4、ベルメルト家の招待 6
夜会の翌日。ティアンは熱を出した。
心労と、痛みに苦しまされ、熱は三日間下がらなかった。
レオンから負わされた頬の傷は腫れ上がって、殴られた腹部は痛みが鈍く残って、痣ができていた。
熱が下がり弟のコンラッドが見舞いに部屋に訪ねてきてくれた。痛ましい姿に可愛らしい顔を歪め、無事を喜んでくれた。
コンラッドに何度聞かれても、誰にここまでのことをされたのかティアンは言わなかった。
夜会から一週間後。
顔の腫れとお腹の痛みは引いているのに、部屋から出してもらえない。
湿布のとれた顔は、ようやくみれないこともないくらいに元に戻って来ていた。
頃合いを見てアメリアが見舞いに訪れた。
夜会のあと、わかる限りでティアンに教えてくれた。
あの晩の出来事により、レオンは実父の怒りに触れてしまった。このことをきっかけに彼はすぐに勘当された。侯爵家に悪い噂が立ってしまう前に追い出したことになる。
侯爵家の後継に新たになったのは、次男になるそうだ。弟コンラッドの友人であり、ティアンをレオンに引き合わせた子である。
レオンよりも賢く、歳にしては冷静に周りをよく見ている子のような印象があった。彼ならば、ラデリート侯爵家をより良く導いていきそうだ。
いまは、そのことと、もう一つ。
リーティアのことだった。名前は出ていないが、ロメベル子爵の娘といえば、限られてくる。
「ロメベル子爵令嬢、教会へ奉仕に出たって噂よ」
「そうなの」
リーティア。
ティアンの従兄妹。話をしたことは一度もない。なぜか理由のわからない冷たい視線を常に彼女から感じていた。
社交界のパーティはこの二つが話題で、ティアンとレオンの婚約の噂をする人は一人もいないという。
ティアンがルアドと会場を離れたとき。ライアンとアメリアは運悪く、知人に捕まってしまっていた。ティアンの安全のために目が離せないからと言っても、ライアンの仕事上の知人に、気もそぞろな対応はできない。
ティアンから目がそれた、その隙をうまく利用されてしまい、ごめんなさいと謝られた。
アメリアに、何度も警戒しなさいと伝えてくれていたのに、できていなかったティアンこそ、悪い。
お互いを許し合って、友人らしく笑い合った。最後に「ハロルド様と早く会ってあげて」と困って笑い、アメリアは帰って行った。
◇
アメリアの見舞いの数日後。
ハロルドが屋敷を訪ねてきた。
熱が下がったばかりの四日目に、ハロルドは屋敷にきた。小さな花束と、ティアンの大好きな菓子店リグウェイのクッキーを持って。
こんなひどい顔をハロルドに見られたくなくて、当初会えないと拒否した。
動けるようになってからも頬が腫れていると出鱈目な理由を作って拒否し続けていた。
お腹にできてしまったあざは消え、痛みが引いても、会えないと拒んだ。
乙女として、酷い姿はとてもみせられない。
ハロルドにとても、とても心配をかけた。
心をすり減らし、ティアンを守ってくれていたのに、あっさりと騙されて。
知のタイタリアと呼ばれる家に嫁ぐにふさわしくない。
そう両親から言われていると言われたら悲しい。
彼の両親はティアンにとても優しかった。
ライアンの妹だと知って、とても嬉しく喜んでくれていた。
簡単に人の話を信じてしまい疑うことをしなかったティアンとの婚約は続けられないとハロルドの両親から言われていたとして。ハロルドがそのことを宣告しに来ているとしたら。
ティアンが知っているハロルドは、そんな酷いこと言う人じゃない。
彼の両親もそんなひどい人じゃないと信じている。
けれど違っていたとしたら。
夢が見せる現実的な悪夢は、ティアンを少しずつ不安にさせていった。
頭の中で勝手に負の思考が渦巻いて怖くて……苦しい。
それが、今日に限っては、サリマから強く強く切望に近いお願いをされてしまい、ようやくドアを開けた。
「やあ、ティアン。体調はどう?」
ティアンが顔を覗かせると、ハロルドは安堵して柔らかく微笑む。
屋敷の廊下に、ハロルドが立っている。
紳士然として、今日も小さな花束と、菓子店リグウェイの箱を持っていた。
「……ティアン?」
ハロルドの手が伸びてくる。
その手をひらりとかわして、ドアを広く開けた。
彼が一瞬顔を曇らせた。サリマは心苦しく、目を伏せた。
「良くなりましたわ」
ベルメルト家の夜会以来、十日ぶりの再会だった。
「入れてくれないの?」
「…………」
ティアンはドアを大きく開けた。どきどきと胸が高鳴る。
「……ど、どうぞ」
ティアンは部屋の中に婚約者を手招いた。
「ハロルド様。存じてらっしゃると思いますが、節度は守ってくださいね」
サリマから当然のように忠告を忘れずにしていくと、紅茶の乗ったワゴンごと、ハロルドが部屋の中に押し込まれる。サリマは侯爵家でも容赦がない。
バランスを崩したハロルドを受け止め損ねてしまったティアンは共に床に転がった。
「失礼いたします」
ティアンの私室のドアをサリマは閉めて、平然と立ち去っていく。
「……ハロルド様、大丈夫ですか?」
頭を打ちそうになったティアンを守るように抱えて、ハロドが絨毯の上に転がっている。
絨毯が敷かれているから痛くはない。痛くはないが、それよりも。
ティアンは目を大きく見開いた。
「どうされたのです!?」
頬に大きな湿布を貼ったハロルドの顔は、熱を出していたときのティアンよりも痛々しい。
「いや、何でもないよ」
「何でもなくありません! 父様……はこんなことされませんわ。――まさかと思いますが、お兄様、でしょうか? お兄様ならやりそうです」
「ライアンからのもあるけれど」
「……え、兄も?」
ハロルドは苦笑いをして、湿布のされていない方を向いた。
「こっちに、平手を受けた。拳が飛んでくると思って覚悟していたんだけど。……こっちが父さんだよ」
次に反対側を向いた。痛々しく湿布が貼られている頬の方。
「こっちは容赦なく殴られたから、まだ腫れがひいてなくて」
溜息混じりの苦笑い。
兄が平手をした頬よりも容赦なかったことがうかがえる。
手を伸ばしてそっと湿布に触った。
独特な匂い。手を通して、まだ腫れていることがわかる。
「痛いですか?」
「ティアンが優しく撫でてくれたら痛くない」
真剣な目で訴えてくる。
「わかりましたわ」
撫でたくらいで、腫れが落ち着いていくなら、もうとっくに治っている。
痛みが少しでも和らいでくれるなら、とゆっくりと湿布のうえを撫でていく。
ハロルドが目を閉じてティアンの手に頬を寄せる。
嬉しくて兄に叩かれたと言う頬にも自然と手を出していた。両頬を両手の中に閉じ込めて、優しく撫でて。
「早く、治りますように」
昔、母やライアンがしてくれたように、額に額をくっつけて願った。
額を離すと、びっくりしたハロルドと目が合った。
ハロルドが絨毯から起き上がって、ティアンもならう。
「どうかしました?」
「今のって、俺以外に誰かにやったことある?」
「? はじめてですわ」
「誰にも?」
「お兄様とお母様にされたことはありますけれど、私からはしてません」
「よかった。俺以外もう誰にもしたらダメだからね」
「そんなことわかりませんわ」
「僕以外許さない。しないって言って」
「そんなこと……」
両肩を強く掴まれる。
「言って」
ハロルドの目は真剣だった。
「わかりましたわ。他の方にいたしません」
「破ったらダメだからね」
ティアンに約束をさせると、いつもの彼に戻った、まではいいのだけど。
「抱きしめても平気?」
「痛みを心配されているのでしたら、もう痛くありませんわ」
レオンから殴られたお腹のあざは熱が下がった二日後に痛みは無くなった。
「はあ、ようやくティアンに
なすがままにされていたが、流石に唇が首元に触れると、とめざるおえない。
忘れていけない。ティアンがハロルドの訪問を拒絶した理由を。
「ハロルド様は私にその、婚約を……その」
言葉にしたくなくて言い淀む。
けれど、言わなくては。
「なくしたいのでしょう?」
ハロルドがよろりと後ろにかしいだ。ティアンの両肩を掴んでいる腕が彼を支えて、倒れることはない。
「………………聞いても?」
「ええ」
「何か勘違いしていない?」
「してません」
「……いや、している!」
かばりと顔をあげた。
「誰にそんなこと言われた? レオン? レオンなのか? あの男、ティアンに恐怖を与えただけじゃなく、俺との仲も裂く気なのか!」
「レオン様から何も言われてませんわ! 勘違いもしていません! ただ、あなたが花束をくれるなんて、これまでなかったから。私と離れる前に贈り物をたくさんしてくださったのでしょう? 最後の思い出にと。ハロルド様のご両親から、私のような知力のない令嬢はタイタリアに相応しくないと言われたのでしょう? 違いますの?」
ティアンは悲しみを堪えて、言った。
会うときは花束なんてもらったことない。お菓子も。
「どうしてそんな誤解をするのかは、後にして。ティアンが好きなリグウェイのお菓子を買って、綺麗な花で心が穏やかになってくれればいいと、そう思って持ってきていたんだ。本当なら、リグウェイの菓子はティアンへ直接届けたいのを我慢していたと言うのに!」
「そ、そうでしたの……」
「父や母もティアンの怪我が早く回復することを願ってくれている。両親はキミとの婚約をとても喜んでくれているんだ。そんな酷いこと、言わないよ。父に殴られたのは紳士としてキミを守れなかったことへの罰だ。俺が離れてしまったことで起きてしまったから、父からの当然の制裁。だから気にしないでくれるといい。それと、これ」
ハロルドはポケットから手紙を取り出した。
蝋印は、タイタリア家の紋章。
「母から。返事は急がないけれど、受け取って」
ティアンはその場で開いた。
内容は、ティアンの怪我を心配し、動けるようになったら、お茶会に来てほしいと書かれていた。
そして、ハロルドの婚約者で嬉しいとも。
ティアンの勘違いを読まれたかのようなハロルドの母からの手紙。
そのあとにかかれた一言に、目を見開かずにいられない。
《ハロルドが十年近くも想いを寄せる子が、ようやく婚約相手となり、将来の義理の娘となることが何よりもわたくし嬉しいのです。どうか、このことは内密に。愚息を見捨てないでやって下さいませ。》
「書きます。急いで、ハロルド様のお母様へお返事書きますわ!」
ティアンはハロルドの母からの手紙を一度胸に抱いた。嬉しくて、言葉にできない。
知らないことがこの手紙に書かれていた。
ハロルドは言わないこと。
「何が書いてあったの?」
「内緒です」
「狡いな。気になるじゃないか」
「内緒です」
ティアンは嬉しく笑って、手紙をポケットにしまった。
これは誰にも見せられない。
「ところでどうしてそんな……俺がティアンから離れるって勘違いをしたのか聞いても?」
そうだった。
ハロルドがティアンから離れてしまうと、思ってしまった原因。
「毎日夢を、みたんです。ハロルド様から、婚約を突然やめるって言い出すところから始まって。あまり言いたくありませんが、とても、現実的だったんです」
最初に見てしまったとき、夢か現実か分からなくて。
サリマに思わず聞いてしまったくらい。
「そんな悪夢は二度と起きない。婚約した日に俺は言ったよね? 婚約して、結婚して、死ぬまでずっとティアンは離さない。忘れてしまったなら、何度でも言うよ。信じてくれるまで、生涯何度でも」
ハロルドがティアンの手を取った。
もう一方は自身の背中に。
真剣な眼差しがティアンを見上げてくる。
「ティアン・フレデリー嬢」
「……は、はい!」
緊張して、声がうわずった。
「俺はキミだけを愛してる。生涯キミだけに恋してる。ティアン、頼むから俺から離れるなんて言わないでくれ」
懇願にも似た愛の言葉。胸がときめかないなんてない。
ティアンは彼の手をとって、頬を寄せる。
「勘違いはもうしません。私も、ハロルド様だけですから」
「ちゃんと言って」
「ハロルド様がいいです。他の誰でもない、あなたがいい」
「そうじゃない」
ハロルドが求めている言葉はわかっていた。
いつも意地悪をされているのだ。意地悪したくなってしまう。ふふ、と笑うと不機嫌になった。
これもティアンだけにみせるものだと思うと嬉しい。
「ティアン? 言わないと、離してあげない」
離さないでほしい。
ティアンはハロルドがいい。他の人は知らない。知らないままでいい。
ティアンはハロルドを見上げて微笑んだ。
幼い頃から知っている人。
長年想いを寄せている人。
ティアンはハロルドの手を掴む。
そしてその手に唇を寄せた。
「愛してますわ。ハロルド様」
湿布の貼られた頬に唇を寄せた。
驚くハロルドと少し見つめあって。気恥ずかしくなる。先にティアンが目を逸らすように伏せた。
「……ティアン」
「?」
「…………それは反則だよ!」
ティアンをハロルドは引き寄せた。強く抱きしめられて、息ができない。
もがくと、顎を掴まれて、噛み付くように唇が塞がれた。
「僕を虐めたいの?」
吐息のように囁かれて、ティアンは頷く。
「私の特権ですわ」
「僕のでもあるよ」
肩を引き寄せられて、背中に両腕がまわる。まずは額に。瞼の上、こめかみ。湿布がされていない肌に、順番にキスされる。
唇が軽く触れ合うと、彼の目が変わった。
優しい口づけは、軽いふれあいと、少し長いふれあいと。
息をするのも絶え絶えになって、身体が上気してくる。
ティアンはそれでもハロルドからの愛をもっとほしくて、キスを止めないでいたら、ハロルドに寝台へ押し倒されてしまった。
これ以上はいろいろとよくない。
ティアンは彼を必死に止めた。
お腹が痛むと冗談を真剣に言えばハロルドはぴたりと止まった。
サリマの忠告を破ってしまうところだった。
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