが、それにしても近代絵画をみる契機となった貴重な一作であった。

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