4、ベルメルト家の招待 5
※注意※
残忍な部分があります。
苦手な方は、途中から読み飛ばして、
ひとつめの『◇』まで移動して下さい。
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ゆっくりと意識が浮上する。
頭はむやがかかやったように、はっきりとしない。
起きあがろうにも身体がやけに重くて、力が入らない。
ルアドについて叔母が休む部屋へ向かったことまでは覚えている。
階段を上がって。
なぜか踊り場にいた侍女の側を通り過ぎたところで、ふっと突然に意識を失った。
侍女の周りには、白い煙が浮遊していた。
(どこ?)
きっちりとカーテンがされた窓。
調度品の並べられた棚があって。休憩するためのベッドもある。
顔をさらに動かして、椅子に座る男を見つけた。
「やあ、ティアン。起きた?」
椅子に座っている顔全体を覆った仮面をした、男性。濃い上着を脱いでいて、薄い黄色のシャツを着ている。
男は ティアンがそちらを向くまで辛抱強く待っていた。
ティアンは飛び起きようとして、頭がくらりとした。重たい身体は思うように動いてくれない。
「誰ですの?」
慎重に訊ねると、仮面があっさりとはずされた。
茶色の髪。茶色の瞳。
波打つ髪は、そのままに。
ティアンは呼吸を忘れてしまうほどに瞠目した。
「……。ティアン、僕を待っていてくれた? 僕がくるまで、とても不安だったろう?」
仮面の下から現れた極上の、甘美なるその顔は、欲しいものを手にしたよろこびの笑顔。
「レ、レオン様?」
頬が引き攣っていくのがわかる。かたかたと肩が震える。
指先一本も動かせけない状態で逃げることもなにもできない。
「ど、して」
ベルメルト家の夜会にレオンはほとんど参加したことがない。参加したところを見たことがない。
今夜も参加しないと思っていた。
父はあまり良い顔をしなかった。
屋敷に入ることができなくても、ティアンが身内である叔母に会いたい気持ちは強い。
ティアンが叔母と父との架け橋になれば、いつか叔母も屋敷に戻れると信じていた。
はじめて叔母と会ったのも、このベルメルト家の夜会だった。祖父に似ていると、思わず見てしまった。彼女はティアンが父の娘だとすぐにわかったみたいだった。爵位の低い叔母が伯爵家であるティアンに声はかけられない。
ティアンは、共に参加したライアンに頼んだ。
ライアンは一度、舐めつけるように叔母を見たが、叔母と話す機会を作ってくれた。
彼女は屋敷を出た理由を言わなかった。
ただ、後悔していると、終始言っていた。
兄は信じなかった。
必死に訴える顔は嘘を言っていない。だからティアンだけでも信じてあげた。
父にそのことは伝えてはいけないと兄に言われたから、ティアンは父にも母にも、叔母が後悔に苛まれていると伝えなかった。
――ティアンはのちに、叔母が過去にしたことを知る。
叔母と会うことで、叔母の思いが少しでも父に届けばいい。そんな思いで、ベルメルト家の夜会に参加をしていた。
ベルメルト家の嫡男は、レオンと同じ職場にいた。
二人の仲はそれなりに良いらしく、夜会へ招待をするほどと聞く。
今回ほど、会いたくないと思ったことはない。姿はなくて安堵した。
それなのに。
一体どこに彼は潜んでいたんだろう。
「キミは必ず参加すると知っていた。ティアンをタイタリアの男から僕の元に取り返すために、手段は選んでいられない。キミがいるとわかっていたら、当然僕も参加するだろう? 今夜は仮面がある。身分を隠せるなんて、これほどにいい夜会の日に、ティアンをこの手に取り戻せるなんて」
レオンは被っていた仮面に、頬を擦り寄せた。
レオンが持つ仮面は全体を覆うものだった。
会場に紛れていても、この仮面では、ティアンはとても気づくことができない。
唯一の手がかりとして挙げるならば髪型だろう。
それも、仮面の中に隠されていなければの話になる。
「ティアンをあいつから取り返せた。こんなに喜ばしい夜会はこれまでにない」
くつくつと楽しく笑う。
「許されません、こんなこと」
「誰が? この僕を許さない人はここに誰もいない。この夜会で最も権力がある僕を誰が許さないの?」
ティアンは、唾をごくりと飲んだ。
レオンが持っていた仮面が床にほうられて、転がっていく。
ティアンの仮面はとっくに外されていてなかった。
「少々強引でも、この手にキミが戻ってこれば構わない」
レオンは椅子から立ち上がった。
「こ、ここは叔母の、休憩室……でしょう!?」
「キミの叔母さんは一階のどこかの部屋に閉じ込めている。ここではない」
長椅子に横たわり、動けないティアンに覆いかぶさる。
乱れた髪を一房、とった。そこにおのれのものと誇示するように唇が触れそうになって、ぴたりと止まった。
青の宝石が煌めく胸元のネックレスを見つけ、眉を顰めた。
「誰にもらった?」
「これは、私が父様からもらって……」
視線が泳がないように気をつける。
本当は誰にもらったかなんて言いたくない。
「嘘はいけない」
どきりとした。
どうして違うとわかってしまうの。
ネックレスのお手入れはサリマにお願いしてあった。汚れひとつなく綺麗に磨き上げられた宝石は光をすって、煌びやかに輝く。
「僕があげたもの以外はしちゃダメだろう? ティアン」
レオンはティアンのネックレスに指をかけて、力任せに引っ張る。
チェーンが首元に食い込んでくる。
「いたっ」
力に耐えられなくなったチェーンが勢いよくはじけ飛んだ。チェーンの飾りもバラバラになって欠片がほうぼうへ床に飛び散った。
残った残骸は床へ乱暴に投げ捨てられた。
ハロルドからもらった大切なものが一瞬にして無惨な姿になる。
「こんなことをして、いいわけないですわ」
声が震える。
怖くて、恐ろしくて。
涙が溢れた。
「許される。僕の力をもってすれば……簡単だ」
顔が近づいた。
抵抗したいのに、思うように動いてくれない。
「動かせないだろう? キミにとてもよく効く香を焚いている。リーティアがね、仕込んでくれてたんだ。いい子だよね」
レオンはティアンが使っていた仮面をみせる。
あれは会場に入る扉の前で交換したものだった。
最初は薄い紫色の蝶のような形。
ちょうど、叔母の部屋へ向かう途中のことだった。
背の低い女性が、仮面のデザインが気に入らないから、交換してほしいとせがまれて、交換をした。
新たにした仮面は、燃えるような赤。ピンクの羽が一本、縁に彩りを与えていただけで、可愛さはない。仮面に何の思い入れもないティアンは、快く交換した。
この交換も、ティアンにこの仮面をさせるために、仮面に細工をさせていたなんて。
「本当はリーティアが使うために用意してたらしいが、好意で僕が使わせてもらった。この仮面に塗られた香りを存分に吸ったキミは抵抗できないよ」
恐怖に顔が歪む。
「婚約者もきていたようだけど、いまはどこだろうね?」
顔が引き攣った。
体に力は入らない。
けれど、声は出せる。
「ハロルド様っ!!」
ティアンはここにいると、知らせるように叫んだ。
口になにもしていないことがレオンによって不運とも言えた。
もう一度。
「ハロ……っ」
もう一度、声を上げた口を、レオンが片手で塞ぐ。
「黙れ、黙れ、黙っていろ!! 痛ければ、声も出せまいな」
バシン! バシン!!
手がどけられてすぐ、両頬を強く叩かれた。口の粘膜を歯で傷つけてしまって痛い。
レオンのたたきは両頬に一回ですまなかった。
二、三回繰り返されて、ティアンはただ、痛みに耐えるしかない。
声を出させないためだけの仕打ちは痛みしかない。
「つぅ……」
「大人しくしていれば、なにも痛いことなかったのにな?」
力がまったく入らない。
なにも抵抗できなくて、悔しくて、涙が一筋、頬を伝い落ちた。
それをどう感じたのか。レオンは嬉しそうに笑った。
「ティアン」
レオンがゆっくりと、今度こそ、ティアンに覆いかぶさる。
「僕と婚約するって、ハロルドとキミの両親に言うんだ。そうしたら、ここから解放してあげる」
「……言わ、ないわ」
バシン。
再び頬に痛みがくる。
「言わなければずっとこのままだ。どこまで抵抗できるか……楽しみだ」
貴族に合わない下卑た笑いがティアンの耳元でした。
レオンはティアンの身体にそうようにして、顔が近づく。
何をされるか恐ろしくて、目が離せない。
瞬きも恐ろしい。溢れる涙は止められなくて。
「僕がどうしてここまで、キミに執着していると思う? 伯爵家なんて、正直、僕の結婚相手にもならない」
ティアンは身体を縮こまらせた。
聞かずにいられない。
「どうして、わたくしなのですか?」
「キミが、あいつらの。ライアンの妹で、ハロルドが昔から好いてる女だからだ! あいつらはことごとく俺を見下して。お前は知っているだろう? 武のラデリート家と呼ばれていることを!! ライアンは武のなかでも強いとされる俺を差し置いて、一つの国軍の隊長を任せられた。あの男の下で、あの男の命で、なぜ武のラデリート家と呼ばれる俺が動かなきゃならない!? ハロルドもそうだ。学院時代、あいつは俺よりも剣の腕がよかった。知のタイタリア家と言われているのに、知力も武力も俺より強く、俺が喉から手が出るほどにほしい軍からの推薦をけって、あいつは王宮の司書官に自ら志願した。俺がほしいものを簡単に捨てたんだ。こんな屈辱が、こんな辱め、あってたまるか!! だったら二人の大切な女を、俺の手で破滅に追いやって、怒り狂う男たちの歪んだ顔を見て、高らかに笑う、それ以外に理由なぞいるか!? いらないだろう!」
そんなことって。
そんな理由で。
「当然、俺の気持ちわかってくれたよね? ハロルドと離れて、俺のになってくれるよね?」
レオンは乱れた呼吸を整えて、厚薄に笑った。ティアンの顎を掴んだ。
鋭く歪んだ感情の視線と、まだなにも諦めていない視線が絡み合う。
助けは必ずくる。信じてる。
いつまでも他人の屋敷にティアンを閉じ込めていられない。
「気に食わない。未来の夫にそんな目を向けるな」
再び。強烈な痛みを頬に受けた。
ジンジンとする。
「……」
声は上げられない。レオンはティアンから「はい」以外を求めていない。
腕も足も動かせない。
抵抗できるのは言葉だけだった。
「素直に「はい」と言え!」
再び手が振り上げられる。
ティアンは目を瞑った。バシン。頬が叩かれた。
痛い。
頬の痛みは鈍くなっていた。腫れ上がってきているのがわかる。
それでも、言いたくない。
やっと、長く想っていたハロルドと婚約できたことが、夢のようで。
ハロルドから過度なスキンシップが、彼が与えてくれるものすべてが嬉しくて、婚約をやめたいなんて言いたくない。
すると、痺れを切らしたのか、今度は強い衝撃がお腹にきた。
「いっ」
驚きに目を見開くと、コルセットに覆われたお腹の上に、拳があった。
レオンが皮肉げに笑う。
もう一度、張り上げられた拳が、今度は横腹に振り下ろされて、意識が飛びそうになる。
頬を叩かれる比ではない痛み。強い衝撃。耐えられない。
「今度はなにして欲しい? 早く「はい」って言えば、もう痛いことはしない。約束しよう」
ゆっくりとその手が持ち上げられる。
首を振ることもできない。
身体の自由がきかない。
涙が途切れなく溢れる。
「伯爵令嬢の立場で強情だな。はい、と言えばいいものを。口はそのために、解放してあるだろう。それとも、はいと言えるようなこと、ここでして欲しいのか? それとも、待ってる?」
残酷に笑った。
その顔はティアンを好いている男の顔ではなかった。
復讐に燃える男の顔をしていた。
ティアンの上からレオンが動いた。
もう痛い思いをしなくていいんだと、緊迫した心を緩めた瞬間のこと。
びり、びり。
静寂を裂くいやな音がした。
「なに、を、してます、の」
ティアンの顔が凍りつく。
彼の手がスカートにあった。
力任せに、引っ張られたスカートは無惨にも破れている。さらに笑いながら、ビリリと布を裂いていく。
ティアンは、怯えた。
レオンがよろこびに目が笑う。
「はい、って言わないから、だよ。自分を悔いなさい」
スカートのつなぎ目まで裂かれた後。さらに布が裂ける音がした。
ひどく恐ろしくて、目を向けなくて、声も出せない。
◇
「ティアン!」
部屋ドアが勢いよく開かれて、ライアンとハロルドが押し入ってきた。
その背後には、顔面を蒼白にしたベルメルト現当主。ルアド。叔母が廊下に立っている。
ライアンが今にも手を出しそうなハロルドを止めた。
彼の胸の前に、片腕を出して、それ以上行けないようにする。
「待て、ハロルド。お前は手を出すな」
ここはハロルドの関係のない屋敷になる。
「当主に任せるんだ。ハロルドは……」
ライアンが顔を向けた。
長椅子の背越しにティアンのドレスが見える。
そうだ。レオンよりもティアンが先だ。
大股で長椅子に近づいて……ハロルドは怒りを覚えた。
言葉にできない。
スカートが無惨に裂かれたドレスに、赤く腫れ上がった頬。
泣きじゃくって、真っ赤になった瞳。
「ごめん、ティアン。遅くなってしまった」
ハロルドの表情が痛みに歪む。
この怒りの先は当然、レオンへ向いた。
レオンはすでに、後から来た護衛の兵に手首をとられ、自由を奪われている。
「泊まる、部屋を貸して欲しいと言われたのは……。こんな、このようなことをするためだったのですか! ラデリート侯爵嫡男どの!!」
廊下から声を震わせてて、ベルメルト当主が怒りに絶叫した。
◇
「…………ティアン。ティアン! 聞こえてる? ティアン!」
声がする。
ティアンを必死に呼ぶ声。
うっすらと目を開けて、ティアンは声がする方に目を向けた。
「ティアン!!」
「……ハ、ロ……ルド――さまっ」
緊張と、恐怖で声がしわがれていた。
レオンは部屋にいなかった。代わりに、ハロルドがいる。
「遅くなって、ごめん」
そんなことないと首を振りたくても、力が入らなくて動かない。
ハロルドが一度、強くティアンを抱きしめてくれる。
恐怖と緊張に支配された心がゆっくりとほぐされていく。
離れていくそぶりをした。周囲を気にしている。
「……いか、ないで」
ティアンは涙を目にいっぱい浮かべてハロルドをとめた。ハロルドに手を伸ばしたいのに、できない。
必死に腕に力を入れているのに、動かなくて、悔しい。
「いかないよ。キミからもう離れない」
ふたたび、ティアンを抱きしめてくれる。きつくて、呼吸がしにくくても、嬉しい。
抱きしめ返したいのに、できなくてもどかしい。
ぽろりと涙がこぼれ落ちる。ハロルドが指の腹で拭ってくれた。
「ティアン、もう大丈夫。大丈夫だから安心して」
ティアンの姿に苦しそうに顔を歪めるハロルドが、なぜだか可愛くみえた。
「ありがとうございます」
ティアンの異変に、ライアンが真っ先に気づき部屋を見回す。
独特な香りが部屋に充満していた。
「ハロルド、香のせいだ。これは……頭かがおかしくなりそうだ」
ライアンは調度品に隠されて置かれた、独特な香りを出す香をみつけ、すぐに廊下へ出した。
窓を開けると、香りが薄れていく。
ライアンも煮え返るほど怒っていた。
ハロルドは素早く上着を脱ぐと、ティアンのスカートの上にかけてくれた。
起き上がれないティアンをゆっくりと起き上がらせて、腕の中に抱く。
「ハロルド様」
香のせいで鼻がおかしくなって、好きな人の匂いがしない。
「遅くなって、悪い」
絞り出す声の中に怒りが混じっている。
「ハロルド様」
ティアンは掠れる声でもう一度呼んだ。
離れていかないでほしい。
彼の匂いがしない。
「ハロルド様」
どうしたらいいのかわからなくて、名を呼びつづけて。
頬を涙が伝う。
「どうしたの? なにかしてほしい?」
声に優しさが取り戻された。怒りを隠したいるだけかも知れなくても、いつものハロルドだ。
ティアンは胸を撫で下ろした。
「ネックレス壊れてしまったの、ごめんなさい」
ハロルドがくれた大切なネックレスが床に散らばっている。
ティアンの首元に、くっきりとチェーンの跡がついていた。
「いいんだ、キミが無事だったんだから。ネックレスくらい」
ハロルドは強くティアンを抱きしめてくれた。
温かな体温に強張った心が溶けていく。
ようやく帰ってきたと実感した。
少し、彼の香りを感じる。
「兄様。私、早く帰りたい。ここにいたくないの。お願い」
ライアンはハロルドにティアンを優先させてくれと言った。
ハロルドは言う通りにした。
躊躇いもなく抱き上げられて、ハロルドの胸に頭を預ける。そして、気がついた。
「これ、どこでつけたの?」
ハロルドの唇の端にうっすらと紅がついていた。
「どこ? なにを?」
レオンの言葉に、今更不安になって、怯える。
ティアンが言いたくなくて口をつぐむ。
ハロルドが気づいていないうちにあとをつけるなんて、なんて周到な令嬢だろう。
ハロルドはティアンを一度下ろして、頬を手の甲で擦った。紅が移る。
瞬間、ひどく狼狽えた。
「ティアン、違うんだ! これは」
ハロルドが否定をする。必死になって。
そうすればするほど、ティアンは不安になる。
ティアンから離れた間、ハロルドは誰かといたのだ。ティアン以外の女の人を近くに居させて。こんなあとまで残して。
ティアンが再び、涙を浮かべる。
「ティアン、ハロルドも大変だったんだ」
慌てふためくハロルドに、ライアンが助け舟を出した。でも、紅がつくほどに近くに女性を近づけたなんて、許せない。
「ハロルド様の、ばか」
ティアンは途端に不機嫌になる。
ハロルドに触っていいのは、ティアンだけ。
他の令嬢を近づけさせないでほしい。
腕が、手が痺れたようになっていて動かさなくてもどかしい。
「ハロルドも罠に引っかかった。そう言えばいいだけだろ」
ライアンの一言は余計だった。
「そんな簡単な話じゃな……、ライアン!」
ライアンはあっさりと先に部屋を出て行ってしまう。
ハロルドの頬が少し赤くなっている。
そんなにいい時間をその人と過ごしたのかと考えるだけで嫌だった。
「ハロルド様」
強めに名を呼ぶ。
ハロルドが慌てふためいた。
「これは……ごめん。どう言っても言い訳だよ。けれど、俺はティアンだけだから。信じて」
慌てる姿が可愛く見えてきて、くすりと笑った。
ようやく香が抜けて、ティアンは、彼の首に両手を回した。
「ハロルド様は私の、です」
「そうだよ、ティアン。ティアンも、俺のだよ」
ハロルドはティアンの額に口づけをして、強く抱きしめてくれた。
揺れる馬車の中。
ハロルドはティアンを膝の上に乗せていた。
ハロルドについた紅は拭い取られているので、手には何もつかない。ここにどこかの令嬢が口づけたのかと考えるだけで、怒りが湧いた。
無意識に手を伸ばして、指先で、紅があった場所をこする。
まだ、印が付いているようで嫌でたまらない。
「なに? どうかしたかい?」
不思議そうな目と合う。
はっとして、手を引っ込めた。
「なんでも、ありませんわ」
こんなに強く誰かに、嫉妬したなんて言えない。
「どこでも触っていいよ。不安にさせたお詫び」
引っ込めた手を掴んで、それを頬に持ってくる。
無意識下でできても、意識すると途端にできなくなる。不思議だ。
「やめて、くださる!?」
手を強く振るとあっさりと振り解けた。
「じゃあ僕がするね?」
手首をつかまれて、手のひらに唇を寄せられる。
そこから手首、腕、ドレスの裾から覗く腕と順番に上がっていく。
首元に息がかかって。
「これ以上は……やめて!」
ティアンは目を回して彼を止めた。
「それじゃあ、今度はティアンがして?」
ハロルドが屈んで、唇の端をティアンに近づける。
彼はとっくに知っていた。
ここに別の誰かがつけた紅に怒っていると。
ティアンは戸惑った。
暗く照明の落とされた馬車の中。
二人以外誰もいない空間。
ティアンは手を伸ばして頬を掴んで。同じ場所にキスをした。目測を誤って、唇に近くなってしまった。気づかないでほしい。
すぐに手を離して俯く。
こんな恥ずかしいことしたことがない。
「はあ、かわいくて離してあげられなくなるから自重して」
「あなたがしてって言ったのでしょ!」
「ティアンからの嫉妬は愛されてるって感じれて嬉しいんだ」
ぷに、と唐突に両頬を片手でつかまれた。
「なっ」
嫉妬してるとも知られてしまっていた。
「俺を好きだって、愛されてるって実感できる」
逃げていってしまわないように、肩に腕が乗せられる。
頬は掴まれて、腕に囚われて。
ティアンはハロルドの膝の上から逃げられない。
「言って? ティアン。好きだって」
「……す、好きよっ」
請われるままに伝える。
「もっと言って」
「好き」
「まだ足りない」
「だ、大好きよ。もう、ずっと、あなただけ」
何度でも伝える。彼に想いが伝わるまで。
「まだ俺の方が強いかな」
「そんなこと、ありませんわ!」
頬から手が離れて。
「愛してるよ、ティアン。もう離してあげないから覚悟しててね?」
意地悪はこんな時でも健在していた。
にっこりと憎らしく笑うと、強引にキスされて、強く抱きしめられた。それからも、彼からの一方的な愛が強くてティアンは降参する。
この腕は誰よりも、すごく安心できる。
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